多くの人々は、この世界に生れた瞬間から、この世界の人間の意識波動にやむかたなく適応する過程を通じて、自らの魂意識波動を低下させることになる。
簡単に言うならば、オギャーと生まれた瞬間から、この世界の人間達の信じる観念に多かれ少なかれ染まってゆくということでもある。
その時々で常識と考える想いの群れを、知る知らずに関わらず、自らにインプットするということでもある。
今のあなたは、何十年かに渡ったこの世界での思考と経験を通じて、今のあなたという存在感覚、あるいは自覚を造り上げているのである。
今の我々のすべては、そういう風にして・・・、今ここにいるのだ。
ところで、
全ての人存在は、その自覚の希薄さや密度の違いはあっても、「我あり」または「わたしは在る」あるいは「生きて今在る」という自意識を持っている。
この意識的意識・・の有り方は、宇宙に遍在せる意識・・・人の謂うところの神なる意識の有り方そのものである。
・・・・あなたはこのことに気付くことが出来るはずだ。
それに気付くために、
どんな複雑な知識や名誉や富も何の支えにもならない。
どんな複雑な計算式もお笑いネタも快楽も実に何の役にも立たない。
あなたは・・・今ここ・・に在ることに・・気づいている!
実に当たり前のことだが、ゆっくりと真摯に感じてみるべきであろう。
極めて、単純でシンプルで、無限に身近な・・・<あなた>自身の有り方に気付くはずである。
その自意識、あるいは確かな自己存在の感覚こそは、あなたとしての魂の証し(あかし)なのである。
言葉を変えて言うならば、あなたもわたし達も根源意識から放たれた不滅の光・波動であるということも出来るだろう。
その不滅の光、あるいは全ての可能性を潜在的に有する意識的波動が、あなたやわたし達の魂・意識というものであり、
その魂意識が、その無限の可能性の潜在する意識波動を、ある意味で自ら上げ下げすることで、様々な周波数帯域にアクセス、あるいは自己投入、あるいはその世界に参入することになる。
そうやって無数の根源から放たれた光・波動に、様々な創造世界の情報が行き渡り、あるいは根源に伝わることで、宇宙の創造を観察・確認が出来るのである。
この3次元的な表層世界に生きていることでその事実を忘れているかもしれないが、
人が皆それぞれ創造者であるとか、神の一人子であるとか、仏であるとか、神々であるとかのどこか宗教がかった表明も、実のところは嘘でも比喩でもないのである。
単純過ぎることで「真実」を見逃している間に、我々はまさに放蕩息子のごとく、根のない状態で世界の中をほっつき歩き、あるいは傷つき、あるいは気付けば孤独に涙し、時には儚くも消える栄華に身をささげる場合もあるだろう。
例えばあなたの今までの人生はどうだったろうか・・・。
右に行き、左に戻り、前にめりに転んで、後ろ向きに倒れ、ある時にはわけもわからぬ無明の人々の足蹴りに合うこともあったかも知れない。
今の世相、世界の騒ぎは、まさにそうしたことが濃密に圧縮されたような混乱状態を示している。
それはある意味で、この世界で味わえる最後の混乱を体験したい者達のお祭り騒ぎでもあろうか。
今のこの時期は、そうした遅れて開花しつつある魂意識達も多いのだが、気付ける者達、あるいは魂の猛者にとっては、それに合わせる必要も既に無く、またことさらの繰り返しをすることも無いはずである。
変えるべきは外の世界ではなく、自分自身であることを真に理解している者達は、外の騒ぎに巻き込まれることもない。
ここが・・思案のしどころ、あるいは別れ道とも言えるだろう。
・・・
確かにこの地球という世界は有限時空換算での数千年以上に渡り、エゴで代表されるような我勝ち、我良しの観念が主流であったとも言えようか。
こうして、この世界に下生する人々は、そのわけもわからず、理由も知らず、自らが何者であるかの片鱗すらも気付かず、野放図で粗野で荒い観念まみれの世界に繰り返し生きてきたのだ。
そういう意味では、これをご覧のあなたも、わたしも、誰も皆、相当な『魂意識の猛者』である。
・・・・
この世界にあっても、どの世界にあっても、あなたや私達という自覚ある魂意識は、知覚と体験と思考と感情を通じて自らが何者であるかというところの真髄を模索しているとも言えるだろう。
そうすることで、魂意識は創造自体を観察・確認、あるいは様々な次元体験をしながら、自らの根源に還ってゆくというプロセスを経験しているということだ。
根源からの発祥と帰還のサイクル、それは即ち「道」と言われるものでもあろうか。
あるいは阿吽・・の呼吸のようなものだろうか。
あるいは寄せては引くさざ波のサイクルのようなものだろうか。
生きてある意識達は、すべからく嫌も応もなく、実のところは嬉しく楽しいがゆえに、その「道」を通じて散策し、帰還することを意図したわけであり、またそれはいわゆる神の自己発見のゲームとも言っても良いかもしれない。
少なくとも、生とは・・・・『嬉しく楽しい』ことが本質であることに気付けることだろう。
・・・
今あなたがこの世界に於いて「われ有り」という自覚を持って存在していることは、それ即ち神、根源、あるいは無限の意識・・・そのものであることを示している。
あなたがあなたである・・という自覚を持ち、それを『意識できる』ということは、あなたという存在の根本的な有り方を示しているのである。
しかしながら往々にして、この世界の荒い意識波動、すなわち想念や表現の乱れまくった有様によってそちらに引っ張られるような人生を歩くことによって、それになかなか気づけない場合があるものである。
その有様を表現するならば、まるで3流映画に観入っているようなものなのだ。
あなたとは、時に嫌々しながらあるいは時に嬉々として、人生という3次元的自己体験映画に観入っている観客のようなものである。
ところがある時、その映画を見入っている自身に判然と気付く時がくるのである。
その時とは、それはその上映されてきた映画のまさに終わりの時なのである。
それは1人1人が悟りや解脱によって、不自由な体験世界を自らで超えてゆく時代ではなく、大勢の魂意識が嫌も応もなく気付くべき稀有な時なのである。
それをいわゆるアセンション、次元上昇とも呼んでいるはずだ。
この地球上の人類意識が営んできた古い文明形態の終わりに差し掛かかり、今大勢の魂意識達が目覚めて来ていることにあなたも気付けるはずである。
今こそはまさに稀有な時なのである。
あるいは、人のことはさておいても、あなたはあなたの意識が拡大していることに自らがどこか気づいていることだろう。
なるほど、真実とは、気付けばいつでもどこでもあるものなのだ。
人に依らず、物に依らず、名前によらず、形に依らず、あるいは想いさえにも依らず、
ただ存在している、あるいは生かされている、今のこの瞬間の『事実』に意識を戻す時である。
それぞれのわたしは、・・・今この瞬間に・・・在る!
それはこの世界での生や死、良し悪しの観念、ましてや物質の栄華等によって左右されたり、消え去ったりすることのない、
あなたやわたし達の真実である。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。