気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の拡大プロセス(4) 外と内は一周り

2010-06-20 14:43:13 | 宇宙的気付き

●我々は一体何を頑張り続けているのか

我々は世界の中で必死で生きている、頑張っていると思っているだろう。事実、子供の頃から「頑張れ、頑張れ」とはっぱをかけられどうしの人々も多いだろう。学校でも社会でも、頑張ること、それが美徳であり、それについては誰も否定しないだろう。

他人を励ますには、ついつい「頑張って」という言葉をかけるものだ。これ自体には何も問題はないのだが、ただ、何かを行なうのに事前に障害物を想定し、これを乗り越えることで何かが得られる・・という意味を含んでいるのかもしれない。

つらいことに歯を食いしばって耐えるからこそ栄冠が得られるものだ、という意味もあるだろうと思う。

しかし、頑張るだけで良いのか?

 

●わざわざ問題を創造する遊び

人々が体験する辛さや艱難は、往々にしてそのように「頑張っている」人々の中で起きる利害に起因していることに気づくだろう。

問題を解決しながら自己存続をなんとか図ってゆくという姿勢そのものが、トラブルの元であると言っても良いかもしれない。

そこには、わざわざ「見えない問題」を自ら事前に提起し、そして「現れるであろう現象」を、自ら解決することで成長があるのだ、という信念が潜在しているのかもしれない。

ここには大きな誤謬があるにちがいない。

頑張ることでいつも問題が山のように出て来ているのがこの社会ではないのだろうか。

個人が頑張り、他人と利害で衝突する。

国単位で頑張り、他国と利害で衝突する。

人類が頑張り、他の生命を絶滅に追いやり、またその土台である地球そのものを汚染してしまう。

数千年頑張りすぎて、妄信に閉じ込められたような人達もいるようだし、

富の蓄積に頑張りすぎて人類の資産を一人占めにする人達もいる。

集団の自己保身で頑張りすぎて、罪もない民衆の命をだめにしてしまうような極めて幼い人達もいる。

 

●個我の頑張りの果て

多分、もう、事ここに及んで気づかなければならないことは、必死になって自己存続をかけて頑張っている姿は、決して雄々しいものでも、逞しいものでも美しいものでもないということだ。

頑張りすぎて地球が汚れてしまったとは、笑い話ではすまないし、シュールな悲喜劇とも言えないつらさがある。

確かに、そんな我欲の頑張りはもう不要なのだ。

 

●本当の頑張り

実のところ、頑張ることの真の意味は「克己」を意味しており、自己の魂の開花へのたゆまざる姿勢を維持するためのフォームを維持するということなのだと思う。

闘い挑んで勝つとすれば、その相手は己の恐怖の影しかない。

人それぞれの中にある「恐れ」という影は、己だけがつくっているのであり、決して他者の押し付けではない。

自分の影であるエゴを、誰のせいにもできないのだ。

社会のごたごたのすべては、外の人を変えようとする、外の世界を変えようとすることに起因するだろう。すべての問題は自分の都合のいいように他を変えようとする想いによって生起しているといえないだろうか。

周りの世界はその人のこころの反映であり、鏡に映った自己を修正・変化させる為の、いわば体験修行の場と考えるべきではないか。

確かに自己が変えるべきは「自己」である。

自己を変えることが出来ない人が、他を変えることが出来るわけがない。

別に政治の批判でもないが、人々を糾合し、勢力を作り上げ、その数のパワーを元に改革を起こし、世界をより都合の良いものに仕上ようとすることは、形が出来れば中味はなんとかなるだろう的な無責任さを示すものではないだろうか。

例えば、政治家も指導者も自己における切磋琢磨に頑張ってもらいたいと感じるのは自分だけではないだろう。

 

●個我の頑張りの最終幕

また、外から、誰かからやってくるといわれる理想世界には充分気をつけるべきであろう。

今現在世相を見れば、その最後の嘘が行なわれようとしているようでもある。あなたは外からやってくる笛吹き男の楽しそうな音色に騙されるだろうか。

数千年の興行であった「個我の頑張り」という演目芝居の最後の舞台の、自作自演の悲惨なお芝居にまた入り込んで行くのだろうか。

あるいは、それに騙されず大いなる自己を思い出すだろうか。

もっとも同じ映画にいつまでも固執する必要もないはずだ。

非常に尤もらしいスピルチュアルな最後の騙しにあなたは気づけるだろう。

・・これは有り得ないだろう?・・というのが最後の騙しである。

そう、それが卒業試験のようなものなのだ。

あくまでも、他(ほか)を頼りにしてはだめだろう。

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●数千年に渡る肉体への自己同化

人々の意識がフォーカスすべきは、強制的な社会の変革・改革ではなく、内面の無尽蔵の意識の働きの方だろう。

自分の意識をさておいた時代は、物質華やかな、そしてその中におのれの魂を閉じ込めたような時代であった。

すなわち、環境が変われば人の意識が変わるという、あくまでも唯物思考的な思いに捕らえられていたことを知る必要があるだろう。

世界の1小ピースの人間が幸福になるには、その枠である世界が変わる必要があるという考えは、自らを個我の肉体に自己同化することであり、また刹那の肉体が自己である?という狭い次元に自らを閉じ込めたことになるのだ。

「刹那の肉体自我」、それは人類が今まで数千年のあいだ馴染んだ思考であり、その思考によってこそ、各人が各人の肉体に自らを閉じ込めてきた経緯がある。次元降下と言ってもいいだろう。

そうやって子羊の群れを体験していたようなものだ。

なるほど羊使いも、狼も次第に現れてきたようではないか。炙り出されてきた支配層や陰謀者はその役者、役どころのようではないか。

今の時代は、肉体自我という、その根の思考の解消時期に来ている。

肉体自我という自己認識の重りは十分に重たかったのではないか。そのために生と死の周辺の世界が、ある意味で天国と地獄の間で賑やかだったのだ。

地上、水平の世界での都会やその町並み、市外や郊外と同じく、垂直方向にも様々な空間や生業があるのだろう。いわゆる霊界は、地上の世界での存念や残留思念、執着という意識の領域ともいえるかも知れない。高級住宅地も巣窟も、この地上だけではなかったのだ。

この地球での執着、葛藤の着脱を学ぶのにも、中間地帯での往復が必要だったということだろう。

恐れ、執着、葛藤・・・これらは同じ意識の振動率の少しずれたものにすぎない。重い想いのことである。

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●普遍生命の体験と帰還

我々人生を送り、そしていつかまた逝く場合には、その信念に従った生命形態を表すような、いわば存在周波数帯に移行することになるだろう。

また重い振動率を維持している場合の死後は、いわゆる霊界といわれるところのお世話になる場合もあるだろう。

霊界、いわばチャンネルの違う地球周辺の周波数帯域、そこには様々な世界が作られているが、やはり情報変調の飽和時期を迎えているようであり、次第に高周波数帯に移行しながら、情報の昇華、クリーニングが行なわれているようである。

これは結構、相当なことだと言わねばならないだろう。

変な例えではあるが、今進行中のTVの地上デジタル化のような、高周波数帯への移行が行なわれており、今までのような霊界の周波数帯ではなくなりつつあると言えるかもしれない。

ある意味で休息域である霊界も、浄化、昇華過程にあるということであれば、あたかも地上波のチューナがなければ画像が映らないがごとく、コアの意識の周波数・振動率が合わない場合は、もう地球周辺の周波数帯には留まれないことになりつつあるともいえるだろう。

あるいは、途中で遊ばず上位に直ぐに帰還する体験学習の仕組みになったのだろうか。

あなたはどう感じるだろうか。

多くの人々は、地上での世間常識に合わせて、最後まで生と死のテーマを忌避し続けてしまうのだろうか。

 

●すべては波長・振動率の違い

肉体死のあと、霊界の信念帯域に引かれるということは、地上で培った信念が重い荷をもっていると、それに相応しい周辺周波数帯に引っかかるということだろう。

顕在意識の振動率、同調出来る周波数帯は、想いと感情、記憶の複合であり、総合して信念という固有の振動率をもっている。

今ここにある、今のこころ模様、顕在意識を軽く考えてはいけないわけだ。

なるほど、地球という惑星生命圏での肉体死の後の霊界というものが必要であったのは、本来の普遍なる生命・意識の有り方と、地上での個別の肉体存在の有り方のギャップがあまりにも大きい為とも言われると、なるほど、頷ける話ではないか。

 

●世界は内なるわたしに因って現れるもの

我々の意識が遍満する宇宙の意識の1点であるからこそ、1点たる個別神ともいえる意識の抱く信念は常にその反映をもたらすことになり、自らがそうだと信じる形態をまとうことになる。

内面の意識が「内」で、その反映が「外」の世界である。

同じような内面の意識の存在達が、それらの反映の外の世界を共有し、学んでいるというのが、数多の宇宙での実際の生命のプロセスであると思われる。

現に今、地上でも何十億の存在達で溢れかえっているように。

 

●常に自己の信念を注視すべし

地上で刷り込めれた信念に自己同化している人や、死んだら終わりだ・・と考えている人が肉体死を迎えた場合、その本体たる次元を悠に超えている魂は決して死ぬことはないにもかかわらず、その信念たる想いの波動は、その波動自体でこの世界の周囲の帯域に留まることになるかもしれない。

それを例えれば、中継母船本体から放たれた探査機が、本体に帰還途中で何かに引っかかって立ち往生しているようなものだ。

また、ピクニックに出向いた先で記憶喪失になってしまい途方に暮れた状態で家まで帰れないようなものだろう。

 

●それぞれの「わたし」は遍満する宇宙意識

この世に生きているということは、あたかも大いなる自己から放射された光が、諸世界、幾多の時空へ投射・転移をしているということである。

すなわち、我々は、この地上で肉体という形態をまとって、ある意味体験学習をしている遍満する意識ということだ。

因たる宇宙意識自らが、宇宙の各所からその創造を観照しているといってもいいだろう。

その本質は、

わたしは「わたし」であるところのものである。

わたしは在る。

誰にもあるこの「自己認識」を通じて、人とは遍満する宇宙の生命、宇宙意識の気づきそのものであることを、意識的に思い出すことが何をさておいて肝心なことであろう。

確かに、近すぎて気づきにくいものではある。

世界のどこに行こうと、何を成し遂げようと、どんな権威を持とうと、それは一過性の栄華であり、また映画であり、また体験学習に過ぎない。

その映画体験を観照している「わたし」こそ、真我といえる。

その真我、大いなる意識、宇宙意識へ戻る階段が意識次元の上昇である。

今、ここ、に在りながらまさに全体と一体であることがそのテーマでもあるだろう。

いわゆる次元上昇は、本当の「わたし」へ還るステップを上がるということであり、それを例えれば、山上の神社への階段を汗を流しながら昇るようなものなのだろう。

階段を登るに従い、周りの景色も変わってくる。周りが変わるから上って行けるのではなく、上がるから周りの景色が変わるわけだ。

人間存在とは、大いなる自己自身に帰還するプロセスを体験しているところの、すべてに遍満する生命・意識である。

・・と言っていいだろう。

意識の拡大とは、そのことである。

 

・・

・・・・・アイ・アム・ザット「私は在る」ニサルガダッタ・マハラジとの対話 より

質問者

あなたに耳を傾けることで何の得があるのでしょう

マハラジ

私はあなたをあなた自身に呼び戻している。

私があなたに求めることは、あなた自身を見ることだけだ。

あなた自身に向かい、あなた自身のなかへ見入ることだ。

質問者

目的は何なのでしょうか。

マハラジ

あなたは生き、あなたは感じ、あなたは考える。あなたの生きること、感じること、考えることに注意を払うことで、あなたはそれから自由になり、それらを超えていく。

あなたの人格は消え去り、観照者だけが残る。

それから、あなたは観照者をも超える。

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。