解脱(げだつ)は悟りとほぼ同義と考え、この世界的な束縛から解放されるという意味ととらえようか。
解かれて、脱するというのが解脱(げだつ)であれば、何から解放され何から脱するのだろうか。
1つにはこの世界の常識とされる「観念体系」である。
これこそ常識である・・という観念にこそ、多くの虚偽が含まれていることに気づくことが大切であろう。
それを無条件に信じ込んで、眠るようにあっという間の数十年を通過する。
ある意味で霊的眠りから覚めるためには、自己にまとわりついた観念の綾を、己自身で解かなければならないのだ。
また、
解かれて、脱するというのが解脱(げだつ)であれば、何から解放され何から脱するのだろうか。
1つには、この世界で培ってきた、あるいは培わざるを得なかった「エゴ」である。
エゴとは、個我としての肉体人間としての「私」である。
私の生存本能自体は何も問題がないし、そうでなければこの世界に適合することも、持続することも出来はしない。
エゴとは自己存続のためにある、セキュリティーシステムのようなものでありながら、自己自身を様々な脅威からいかに身を守るかということを常に考えている、あなたやわたし達の一部分のことである。
しかしながら、この個我の維持のみが突出して、「我良し」に偏向してしまったこころの歪みまで行ってしまうとそれがエゴイズムとなる。
今世界では表面は見わけが難しいような、極端なエゴイズムがはびこっていることは論を待たないだろう。
世界をまたにかけ暴れ回っている?方々は、全てではないが、その多くが表面は優しく美しき、実は行き過ぎたエゴイズムの権化のようなものかもしれない。
また、そんなことには捉われることなく、
我々は、知らず知らず自己存続のみに特化してしまった「こころ」の歪みを、己自身で解いてゆかなければならないのだ。
世界がたとえ崩れ落ちようとも、行うべきことは「それ」なのだ。
他者の歪みをどうこうする方向の有り方は、それがネガティブであろうと、ポジティブであろうと、同一線上のものである。
人の振り見て、わが振りなおすこと・・・、それによって一人ひとり、1本1本の縦糸が生じ、色合いの美しいそれぞれの人生が集合した一大絵巻物が紡ぎだされる。
その為の大勢の他者であり、また絵巻物の1つのコンテンツにすぎない善や悪の観念である。
一人ひとりの意識が広がり、それが繋がりつつ、例えて言えば大きな魔法の絨毯を織り上げるのが、本来のこの世界の目的なのだ。
またそれが、これからの世界である。
人々のこころの歪みが解かれ、さらなる広がりを持てるようになった世界には、泣いても笑っても、もう善も悪も存在しないし、また個別別個の確執すべき赤の他人も存在しなくなるのだ。
他者を悪や善だと、かしましくする前に、自らはどうだろうか?
人を見るように、自分も観ることができるだろうか?
自己自身で、自らのこころの歪み、塵や垢を落とせるだろうか?
出直しの転生の出発点でもある生誕時の、
赤子のような素の意識の輝きを、
生きている間に取り戻すことが出来るだろうか?
なるほど、
ここでもう一度生まれ直すことは、
人生という究極の遊びの、まさに妙なのだと思えないだろうか。
これは、この世界に生じた自らが課してきた、唯一といえば唯一の宿題らしい宿題かも知れない。
これが解脱(げだつ)ともいえようか。
自らを、ありのままに観ることが出来る人は、その人である。
外の世界を、様々な観念で観ることしか出来ない人は、今は未だの人である。
この世界を十分に満喫できるためには、
逆に、
この世界にありながら、
この世界に捉われていない「意識」に戻る努力が必要ということである。
苦楽に満ちた世界の中に自己同化し、狂乱、狂喜することに飽きたならば、
自らが自らに還ることだ。
永遠に、わたしは「わたし」であるのだ。
比較も区別も、差別も区分けも人の勝手に作り上げた観念的幻想である。
競争も闘争も競り合いも、それを励ます「頑張れ」も、自己同化遊びなのだ。
わたしは「わたし」であることから、
いつも再出発できるのだ。
我々が生まれてきているのは、そういうことであろう。
人生を生きている誰にも共通しているテーマは、ここにこそある。
テーマは他の誰でもなく、それぞれの「わたし」以外にない。
テーマは他の誰でもなく「あなた」以外にない。
幸せは、いつも「今」ある。
今この時を、こころを透明にして眺めてみようか。
エゴをきれいにして、ただ淡々と眺めてみようか。
それが出来た暁にこそ、
唯ありのまま・・を、初めて知ることだろう。
そう、
それは、いつでも、どこでもあったのだ。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。