気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

ハイアーセルフ(3) 私を観ている「わたし」に気づく

2011-06-19 11:27:30 | 覚醒意識

通常目覚めている時と同じように、寝ている時にも意識的になることで、身体的な影響を極力少ない状況での意識的経験が得やすくなる。

 

身体が寝ている時に経験などと??ばかな・・

寝ている間に経験等があるものか!・・・・

 

・・・通常観念ではそうであろう。

 

わたしもそうだった。

・・・・・

肉体が自分という存在の全て・・・と漠然と信じ込んでいる場合は、肉体の休息、あるいは停止は、自己自身の休息、あるいは停止と考えてしまうのも無理はない。

 

ところが、人間とは肉体ではなく、それを通じて表現しているところの、内面から外面に投射する働きを有する「意識体」である・・

 

というような、いわば拡大された自己認識に至る段階になった場合には、そんな悠長なことは言っていられないのだ。

肉体が寝ていようと、あるいは肉体が死のうと意識は存在するからだ。

 

魂と言われる人の意識体も、時間空間にとらわれずに存在する。

・・・・

実のところ、意識すること・・が自己の本質であり、それこそ全き自由であるのだが、その自由である意識によって、自己を肉体という観念に幽閉している有様に気づくだろうか。

  

それはあたかも、通年に渡って車(肉体)に乗りつづけているドライバー(魂)が、自分を車(肉体)と一体化した「意識」を持ち、車に「自己同化」しているようなものである。

 

魂の受肉とはそういう、世界の中の存在への自己同化のことを言っているようだ。

 

人生への参入、それはあたかも好きな映画での主人公への「感情移入」のようなものである。

 

あなたもわたしも、いまそのようにして、この地球教室という仮の世界で、それこそ必死になって、我を忘れて生活している・・・。

 

あなたも私も、今この世界に感情移入ならぬ、意識の自己投影、自己投入を行っているのだ。

 

人は皆、時間軸という幕劇間隔の進行において、即ち仮想の歴史の流れにおいて、何年何月に生まれ、そのうち去ってゆくという設定を通じて、この世界に参画しているのであろうか。

 

時間も相対的というよりは、仮想現実と言った方が良いことがそのうち科学的にも理解されることだろう。

 

当然ながら空間も実のところ、突き詰めれば「仮想現実」である。

 

例えば、あの相対性理論では、空間と時間が相互に変換されるような相対性を説明しているが、あくまでも空間と時間のリアリティ自体は温存しているだろう。

 

空間と時間の相対性に関して、極めて大きな進展ではあるものの、ここには壁が用意されているようでもある。

 

空間も時間もエネルギーを通じて移行するが、それにはリアリティがあり、そのリアリティ・時間空間というものは、たとえ光によってもそれを越えることは出来ない・・という観念になるかもしれない。

 

光速という壁が設定されているともいえようが、光速より速いものがあれば、我々の科学的な四次元認識は、はかなくも崩れさってしまうのだ。

 

時間も空間も、科学でいかにも規定されて、あるいは説明されているように見えても、それは期待するほどの客観性は持っていない・・・と言えば、

  

科学信奉している人々には合点がいくはずもないと思うが、実は未知なるものに意識を向けること、・・それこそが科学的なのである。

  

科学の最先端の量子物理系の世界では、そのことが今まさに解明されつつあるのだ。

  

量子レベルでのスピンという形態の瞬時的伝達は、光を越える情報伝達があることを示している。

  

人間の所作である超感覚的知覚、テレパシー等も、既に時空に縛られない人間の本来の在り方を示しているのだが、これすらも気づかない人々が多い。

  

簡単すぎる言い方ではあるが、光の伝達の対称性にもとずく四次元時空の認識はすでに越えられているのが実情である。

  

また宇宙という存在場においては、素粒子レベルでのスピン場の瞬時伝達のように、情報伝達はある意味で ’時間を必要としない’・・

 

すなわち「時間」という要素には、決して縛られないことをも示している。

 

我々が後生大事に、あるいは束縛として感じている「時間」の流れ、あるいは人類の観念における「歴史」も含め、それらは絶対的な事実、変えようもない厳正なる、あるいは客観的なリアリティではなく、まさしくバーチャルな仮想現実といえるのだ。

 

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少なくとも我々意識的存在である人間は、「今」そうだと思っていることに固執すべきではなく、つねにより大きなストーリーの中にいることに気づかなければならない。

 

その為には、そのテンポラリーな映画を観ている、この人生を生きているところの、それぞれの「わたし」自体に気づかなければならないということである。

 

映画ばかりに気を取られている有様から、その映画をみている「わたし」自体に気づくということである。

 

あなたもより大きい「あなた」がいるからこそ、今の、その「あなた」がいる。

 

 

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これに気づくこと、それは本質的な転換であり、「観の転換」でもある。

 

観の転換・・・とは、ある観念から違う観念への、あるいは違う価値観への移行ということではなく、その観念、あるいは想いを観ているところの・・・「わたし」に気づく意識的行為の事である。

 

混乱が誰にも明確に認知される今の時期は、ある意味で、我(われ)に帰る・・・という言葉が極めて重要な時であると言えようか。

 

その為には、自らの「内面を観る」という行為が必要であり、それらを昔から修養、修行と言ってきたのだろう。

 

肉体というバーチャルな外界の接点への意識投入からその「注意」を外し、肉体の接点(五感)が不活発な状態での意識レベルに、一時ながらもシフトする行為への気づきが必要であるということだ。

 

それは我々の今の存在場を大切にしながらも、自らの「意識を拡大」するという行為だ。

 

禅や瞑想、経典等の集中精読や、あるいはマントラ等もその一環の手法である。

 

あるいは、身近なところとして、日常の、身体が行為としてあるいは五感として不活発な就寝時においても、内面を観るということが容易に出来るのである。

 

但し、何もせずに情報だけかき集めても不十分であり、そういう意図、意識の方向づけ、あるいは行動への意思がまず必要でもある。

 

・・・

 

隠遁や出家等が出来た昔と違い、めまぐるしく、忙しいばかりの現代生活においては、起きている日常において、そして寝ている間にも行う事が出来る、ある意味での修行もいいのではないかと思う。

 

確かにどのような状態も、無駄なものは無く、その逆に、価値がないと思われてきた所にこそ、極めて重要なものがあるのが常であろう。

 

確かに、起きていようと、寝ていようと、わたし達は存在しているのだ。

 

人の就寝中にも極めて活発な意識作用が生じている。

 

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自分の場合は、その就寝中から目覚めへ移行する「ある段階」で、極めて多くのビジョン、メッセージがあることに気づかざるを得なかった。

 

夢と言っても、様々な色々なレベルがあることにも気づくし、いわゆる単なる現実の生活での印象の独り歩きのようなものもあるし、あるいは『想定外』のビジョンもあるし、あるいは体脱していることを感じさせる経験もある。

 

・・・・

 

多くの人々の記憶層には少なからず「恐怖」を培ったようなトラウマがあるものだ。その多くが幼児期の体験によって無意識に蓄えられてしまったものだ。

 

今のこのような世界では仕方がないものだ。

 

あるいは、いわゆる前世からの持ち込み分もあるし、これらを解消することが今回の具体的な人生の大きな目的と考えても良いだろう。

 

何かをこの世界の価値観の中で、是が非でも行うべく生まれてきたというよりは、幾多の過去生での「付け」を解消すべく、 あるいはやり残しの宿題ををするべく生まれてきたと考えて良い場合が多いだろう。

 

忘れてしまったけれど、それが歪みとなって、表層意識への突き上げを行っているような、そんな気づかぬ歪みがあるのである。

 

「わたしは関係ありません・・・」というような顔でいる多くの方々も、実は内面での歪みを多く抱えているものである。

あなたはどうだろうか?

  

セレブやリッチや、権威への成り上がりや、政治での駆け引きや、巨万の富の蓄積行為や、あるいは経済で成功するしないなどの、派手なドタバタ劇に興じている暇などありはしないのだ。

  

・・・・

 

以降、解り易く夢としておくが、その様々な夢の内容を多少ながらも憶えておく行為によって、次第に普段の生活と同じような有意味な現実があることに気づいてきた。

 

1つには自分が観ている夢に、何かのサポーターかあるいは保護者か、あるいはガイドか、また親友とも思えるような存在が有ることに気づいたのだ。

 

特に、これは!と思われる恐怖を感じる夢や、何か果たすべき重要な意識的内容の夢や、あるいは自分の培ってきたトラウマを解消するような浄化の夢、あるいはカタストロフィー的な夢で必死に対応しようとしている夢には、

 

必ずと言っていいほど、夢を観ている自分の ちょっと後ろ、右横あたりに「何か存在感」を感じた。

 

いつも「右横背面斜め」に在る・・ような何者かの存在感・・・。

 

それらしく言えば「守護霊」などと言えようが、そのような使い古しの霊的用語はぴったりあてはまりそうもない。

 

その存在の立ち位置とも思える感覚には、決して出しゃばらずに、見守っているような優れた親の立場のような感じがある。

 

誰でも経験しているように、その時に夢であってもそれが夢とは、ユメ夢想わないもので、それをたった一人であっては、それこそ必死で逃げ回り、やっとのことで目が覚めて安堵の溜息をつくような「恐怖」の夢に対しても、

 

その右横少し背後に在る存在のおかげで、恐怖が恐怖に感じないで済むことが出来ることに気づいたのだ。

 

ふつうは恐怖を感じれば、それからとっさに逃げようとするものであるが、そのやや背後の存在のおかげで、それから逃げずに恐怖そのものを観ることが出来るのだ。

 

例えで言えば、たった一人で恐怖映画を観ているのではなく、右の席またはちょっと後ろの席に、親友または親兄弟が一緒にいるようなものである。

 

いわば自分は一人ではない・・という心強さを感じさせる存在感がある。

 

「わたしは一人ではない」という不思議な安堵感、あるいは心強さ、そして親しさと、余計な指図などない奥ゆかしさを感じるのだ。

 

眼の前にファンファーレを響かせながら、コトサラそれらしく現われてお告げを下すようなものであれば、それは似て非なるもの、違うものだと理解できよう。

 

もしそうであれば、それらはいわゆる「偽もの」である可能性が大きいし、言いかえれば自らのこころのフィルターの汚れによって現われてくるエゴの影とも理解できるのだ。

 

ところが、これはそうではなかったのは、自分の直感と分析による。

 

自分で気づいていて、決して分析評価の対象にならないような存在・・・であるという事を、後の分析?で、それがいわゆる「ハイアーセルフ」、「高次の自己」・・の顕れであったと気づいたのだった。

・・・・

現実の生活歴の中でそれが近いと言えば、子供を見守る賢い親、あるいはきごころの知れた無二の親友か、あるいは酸いも甘いも解り合えた伴侶、あるいは極めて広い見識をもった完全に信頼できる教師、・・そのような存在である。

 

 

要するに、アイデア獲得という別の目的であったのだが、夢という意識状態で何かを感じようとして、それに意識的になったあたりから、

 

そのような自分に極めて近く、信頼のおける、いわば「自分より大きな存在のようなもの」が数々の夢の中に現われてきたということである。

 

わたし自身は科学技術系の仕事柄からか、元来疑り深く、自分で確認しないでは何事も簡単には信じない精神構造をもっているのだが、このような自分が疑いの挟む余地が少ない形で、その存在感を与える「存在」には感じるところがあったのだ。

 

阿吽(あうん)の呼吸の関係・・・とでも言うものである。

 

図らずもそういうことに気づいてから、身体の休息している期間のなかにも、極めて重要な意識的体験があることも解ってきた。

 

余談ではあるが、

 

いわゆるスピリチュアル系の情報の中には、現われたビジョンに驚き、感激し、それそのものに意味があると考えて発信する人々も多いと思われるが、

 

その多くの意味ありげなビジョンも、その時その時の個人としての「想い入れ」という「こころのフィルター」によって変換されている部分があることに気づいていなければならないのだ。

 

例えば、予知や予言というものも、どこかネガティブであり、騒ぎの割には当たらない傾向がある場合は、

 

せっかくの、そういうビジョンなり直感的感覚を受け取る「当人」のこころのフィルターを、自らが観えていない場合が多いと思われるのだ。

 

本当ならば、人間こそが未来・過去・現在も知ることさえも可能であるのも事実であるが、

 

やはり、何事においても人間の意識の透明さ、あるいはそれを可能にする「こころ」の浄化が必要なのだ。

 

夢夢、こころの浄化を怠ってはならない・・ということだ。

(つづく)

 

Penguins  

 本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。