あなたは、世間の物言わぬ人々が漠然と信じているかもしれないような、単に偶然の肉体人間なのか、
あるいは朽ち果てる運命の肉体以上の存在なのか・・悩んでいるとしたら、今まさにその通りの、気づき始めた存在であるといえるだろう。
そんなこと眼中にもどこにもなく、肉体維持に必要な物質的富や名誉を追いかけ回すだけであれば、今は未だの人であろう。
表面の世界で偉そうにしている人々は逆にそういう人達であろうか。
良くも悪くもない、偉くも愚かでもない、
多分、良くわかっていない・・唯それだけのことなのだ。
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あなたが、不滅の魂的存在であるということを自らで追求し始めたとすれば、その意図への反応として、魂の不滅を次第に理解してゆくことになるのも事実である。
真剣に求めれば、与えられるものであり、
こころを込めて叩けば、扉は開くものである。
これはいわば霊的法則である。
例えばあなたが前世等を知りたいと想うようになれば、あるいは思い出したいと思うようになれば、
その想いの程度によってその分だけ知ってゆく、あるいは思い出してゆくことになるということだ。
退行催眠でも前世リーディングでも今は普通に行える時代になりつつあるし、
また夢や瞑想、あるいは科学的なヘミシンク等によって、自らの内面からの湧きだす情報をつなぎ合わせても可能なのだ。
全ては「今」のあなたの想いと意識的行動にかかっている。
そうやって、あなたが「わたし」と感じているものが、
実に広大に繋がっていることに気づいてゆくだろう。
ここが肝心なのだ。
例えて言えば、
これからは、スタンドアローンの個別別個、隔離と切り離しの時代ではなく、
すなわち「エゴ」で生きる時代ではなく、
個々が個々でありながら、
良い大きなサーバーでもある「あなた自身」に気づいてゆく、
意識的ネットワーキングの時代である。
・・・
人が生まれて死んでゆくこと、
じいさんもばあさんも亡くなってしまった、あの人も病気で逝ってしまった。従って人は不滅の魂なんかではない。
一般にそう思うかもしれない。
しかしそれは違うのだ。
じいさんもばあさんも、他の人も、あなたやわたしから見える外見の姿でしか、とらえていないのだ。
外見が消えたといっても、その当人の主体・魂というものが無いとは言えない。
あなたが「当人」という意識でなければ決してそれを証明できないことなのだ。
あなたもわたし達も、いずれそれを自らで、自己証明することになることだけは間違いない。
これは誰にも共通の、最も大きな問題・テーマではないのか。
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この刹那の世相の騒ぎに巻き込まれているだけで、
自らのいわば卒業の為の用意を、この現実生活において何もしなくていいのだろうか?
一体全体、何を正しいものと信じ込んでいるのだろうか?
自己顕示の好きな、普通の人々の集まった政府か?
物言わぬ、いつも責任者などいない社会の通念、常識なのか?
有名大学の先生の講義なのか、有名企業のトップのモチベーション訓話か。
全てではないが、わたしの経験によれば、それらはその人たちの、功利主義的知識を単に語っているだけである。
上手に生きてゆくためのツールの話をしているだけのことだ。
包括的命題に答えが出るなどと期待などすべきでもない。
逆に、世間が認めるような、そういう権威筋からのパフォーマーには、
見てほしい、認めてほしい・・というような魂レベルの訴えのほうを感じないだろうか。
それゆえなおさら権威を求めているのではないのか。
彼らの語りは、
命や生と死という、より大枠の次元の話ではない。
生と死のテーマは当然他人が解決するものではないということでもある。
また目立ちたがり屋のそういう人達が、魂やら生死やらを理解しているとは到底思えないではないか。
また、お金や名誉や富が、生死の問いかけのなんの役に立つのだろうか?
多くの人は、多分、生きている間に、生と死を克服するべきテーマを持っているのだが、
世界に出現降下した瞬間から、荒い波動の渦巻く観念の流れに巻き込まれ、
その下地である「生きている」・・事だけに特化してしまっている風潮があるだろう。
無意識にとりあえず生きている・・・という感じであるが、どうだろうか。
先延ばしにしたがるのは、国の借金や核の汚染物質だけではない。
今の瞬間の生への注目でなく、
ずっと下がったところの、今の自己利益にこだわるがゆえに、
全体が見えてこず、解決すべきものを先延ばしにする風潮があるだろう。
最も本質的な部分での先延ばし・・、
生きている者としての、
生と、
そして「生」を 生たらしめているところの「死」の問題ではないのか。
「生」を真っ当に生かすための「死」から逃げていること。
これが今までの世相であったのだ。
そうであるからこそ、生が歪(いびつ)になり、生きることが苦になるのだ。
生と死も、善や悪と同じく、2元性のなかにある単なる現象である。
生と死が1つの現象の表と裏であることが解れば、生も死も恐れることではないことに気づくはずだ。
いわゆる魂が不滅であるということは、至極当たり前のことになる。
滅するとか、期限があるとかいうのは、人間が単に、時間空間の中に生じた物質的生き物であるという観念によっている。
時間空間を生じるところの意識が、
自らの生成した時間空間にどうして支配される必要があろうか。
近代以降の欧米の合理主義も砲艦外交も、何の役にも立ちはしない。
貨幣も物資流通も、生産加工品の数々も、なんの役にも立ちはしない。
我々は、欲望の前倒しと、肝心かなめな事に対する先延ばしの観念のおかげで、今のような世界を作り上げたのだ。
あたかも物質で出来たまぼろしのお城の中の奴隷でいたようだ・・・
そこに何度生まれてこようとも、またそれすらも気づいていなかったのだ。
それはあたかも、気がつけば、どこかの砂場で遊んでいる・・幼児のようなものかも知れない。
わたしは誰?ここはどこ?・・・・・
それでも繰り返しのおかげで次第に霊的に成長してきたとも言える。
ああ、確かにわたしもそうだ。
・・・
人が死ぬということ、
他者が言えるのは、その人の肉体が朽ちて消えた・・ということだけなのだ。
人は肉体的存在である・・という観念が前提であれば、まさに全て消滅したと感じるであろうし、すべて終わった・・何もなくなった、となるであろう。
しかしそれはその「観念からの見解」にすぎない。
今の物質主体の社会通念はそうなのかもしれない。
しかし、事実は小説よりも奇なり・・・それが常なのだ。
外見しか見えていない我々が言えるのは、
対象としての人たる物質的肉体が消えた・・ということでしかない。
ある意味では、物質主体の観念では、
肉体を通じて現われているところの不滅性、魂のことは扱うことが出来ない・・ということなのだ。
わたしの不滅性、それは物質レベルを包含する意識のことであるが、
それをかろうじて科学的に垣間見ることが出来るツールとしては1つ、量子論かもしれない。
要は、今の科学においても、魂など存在しない・・・などとは決して言うことは出来ない。物証や測定では解らない・・というのが今の結論である。
何事も肉眼で見えないから魂のようなものは存在しない・・と断定など出来るわけもないのだ。
それをどうしてか、そんなものなどないという短絡的結論が社会通念になっていたような現状は、まさに極めて愚かであると言わねばならない。
「・・・かもしれない」・・・可能性に、
これにまず気づく必要があるのだ。
てっきりそうだと思っていたこと、
そういうレベルで停滞していたこと、
それこそ迷いの観念の支配である。
良く解らないから・・・解るように進んでいくのが本道なのだ。
それを無知というのか、欧米流の物質的合理主義というのか。
陰謀系でいわれるような闇の手先の洗脳というのか・・・・。
言うのもその対象たる観念に気の毒であるし、気づけばどうでも良いようなことでもあるが、
確かに、近代以降の人類の歴史的騒ぎがあまりにもひどかったのではないだろうか。
人類的な騒ぎによって、どれだけの人々が不幸になりまた殺されただろうか。
幼稚園の砂場が、修羅場になったらもうおしまいである。
これ以上は進化を続ける魂にとっても、さすがに「興醒め」であろう。
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あまりにも行き過ぎた物質至上的観念、
人は死んだら終わり・・の刹那的な観念では、何をやってもかまわない・・となるだろうし、
人を騙そうと、殺そうと、結果どうだろうと、今さえとりあえず都合がよければいい・・という観念に犯されてもしかたがないかもしれない。
法的網をくぐる「知力」さえあれば、どんな悪をしてもかまわない・・・。
なんだかそのようなニュースが溢れかえっているいる昨今は、まさに闇の時代の末期症状を呈しているではないか。
それこそ、わけのわからない見通しの効かない想いは即ち「闇」といえる。
確かに宇宙系・スピリチュアル系でいう、「闇」とはなかなか、言い得て妙である。
確かに、闇夜では何も見えないし、どうしていいか分からないものだ。
だから騒ぎまくるしかないということもあるだろう。
大勢の人々は、そういう派手な演技をする人達をみて、何かやってくれるだろうと勝手に想っていただけのことかも知れない。
豊かな物資があなたを幸せにしますよ・・・という観念支配とも言えるだろう。
ところがそれで幸せなんか買えなかった・・・と分かった今は、バレバレになっただけの事である。
単純に言えば、大衆の「興醒め」である。
簡単に言えば飽きた、飽和したのだ。
要は、人類は物質的な観念体系から目覚める時期に来ているということだ。
右ならえの統制観念、支配観念から脱却するのは一人ひとりである。
目覚めといっても、右ならえで目覚めようとしても、結局また騙されることだろう。
右ならえ、左ならえの意識・・・そのものが既に縛られていることを示している。
「わたし」については、自分で考え、感じなければならないのだ。
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自らが大いなる不滅の魂であるという認識に至るには、様々な書物や情報も役に立つものだろう。
なぜなら情報があれば進むべき方向性も得られるからだ。
しかしながら、単に情報だけでは自己薬籠中の生きた知識には至らない。
あなたは「あなた」であるところのものであればこそ、
「あなた」はあなたでしか探求出来ないわけであり、
あなたはあなたの内面から湧き出でる想念を良く観察し、
その中からきらきら輝く宝物を探しだす必要があるのだ。
そのプロセスの中から、
前世の記憶も次第に浮かび上がってくることだろう。
前世の記憶といえども、それは過ぎ去りし過去の記憶ではなく、
今この瞬間の、大いなる「わたし」の多方面の存在形態の知識であることに気づくだろう。
例えば、あなたの毎日の「夢」にも注目するのがいいだろう。
あなたの顕在意識は、潜在意識から宇宙意識へとつながっているし、
身体が休止している間は意識が自由に活動することが出来るからだ。
またそれに気づかなければ、その有意性も現われようがない。
バラバラの自己と想っている個別意識も「意識」には変わりがなく、
解り易くいえばいわば振動数の違いでしかないかもしれない。
しかしながら、個々の夢の中から湧出される情報は、顕在意識の培った癖、エゴ的フィルターによって様々に変調され、歪んだ出力をするものだ。
従って、夢情報も内面からの導きとは言え、あなた自身のこころの歪みによって脚色されることに気づいていなければならないのだ。
しかしながら、自分のこころ、想念を観ることに、ある程度習熟しないで宗教や夢や占い、あるいはチャネリング等に触れるのはよろしくない横道にそれる場合があるものだ。
なぜなら全ては解釈のフィルターという翻訳機の性能次第であるからだ。
解釈のフィルター、それを「こころの働き」と言っている。
エゴ的要素がこころにあり、それに気づかない場合は、そのエゴに振り回されて嫌な目に合うかもしれない。
意識を拡大することは、
同時に、自らの光と影をも、ありのままに観ることが出来る、
より高い、
「意識的ポジション」を確保するということでもある。
ゆめゆめ、自分自身の作るエゴ的な影に、自らが騙されてはいけない。
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唯ひとつの「わたし」という意識が目覚め、
無限を見ようと決心した。
それは光:波動となって無限の方向に自らを発した。
それ、光自体が様々な時空として無限そのものを現わしたのだ。
その多次元ともいえる方向にわかれた光のことを魂という。
意識の海から、いかようにも生じる波動は、
大いなる全体という様々な層の時空・宇宙を生み出し、
その宇宙を身近に観察、体験できるための己の分身、
魂という無限数の「わたし」という意識体をも生み出した。
その無限数の個々の意識体は、即ち全体を有するという、
面白おかしき奇跡的な原理を体現して、
ある時は次元を降下してバラバラになり、
ある時は次元上昇してひとつとなって自らを観ている。
それがわたしであり、
そしてあなたである。
本日も拙い長文をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
次回は自分の場合の、いわゆるハイアーセルフとの邂逅について記事にしたいと思います。