世界の多くの人々、大きくいえばこの地球にいる人類ということになるが、そのほとんどが霊的に目覚めていないと言われることがある。
その「霊的な目覚め」とは何か、ということだが、一体なんだろう。
霊的な目覚めの状態の前にあるものは、霊的でない状態だろうし、
それを単純に言えば物質的状態だ、といってもいいかもしれない。
確かに、現代文明化されたと称する社会の人々ほど、その自己認識観念は「わたしは物質的身体だ」ということだろうか。
そこから出てくる感覚、誰にも共通している自己認識、個人で最も大切なのは、まず「この身体」であるということだろう。
多分そう想っていること、これには異存はないはずだ。
改めて詮索したことはないかもしれないとはいえ、そうではないだろうか。
寝ても覚めてもあなたは身体と一緒と感じているはずだ。
とはいえ、寝ているときは実はそうではないのだが、自己の在り方を十分に観察する余裕のない世の中では、寝ているときは単に寝ているだけだと思っているかもしれない。
わたしもそうだった。
寝ている時の夢等は、どうでもいい単なる偶然のイメージとでも思っているだろうし、そんなことより「現実」という面倒な生活への対応に忙しいと感じているかもしれない。
わたしもそうだった。
起きている時の、眼先に感じるところの感覚群、五感情報による総合的な感覚を「世界」と感じているし、その基本にあるのはそれぞれのわたしの「身体」であるとしていることだろう。
漠然としたそのような感覚で毎日を過ごしているのではないか。
それらの漠然とした観念が、大なり小なり多くの人々の「こころ」の底流にあるわけだ。
そこから「わたしは身体である」という、固定された想像が根付いて来るのも当然と言えば当然である。
しかしながら、
実のところ「わたし」は身体を通して様々な出来事と、それに付随する様々な想いを「体験」している・・・
というのが本来の言い方と思われるが、いつの間にか「わたしは身体・肉体である」と錯覚していることに気づくだろうか。
身体・肉体への「自己同化」とはそういう有り様のことである。
「あなた」=「身体・肉体」
だれが決めたのか。
・・・誰も決めてはいないのだ。
仮に、あなたが身体であるとした場合、何十兆にも及ぶ身体細胞をあなたが意図して「創った」わけでもなければ、頭脳細胞、骨格、その他身体の隅々までを知っているわけでも、なおさら創ったわけでもない。
たとえ微々たる医学の知識があったとしても、あなたはその身体のどこに存在するのか、「あなた」とはいったい身体・肉体のどこに隠れているのか、答えなど出るわけもないだろう。
・・・
あなたが毎瞬付き合っている「あなたの身体」は、「あなた自身」なのか?
多分そうは断定など出来ないことに簡単に気づくはずではないだろうか。
あなたやわたし達の「表面の意識」が、そう想っているだけの事・・これが事実であろう。
実のところ、身体の全ての細胞、神経の隅々まで統御し、その極限まで複雑な仕組みを維持しているのは、大自然を通して自らを顕現せしめている「大いなる意識」である。
あなたやわたし達が、今個別・別個と感じているそれぞれの「意識」は、その大いなる意識のごく一部の面でしかない。
単純なことながら、大勢の人々が多分、自己を肉体として話し行動しているような世間、世界のなかにいることで、てっきり我々が身体・肉体そのものだと漠然と感じてしまうからであろう。
じいさんも、ばあさんもそんな話方だった。
親でさえそんな生活をしていた。
先生も会社の社長もどこかの御大臣さえも・・・。
・・・
我々はそうしてこの世界の平均的な「観念」に固定されてゆく。
物理的な世界がどうのこうのではなく、この世界の底流にある自己感、世界観に固定されてゆく。
その中にある好都合、不都合、不合理、偏見、健気さ・・全てをそのまま受けてしまう場合が多いのだ。
今の人類の、最も根本的な固定観念といえば、「わたしは肉体」である、というものではないか。
肉体の棄損を恐れるが故に、そこから全ての競争や争いや戦いが起きてくる。
個々の、集団の、国家の、利益集団の肉体生存のために何でもやることにもなるのだ。
我々は知らず知らず、そのような集合意識に固定されてきたと言えよう。
良きにつけ悪しきにつけ、様々な価値観念に無条件に従うように慣らされてきたわけである。
それを悪意的、恣意的、支配的方向から指摘しているのが「陰謀論」であろうか。
我々が気づかなかった様々な姑息なやらせに気づき、不都合な真実が支配者によって仕向けられたと感じる「怒り」が向けられている段階だろう。
しかしそれさえも霊的目覚めの為の一過程にすぎない。
それに気づくためには、それが対象化されなければならない。
いわゆる悪と言われるものもその為のものである。
全ては深い意味があることなのだ。
今人間は、本当にそう思えばそうなってゆく・・という意識的法則に気づく必要がある。
何がどうなろうと、それが真実だと観念で固定する程度に応じて、その通りに現れるのが、「あなた」の有り様であるならば、
その各自の、そして各自しか生ぜしめることが出来ない「想い」という「創造波動」に気をつけなければならないのだ。
いつも手にする携帯電話のきれいな画像も元は波動であるし、同じくあなたやわたし達のイメージ、思考、想いも波動なのだ。
想念波動は、現象化の為の原動力になっていることに気づかなければならない。気づかなければ現れようもないのだ。
「想い」こそ「生きたエネルギー」なのだ。
あなたやわたし達の世界を映し出している背後の仕組みに、もう気づくことが出来るだろう。
潜在的なものにこそ注意をせねばならない。
結果・現象はもうすでに出てしまったものであり、
本来ならば一喜一憂すべきものではなく、
今は、それを生ぜしめるところの潜在的な因にこそ意識の眼を向けなければならない段階なのだ。
人間の「こころ」というものが、世界を映し出すフィルターであることをそれぞれのわたしが気づくべき時なのだ。
意識的存在である人間は、現れた結果、あるいは五感で感じる肉体そのものではなく、それを通して現れるところの魂である。
わたしは「わたし」であるところのものである。
それは形ではなく、形を現わすところの原理または法則そのものである。
わたしが何者か?
それを現わし続けるところの存在、因たる者こそが、
大いなる「あなた」であり、
自らが小さい肉体人間と規定している、今のあなたを含んで余りある
真実の「あなた」である。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。