●人の縁(えにし)
例えば、誰にもある家族は、それぞれの『魂』とも呼ぶべき、『無限意識の個々の個別の顕現形態』が、その無限の自己自身への学びを行うべくリンクされた関係といえるものだ。
夫婦はそれぞれの意図や不可思議な『縁』(えにし)によって結合し、その結合間に生まれる子供たちは、また『縁』によって時空を超えてやってくる。
いわゆる芸能界によくあるような、好いた惚れたで繋がり分かれるカップル等は、ほとんど他者の影響によって動かされた結果である場合もあり、それだけの『縁』といえなくも無い。
●『縁』には悪も善もない
『縁』は、良し悪しで片がつくようなものではなく、その人間の狭い価値判断を超えたところの『魂』同士の協調である。
『縁』(えにし)は、良縁・悪縁といって、片方を待望しあるいは片方を排斥するようなものではなく、その全てにおいて「魂」の学習の為のものである。
それは『こなすべき』ものでこそあれ、憎んだり、追い求めたりすべきものではないのだ。
物質原子が核力やクーロン力などで形容される『力』の作用で結合しているように、意識体である人間は、『有意の意識』の作用によって結合・離散を行なっていると言っていいかもしれない。
『縁』とは数限りなくある、『無限意識の個々の顕現』 (魂) 同士の『協調関係』と言えるだろう。
あなたの身近な家族や関係者も、それなりの縁によってこそ、あなたの知覚世界に現れて来ている。
しかしそれを『縁』(えにし)と知る機会は少ないかも知れない。
表面的な常識に染まった顕在意識ではなかなか理解が出来ないだろう。
なぜなら、現状での人類の集合意識にとっては、未だ悠久の生命の転換作用、すなわち『転生』などについての充分な理解が得られていないからだ。
●縁を知る人は悠久の命も知る
1度だけの偶然の命などという、これ以上は分割できない程の分離観念を、知らず知らず取り込み、またそれらの刷り込みを「常識」「真実」ととらえている間は、まさに「信じるごとくになる」という意識の法則によって、無知のフィールドに自らを閉じ込めていることになる。
あるいは、また、知らず知らず閉じ込めた、自らの狭い観念フィールドから救い出してくれような何か架空の神を信奉してしまうのも無理からぬことかも知れない。
ここまで下ってきた世界の有様での普通のあり方、誰も信じることは出来ないようなイレギュラーな精神状態を維持する為には、唯一それを越えた存在を夢に見て、かつこの世界のどこかに居るとする救い主を求めてしまうのだろう。
いつもどこかに、だれかに救いを求めているのかもしれない。
あなたはどうだろうか、いつも何かを待っている人もいるのではないだろうか。
それは、男なのか、女なのか、教師なのか、親なのか、救世主なのか、金持ちの足長おじさんなのか、ソウルメイトなのか、天から飛来する人の子なのか、あるいは全てをチャラにしてくれるような大災害なのか、人類が罪を受けるところの世界大戦争なのか?
いいや、決してそうではないのだ。
待ち続けるこころには、決してそれが訪れることはない。
なぜならいつも『待っている』からだ。
それは他者依存と毛頭変わりがない「こころの有り方」であることに、気付けるだろう。 他者依存と他者批判はまったく同列のこころの有り方である。
●救いの蜘蛛の糸
救いを求めて何かを待ち続ける人たち、多分そういう人は、多分芥川龍之介の小説である「蜘蛛の糸」の主人公である「カンダタ」の様な人かも知れない。あらすじはこういう内容である。
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盗賊であったカンダタは、生きてる間に生活の為と称して、人々から数限りなく金品を奪うような極悪人であったが、生前1つだけ善いことをした。盗賊に入った屋根裏に巣を張っていた女郎蜘蛛を殺さずに助けたのだ。
カンダタの死後は当然ながら地獄に行くことになったのだが、あるとき天上からするすると何かの紐が降りて来て、お釈迦様の声が聞こえた。その声はこういった。
『おまえは悪さばかりをしてきたが、ただ1つ蜘蛛を殺さずに生かしてやった。だからお前は助かる『縁』をもらったのだ。・・・』
・・天から降りてきたのは、「蜘蛛の糸」であった。
カンダタはこれは有りがたいと涙を流し、その糸をするすると登り始めたのだが・・・、
途中まで登ってふと下を覗くきこむと、なんと大勢の地獄の亡者達も下から下から登ってくるではないか。
「げっ、やつらが登れば、こ、この糸は切れてしまうかもしれない!」と思ったカンダタは、思わずこう言ってしまったのだ。
『こ、この糸は俺のために降ろしてもらったものだ。お前達とは関係が無い・・、い、糸が切れるから、お、おまえらは登ってくるな~!!』
・・・といった瞬間に、天から降りて来た糸は「ぷっつり」と切れてしまった。
カンダタも亡者たち、ももろともに真っ逆さまに落ちていったのだった。
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これは芥川龍之介の有名な小説なのだが、この天才といわれる作者の意図には深い意味があるようだ。
●悪は『こころ』で作る幻想
例えば、多くの人々は自分をカンダタのような極端な盗賊などとは思っていないだろうし、今と時代も違うと考えるかもしれない。
しかしながら、
我々が毎日垂れ流している『想念』は美しいだろうか?
いや、美しくなくてもいい、それでも他人をどこか、さげすみ、追いやり、排斥するようなものはないだろうか?
・・・・なるほど美しくもないし、人にも優しくないかもしれない・・・。
我々が毎日、無意識に発する思いに、「晴れやかさ」や「明るさ」はあるだろうか?
いや、明るくなくてもいい、それでも他人に暗さや不安を与えるようなものは無いだろうか?
・・・・なるほど、つらく暗い思いを与えてしまうこともある・・・。
一期一会、他生の縁も、ひょっとしてそんなことも何も分からず、単に自己存続の主張に明け暮れているかもしれない。
たしかに言えることは、家族も、周りの人々も、ひいてはこの世界に同時に住まう人々も、今ここに同時に生きているという明確な『縁』(えにし)で今ここにいる。
たとえ全てその目で見ることのかなわない人類60億といえども、今ここに在る『縁』(えにし)には違いはない。
人類の同時共生も、他生の縁あればこその、今生の顕現である。
大勢の人々が、「我(われ)を忘れる」この世界において生じる様々な想いや行為は、すべてこの世界次元における『学び』のためである。
●こころのゴミは自分で始末が原則
我々は自然をいつからか汚してきた。自然という相手のことはなぜか度外視であった。
それと同じように、
もし仮に、あなたが家族や周囲の縁ある人々を、どこか憎んでいるのであれば、それはこの世界におけるあなたの『学び』の程度を示しているといえよう。
憎しみをオブラートに包み込み、思慮深そうな批判に仕上ていようと、それは憎しみであり憤りではないのか。
あるときの憎しみの対象は、余裕の無い親たちであり、悪知恵のはたらく金貸しであり、イザという時に冷たい態度をする同僚であり、あるいは机越しに足蹴りをするお友達なのかもしれない。あるいは世界を裏から操る権力の亡者かもしれない。
どう考えても、やつは、また、奴らは、あるいは彼は、彼女は絶対に悪い。
どう考えても、自分は悪くない。悪いのはやつだ。・・・と考えるだろう。
世界がこうなのは、俺ではなく、どこかの悪人のせいだ・・・と。
しかしながら、実のところは、
悪いのは、人の迷惑も、こころも見分けのつかない段階の、分けのわからぬ子供のような他者ではなく、それを『真実』の行為であると錯覚するところの、あなたやわたしたちの『無知』と言えなくもないのだ。
万事において言える事は、
現れた現象を、どう感じ、どう捉えるか?
すべて人の『こころ』次第なのである。
ピカソやダリの絵を見て、それを邪ととるか、
芸術と捉えるかは、
あなたのこころの磨き方次第なのだ。
●あなたの意識の視界は広いか?
意識の視界が広ければ、諍いも争いも小さなにシミに見えるものだ。
逆に視界がせまく目線が低ければ、あなたが当事者であり、にっちもさっちも行かないこころの場所にいるだろうし、それらを目の前の災いと信じ込み、慌て怖れることにもなる。
あなたやわたし達が刹那の「肉の子」と信じていれば、その肉が、物質形態が、傷つけられ、損なわれ、失われることに「恐怖」するのも仕方がない。
しかしながら、問題なのはその「恐怖」自体にあるのだ。
傷つき、損ない、失うことを顕すシナリオは「恐怖」が創作するものであることに気付く必要があるのだ。
恐怖も怒りも、こころの反応であり、その反応が言葉や行為となって世界に現れる。
●自分のススで汚れた『こころ』を笑ってしまおう
それらに怒り、怖れや憤りをもつ人々は、自らを怒り、怖れ、憤りをもっていることの滑稽さに心底気付いても良いだろう。
そうすればこころの底から笑いがこみ上げてくることだろう。
こころから大笑いに笑うことで、結果あなたのこころは綺麗に浄化されるのだ。
世界の諸悪は、あなたのこころのレンズについた染みであったとわかるだろう。
これを、頭を掻き掻き、笑わないでどうしようか。
・・・
そうであっても、あくまでも現象を、動かしようのない事実ととらえることに固執する場合は、現象は現れ出でた結果にすぎないことに理解が至らない場合は、
現象の中の怒涛の流れに、自らを投じるだけの木の葉であると自己を任じているわけであり、その思うがごとくに自らになることを楽しんでいるのだろう。
不安や怖れをどこか楽しんでいるのだ。
なるほど、またそれも体験学習には違いが無い。
しかしながら、
『身体や衣服』を洗わなければ、それこそ異臭を放つように、
『こころ』も洗わなければ、体験・生活というスクリーンも異臭を放つことになる。
それにしても、是非とも洗うべきなのは・・・、
どこかの他者や憎むべき相手の衣服やこころではなく、
あなたやわたしたち自身の「こころ」である。
「縁」(えにし)とは、その『こころ』を洗うためのフィールドを提供しているのだ。
これをご覧のあなたには、もうご理解頂けることだろう。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。