脳波におけるベータ波は、細かな作業や気を使うようなことや、本意ではない忙しさにある時等に現われるものだと考えることが出来る。
脳波は思考や感情による影響を含め、体の様々な組織細胞間の信号伝達を含めた総合的な電気信号波形とも言えるかもしれない。
体や呼吸、そして精神がリラックスした状態では、脳波にも、そのゆっくりした波形が確実に現われることが知られている。
それがアルファー波である。
出来ればこのようなゆったりした、あるいはリラックスした状態が続くことが、身体と精神のために必要なことである。
しかしながら、精神の影響によって呼吸や身体が反応することを忘れてはならない。
もともと身体はそれ自体を維持することが出来るわけであり、精神的な余計な干渉をしなければ、それ自身で最も楽な状態を保つことが出来るようになっている。
また身体機能の維持は、いわば潜在意識的な機能によるものであり、不随意な働きである。
要するに黙っていてもバランス良く働いているわけだ。
体がバランスを崩すと「苦痛」となって意識に浮かびあがるが、苦痛の元を無くすと元に戻るのは誰でも知っているだろう。
何かにぶつかって衝撃を受けた場合にも、その衝撃がやめば元に戻る。
ところが身体は、人間の思考、感情、想いによって影響を受けていることも事実なのである。
物質で構成された目に見える身体が、目に見えない思考や感情で大きく影響を受けているということだ。
昔から言われる 「病は気から・・」 は単なる比喩や傾向のことではなく、明らかな事実であることを知っておかねばならない。
例えば何かに悩んでそれが続くと、実際に胃のあたりが重くなり、そのこころのパターンが改善されないと、胃潰瘍等になる場合があるのは、誰でも知っていることだ。
また、不本意であったとしても、いわゆる歪んだ想いを続けると、その歪みが身体や、さらに外側の人間関係にもあらわれてくることも事実である。
身体を含め様々な自分の世界の事象の元にある「想い」こそが、それらの原因であり、
起きてくる現象を何でもかんでも偶然のせいだとすることは、実のところ甚だしい無知と言えるのだ。
人がどこに行くにも、何をするにも、まず「想い」が先にあるはずである。
人が人を評価するのも、その人の「想い」である。
良い人悪い人、好きな人嫌いな人・・などと評価するのも「想い」に他ならない。
想いや感情は 「想念」 と言われている意識の働きであり、それは目に見えるものではないが、逆に目に見えるもの、現象化への遠因となっている。
ここで遠因というのは、物と物の作用と反作用のような単純な因果関係では表せないが故である。
どういう思いが、どういう結果になるのかを深く知ることが、人間関係の目的ともいえるテーマである。
社会の中でのその多くの悩み、こころの歪みが「人間関係」の中から生れてくることは誰でも知っていることだろう。
お金の有る無しの表面的な話ではない。
社会とは、そもそも他者とのまずい関係に満ちているのではないだろうか。
人々の悩み、苦悩の多くは、家族、近所、勤め先、親戚、社会組織、国家等を含め、人間関係の歪みに他ならないのではないだろうか。
それら全ての苦悩も、その当該事象の歪み自体ではなく、それを見る、判断する、あるいは物差しで測るような、その人その人の「想い」からきているのだ。
現象、事象、生起する物事は、ただ結果であり・・原因によって、あるがままに起きていることであるが、
それに対する想いという個々人の「意識」のフィルターによって、
善とか悪とか、好きとか嫌いとか、安心だとか、怖れだとかが醸し出されてくるのだ。
その意識のフィルターというものは、ほとんどが「自我の存続にとって」という物差しで出来ている場合が多いだろう。
また自我の存続目的と、それを脅かすことへの「恐怖」で色づけされている場合が多いだろう。
この人間世界での様々な現象は、全て人の「想い」の現われであるが、その中にある自我へのこだわり「執着」と、それを棄損する可能性への「恐怖」が支配的になってはいないだろうか。
常に、何とかしなければ、より良く、より安全に・・・という状態に置かれてはいないだろうか。
その裏にあるのが、現状への不安と、怖れであることを見てとれるだろうか。
そう、
問題なのは、外の現象、事象自体のことではなく、それを生じさせる因たる「想念」のほうにあるのだ。
まず、これに気づかなければならない。
こころも確かに原因だが・・、というレベルではなく、
人間世界のほとんど全てが人間の「想念」によって生起しているということなのだ。
これが理解可能であれば、我々の行うべきことは、我々の「想い」への気づきと、それ自体の浄化ということになる。
それが 「こころの浄化」 と言われるものである。
各人各人の対象たるべきものは、他人の想いや行動ではなく、
「自らの想い」や行動のほうなのである。
自分のこころを洗えずして、他者のこころを洗って差し上げます・・ということではなく、
それぞれの<わたし>が、それぞれの<わたし>の意識の表現形態を洗うということである。
自らが自らの発する想いを観てとり、フィードバックを掛け、歪まぬように心がけることが真っ先に必要なことであり、
さらに必要なのは、全てのものごとに対する、良し悪しという自我の存続のためだけの判断基準<ジャッジ>を設けないことなのだ。
自己判断・ジャッジを行うことにより、良いも悪いも含めた「あるがまま」を見損ない、そのジャッジにより「葛藤」「戦い」「苦悩」が生まれることになるのだ。
それがまたまた、葛藤や戦いや、苦悩の現象を生み出すループを作っているのだ。
「あるがまま」とは、本来大自然のごとく有る・・ということでもあり、人的社会の汚れや不正をそのまま許すことではないし、
何もしないでのんべんだらりとすることでもない。
起きている様々な事象、現象を、そのまま直視し、客観視し、ものごとの本質を捉えるということなのだ。
それが出来る人々が増えてくれば、わけのわからない現象に振り回され、こずかれ、ひきづられること自体が消えてゆくことになる。
まず、自己の様々な「想い」を観ることである。
そうすれば他者の「想い」も見えるようになり、
嘘も隠しも消えてゆくのだ。
自らの想いを観ることが出来れば、そこにある様々な歪みや影にも気づけることになる。
自己の想念を観る位置に立てれば、人間関係や様々な現象・事象の上に立つことになるだろう。
汚濁の川の岸辺に上がり、その流れにはもう影響されることはないだろう。
・・・・
例えば、その時の人間の「脳波」は、アルファ―波になるにちがいない。
ゆったりとリラックスした意識状態から生れるものは、
新たな洞察であり、直感知であり、
そして、人と人の想いが共鳴する世界である。
「想い」はもう人々を振り回す暴れ馬の役目を終えるのだ。
制御の効かない暴れ馬が、どんなことも可能な魔法の杖に変化するだろう。
人々は、物からさらに因たる意識への気づきにいたり、
その意識さえも観ている・・・
神なるものの一片ともいえる、
本来のあなたやわたし達に戻るのだ。
我々は本来、肉体でなく、こころでもなく、
それを含み、それを超えている、
ありとあらゆる存在諸世界における、全ての因、
唯一の<わたし>から出て来ているのだから。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。