気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

生きることの本分

2010-08-29 11:06:21 | 偉大なる先達の言葉

我(われ)事(こと) に於いて 後悔せず

  

(宮本武蔵 「独行道」より) 日本の名言集(リベラル社刊)

私は自分のしたことを後悔しない。

剣聖・宮本武蔵の言葉だけに大変説得力があり、力強い。ここまではっきりと後悔しない、と言い切れる人は現代にあまりいないだろう。後悔は何も生み出さない。失敗や過ちを犯したとき、いつまでもそのことにとらわれているより、改善すべき所は改善して次に進むほうがどれ程生産的だろう。(前掲p18)

  

宮本武蔵は戦国時代の末期の剣豪であるが、その時代の特徴をその形にまとった、偉大な修行者であったと思われる。剣という武器を使って修羅場を潜り抜け、おのれの身体、こころを常に生命の現場の最先端で磨き上げた者である。

身体の鍛錬を通じてこころを磨き、それらを含む大いなる魂の域に到達した存在とっては、後悔や懺悔や執着は、衣服についた汚れ以上のものではない。

  

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 (ウイキペディアより)

 

   

ゆく河の 流れは絶えずして、

 しかも もとの水にあらず

  

(鴨長明『方丈記』より  前掲P20)

 

川の流れは絶えることがなく、しかも流れる水も同じものではない。鴨長明『方丈記』の有名な序文で、世の中も常に移り変ってゆくとういう無常感をのべたもの。

私達は、いつまでもおなじ暮らしが続くという錯覚や前提の中で生きている。そのために見方や考え方が頑固になってしまうこともしばしば。より柔軟な物の見方を身につけたい。(前掲p20)

 

鴨長明は悟りの域に到達した人であったろう。この言葉の中には、常なる変化と不変の真理が述べられていることを、あなたも感じることが出来るだろうか。

 

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世の中に 慈悲も悪事もせぬ人は

 さぞや閻魔も困りたまわん

 

(一休  前掲P23)

世の中で、人に優しくすることもなければ、悪事も働かぬようなような人には、閻魔様も処遇にお困りになるにちがいない。もちろん悪事はよくないことである。

しかし、必死に生きていれば、思わず悪事に手を染めることもある。人に慈悲をかけることもなけらば、悪いこともしないような人に、いったい生きている価値があるのだろうか?という一休からの問いかけだ。良い悪いを問う前に必死で生きてみよう。(前掲p23)

 

一休らしいユーモアと慧眼を感じさせることばである。

 

常識という集合無意識の観念にとらわれて、自ら眠っている人々は、何らかの自らの意志によってそこから脱する行為が必要なときがある。勇気をもって思い切った行動をとる場合には、それが善とか悪とかの評価でもって叩かれ騒がれるが、それを超えなければ何が善で何が悪なのか「実感」することができないのだ。

 

他の人を見て、ああだこうだという者は「頭の観念」に束縛されていることを如実に示しているのだ。 あなたはどうだろうか。

  

 

誤まれるを 改(あらた)むる善の、

これより大きなる無し

 

(慈円『愚管抄』より  (前掲p51)

 

過ちを犯したら、改めることが善であり、それ以上の善はない。簡単なことのようだが、案外できていないことが多い。いろいろと言い訳して正当化したり、たいした問題じゃないと無視したりする。また間違いに気がついても、改め方を間違ってしまうこともある。間違いに向かい合う勇気、その間違いを正しく分析する判断力も必要になる。(前掲p51)

 

慈円のおかれた当時の時代背景と生き様を感じさせる言葉でもある。

道を歩くものは、道に外れる場合もあるが、どれが本道でどれが邪道なのかをその都度フィードバックできる勇気と潔さが必要だ。

世の中の姿態を見るに、己の間違いを潔く公表し、勇気をもって頭をさげるような政治家や指導者が極めて少ないのは、彼らは未だ至らぬ者だということを暗示している。

真に偉い人や優れた人というのは、おのれの至らぬ有り方に気付いている人なのだ。そのような自己を省みる意識を持てる存在は、いわゆる魂顕現のランクが上位の存在である。

 

  

自ら見る、 これを 明という

 

『韓非子』より (中国の名言集 リベラル社p52)

   

自分自身で見る、これが賢明というものである。人から聞いた話やうわさでは、正しい判断は下せない。また人の考えをそのまま鵜呑みにしていては、真実からは遠ざかってしまう。何事も自分で確かめて、しっかりと考えてこそ、本当の姿を把握できる。そのときに初めて物事を正しく判断して、行動に移すことが出来る。(前掲p52)

 

いろいろな情報が氾濫している時代であるが、常に気をつけるべきは、真実を追究しようというこころの姿勢を崩さないことだ。

 

自分に都合のいいことばかりを掴んでいると、迷い道にはまることになる。真実を追究する姿勢・こころの鋳型があれば迷い道もすぐに引き返すことができるのだ。

 

 

 

心(こころ) ここに在らざれば 視れども見えず

 

『礼記」より(前掲p53)

 

これは深い意味がある言葉である。人が人である所以は、こころというものがあるからだ。それが無ければ、単なる機械人形に過ぎない。ロボットのアシモ君にも及ばないだろう。

こころは「マインド」とも呼ばれ、全てを顕しているところの普遍の意識の現れである。それが個人的なエゴで歪になっている状態を正してゆく過程が意識進化というものだろう。つねにマインド、こころを通して世界を見ているのが我々の実情である。

美しい自然や、成長途上にある生命たちの集う場が、1つにはこの地球である。

マインドを調律し、そこにクリアーで輝くばかりの世界と、そこに集う存在達の真の意味を感得するためにこそ人生というものがある。

不浄なものは、あくまでもそれを見るところの、あなたの『こころの曇り』に過ぎないのだ。

あなたのこころは、いつも『何処に』 在るだろうか。

生活か、お金か、性欲か、名誉の維持か、食欲か?

多分、

多くの人の『こころ』は 「身体」に在るのかもしれない。

 

身体は、しかしそれはあくまでも一時の「借り物」なのだ。それを基(もとい)にして、この世界の多くを学ぶことが出来る、仮の『器』に過ぎない事を忘れないことである。

 

こころ

 ここに 在らざれば、

視れども

  見えず・・

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。