ハイアーセルフとは直訳すれば高次の自己ということだ。
高次の自己とは、高い次元、高次元の自己とも言えるだろう。
例えば3次元は4、5、6、次元というものと別個な次元ではなく、4,5,6次元に含まれていることは直感的に理解できるだろう。
比喩的に言えば高次元とは今の認識次元より高く、広く、それを含んでいるというのも容易に理解可能であろう。
従って、良くいわれるハイアーセルフとは、今の「私」を含んでいるところの、より高次の「わたし」ということが出来るのだ。
ハイアーセルフ、多分それは「より高次のわたし」と言った方がいいかもしれない。
なぜなら高みには極みが無いと考えるからだ。
極みの次元というものがあれば、それは根源のわたし、大いなるものとしての極み、神なるもの、あるいは一なるものということである。
精神世界で言うハイアーセルフ・より高次の自己も、本来はことさら目新しいものではなく、
古(いにしえ)より続いてきた、修行や諸体験を通じての悟りや解脱の道を歩む意識達の中に既に気づかれていたことである。
いわゆるより広く高い見識を身につけることが、魂の研鑽や修行であるならば、それは極めて当たり前のことであり、
実際は今更ながら西洋の言葉で表現することもないはずであるが、それはハイアーセルフに至る本来の人の道を、西洋的な意識でも気づいてきたと言えるだろうか。
世界の様相から見るに、右脳的な東洋と、左脳的な西洋が共振し始めたとも言えるだろうか。
それらが最も顕著な地上の地域は、今は東洋と西洋がごちゃまぜになっている感があるこの日本であると思われる。
・・・
より広く高い見識を身につけるということは、単なる知識の集積ではなく、知ることで自らの表現主体・「わたし」認識が、変化してゆくということである。
本当に「知る」ということは、識(し)る、または見るという事でもあり、あるいは観ることで自己自身がより広く高い意識へと変化してゆくということである。
それは即ち、「自己認識」といってもいいだろうし、また、宇宙の構造自体に織り込まれている相似象、フラクタルなあり方からもわかるように、
それは即ち、人類の極みにある概念である「神」、あるいは「一なる根源」の有り方と同じなのである。
宇宙全ての諸現象は、創造の根源の絶えざる自己認識と言えるだろう。
物質が勝手に偶然に動き回っているわけはなく、
神なるものの意識そのものが表れているということである。
従って、今のわたし達、すなわち個としての意識は、神と言えるが、極みには至らぬ自己認識をもっているがゆえにこそ、神の子などと呼ばれるのである。
そしていわゆる「一なるもの」、「神」、「根源」は、いわば子だくさんであり、
あなたもわたし達も、そして全ての存在がその子供たちと言うことも出来るだろう。
子供たちが成長するように、「わたし」達もより大きく広いという表現がいいかどうかは別として、 より高次の「わたし」に気づいてゆく途上にあるということだ。
また、今は、その意識的な成長の転換期にあるようだ。
地上の1人1人が「共通現実」として意識的・無意識的に創り上げてきたこの地球という次元世界も、大きく転換して行くターニングポイントにある。
ごく表層の人的世界の騒ぎの頻発や、大自然レベルでの変化・変動の増大は、それを外側から示しているものであろう。
それがたとえ自然的であろうと、人為的であろうと、この多次元的宇宙の中で生起するものであり、大自然の中の現象に違いはない。
すなわち全ては必然的な事象であると思われる。
どのような事象が起きようと、あるいは起きなかろうと
大切なことは、世間的な常識観念を排除して、自らの内奥からの気づきに注目すべき時であるということだ。
眼の前の現象のみにくぎ付けになることは間違いなく愚かなことであり、
気づくべきは、それらを現象として観じている、あるいは投影している、それぞれのわたし達の内面が、大きなターニング点にあることである。
気づくべきは、一大変化を遂げつつあるように見える外の世界が、一体どうなるのかということではなく、
それを体験しているところの、一段と大きく拡大しつつある、それぞれの「わたし」なのだ。
ハイアーセルフである、より高次のわたしは、
どこか遠い高所にあるわけでもなく、
「今ここ」にある。
「今」ここに、既に現われているのだ。
たとえ世俗的な様々な観念で覆われていたとしても、
うっすらとでも感じるはずなのだ。
自らの周りに、尤もらしく、あるいはうず高く積まれた観念の覆いを取り去って、
今のこの瞬間を感じてみようか。
そのためには、まず、外の騒がしい映画を見る目、即ち意識の向きを転じ、われわれ自らの内面を注視する方向に切り替えることが大切なことである。
あなたも、
わたし達も、
今 この瞬間に ある。
一は即ち、多であり、
多は即ち、一である・・。
多であるものは即ち、一から生じるのだ。
あなたである、一・・・は、
あなたではないと思っている全てのもの、すなわち多と、
元はひとつである。
(つづく)
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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