いのちを惜しむことなかれ
いのちを惜しまざることなかれ
(道元「正法眼蔵随聞記」より 日本の名言集:リベラル社刊)
命を惜しんではいけない。また命を惜しまないことがあってもならない。
命を後生大事にするような生き方では、何事にも積極的になれず、中途半端な人生を送ってしまう。
その一方で、命を簡単に投げ捨てるような考え方では、つまらぬことで本当に命を失ってしまう。
限度を超えない程度に、必死になって物事に当たらなければならない。(前出書p24)
家は洩らぬほど、
食事は飢えぬほどににて足ることなりけり
(千利休 )
家は雨露をしのげる程度、食事は飢えない程度にあれば、十分である。
必要もないのに豪華な家に住んだり、食べきれないほどの食事を楽しむことは、
本当はむなしいことなのかもしれない。
もちろん家や食事に限ったことではない。
見栄や欲から必要もないものを求めていてはキリがなくなり、永遠に欲求不満のまま過ごさなくてはならない。 (前出p26)
貴となく、賎となく、労となく、少となく、
悟りても死、迷うても死
山本常朝 『葉隠』 より
身分の高い人であろうと、低い人であろうと、老いた者も若い者も、悟りを開いていても、
迷っていても結局は死を迎える。
死は誰にでも平等に、そしてどんなタイミングでも訪れるもの。
そのことを考えれば、自然に自分がどう生きるべきか、どう日々を過ごすべきかが定まってくる。
死ぬ間際には、充実した人生だったと思えるようにしたい。(前出p27)
身をやぶるよりも、
心を傷ましむるは、人を害う事 なお甚だし (はなはだしい)
吉田兼好『徒然草』 より
身体を傷つけるよりも、こころを傷つけるほうが、人にとってよっぽど害が大きい。
心に負った傷は容易には癒すことができない。
そのことをわたしたち自身がわかっているようで、わかっていないことが多い。
ひとの心に与える傷の大きさに気がつかないばかりか、
自分が受けた傷の大きさに気付かないこともある。(前出書 p29)
悟ってみれば、
仏も下駄も同じ木の片である
(一休)
仏像も下駄も同じようなただの木片にすぎない。仏像は人にあがめられるが、下駄は人の足の下に敷かれる。
しかし、元を正せばどちらもただの木にすぎない。
物事の本質をとらえれば、つまらない事にこだわらずに生きていくことができる。
そうすれば本当に大切なことが見えてくるに違いない。少しずつでも、つまらないこだわりを捨てていきたいもの。(前出 p30)
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いつも気をつけるべきは、世界の諸悪のことではなく、
それを観て、感じているあなたのこころのほうである。
各人が行なうべきことは、無際限に広がる果てし無い世界の浄化ではなく、
あなた自身の魂の、道具であり、レンズであり、世界の窓であるところの
あなたのこころ以外にないのだ。
自分の内面から発することで、
身の周りの対象への感謝の言葉を投げかけることが出来るようになり、
それが次第に広がれば、嫌でもあなたの知覚する世界は浄化されるのだ。
人それぞれに共通の、大切な修養とは、
知識の増大でもなく、地位や名誉の獲得でもなく、ましては銭金を蓄えることでもなく、
ましてや修養も何もにせずに、単に肉体を生き長らえることでもない。
眼を見張り、こころに振り回されずに、
只、(ただ)
今この瞬間に生きていることに、心底気付けるならば、
感謝など無理せずとも沸々と、嫌がおうでも、
あなたを通して現れて来ざるをえないのだ。
もしそこに、感謝の涙があるならば、
それは多くのこころをきれいに洗い流す聖水となる。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。