気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の拡大プロセス(3) 以心伝心の世界

2010-06-13 09:30:10 | 宇宙的気付き

●想念は去来する意識の波

想念とはあなたにいつもやってくる様々な想いのことである。朝起きてから夜寝床にはいるまで、日中様々な想いがあなたの頭に去来していることに気づいているだろう。

よく頭に浮かぶというような感覚があるのは、視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚などの、馴染んだ五感の機能が頭部に集中しているからだ。そう、人の頭の周辺には、いつも様々な想い、イメージ、感情が浮かんでは消えているのだ。

何かを集中して考えている時の「思考」も全く同じである。また、それは自分が創造的に、考え、感じ、想像している・・ものだと思っているだろう。「わたし」がそれを発している・・ととらえているだろうし、またその考え、感じ、想像すること自体は、一切何者にもわからない、自分独自のものだとも思っているに違いない。

その想念・感情類の総合的な、いわば積分された波動が古来より「オーラ」と呼ばれるものだ。オーラはいわゆる想念と物質形態の間の波動帯域での現象と考えられ、これを観ることが出来る人は、オーラの発生主のその時々の意識状態を総括的に読み解くことが出来るものだ。

 

●想いのソース(源)は遍満する意識

しかしながら、その思考、想いのソース(みなもと)は、宇宙を含む、またそれを超えた、あらゆるところに遍満する「意識」からくるのだ。

それは昔から神とも、宇宙意識とも、大いなる存在とも呼ばれている。

それはあたかも電波の伝播のように遍満しており、それを受信機のようにその時空でキャッチ同調するのが、身体及び頭脳という高度な機能である。

われわれの意識の作用、あらゆる振動帯域を含む宇宙の遍満意識への個々の意識の同調、こころの振動レベルに応じて遍満する意識波動に同調しているということだ。

その同調ズレや、あるいは個々の歪んだフィルターによって、内面に現れる想いが、我々のいう「不幸」のもとなのだ。

個々の生存のみに変調された意識の振動域というべきもの、普遍性から離れた、いわば歪んだフィルターのことを「エゴ」と言っていい。エゴをクリアーにする過程を通じて、人類の名付けた不幸なるものが減退してゆくのだ。

そういう意味で、意識ある人間は自分の時空に湧出する普遍意識を「加工」「変調」している存在といえる。こころの浄化や調律とは、こころの歪、すなわちエゴと呼ばれるフィルターのクリーニング、あるいはノイズのキャンセルを行なうということである。

 

●世界中の不幸は「影」にすぎない

自分の想念は誰にもわからない・・、そう思っているかも知れない。

そうであればこそ、ウソをいっても誰にもわかろうはずも無く、好き勝手なこともバレなければ問題もない・・ということになり、自分の都合に合わせた、嘘やダマシが横行する世界にもなる。

我々人間の世界にある様々な出来事の、その生起の元にある「根の想い」がわからないがゆえにこそ、世界の人々の挙動が、複雑怪奇な、何か深遠な意味がありそうなものになっている。

 

しかし、多くの人々が幸福を求めているはずであり、その意図は何処の誰であろうと変わりはしない。極悪といわれる人々も陰謀者も権力欲に染まった人々も、心底では幸せを願っているからこそのことである。多分、やり方が相当に稚拙なだけのことなのだ。

 

確かに、誰も皆、今この瞬間にも、何がしかの思考や感覚が生じているし、それに従って相応の言動・行動をしているのだ。

人の想い、それを意識的に認識する力が備われば、あなたにどんなウソも通用しないだろう。

しかしながら現実は、それ自体に気づいていない人々が多いからこそ、世界は混乱して、終始不能のかたまりのごとく、時の流れに流されている。

 

●自他の想念に気けることはすなわち意識の拡大を意味する

自己の想いに気づき、これを観ることが出来るようになれば、その想い、想念という波動は、他者とも同じ周波数帯で振動しているものであることが理解出来るようになる。

こころを観るという意識レベル、ある意味で曇の上の周波数帯域に移行するためには、まず「こころ」の働きを知らねばならない。

我々が、より高い、より広い見晴らしの良い視座へ進むためには、意識の働きである「こころ」をどうしても知らなくてはならないことが理解出来るだろう。

想念を自在に観ることでそれを知り、潜在せる意識の拡大をはかるのだ。

ところで、あなたや、あるいはわたし達は、その想いが他者に知れても問題がない程度に、「こころ」を洗濯しているだろうか。

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●テレパシーは本来自然な意識の同調機能

想いに敏感になれば、今はSFチックに言われるテレパシーも、自然な知覚として我々に次第に備わるようになるだろう。それは私自身、自分の体験によっても明白である。

自分の思考を観ることで、結果、人の思考にも容易に同調出来ることにもなり、他者の想いの大枠が瞬時に理解できることになってゆくのは道理である。

自己の想いが次第にわかるようになれば、他者への「思いやり」も出てくるようになり、そのシンパシー感は、まさに同調をしやすくする要因となるのだ。

以心伝心とは、古来から言われている直接の意識の共感・共振のことであり、こころを観ることが出来る、それなりの人々の間の同調のことである。

多くの人々は、今は表面上の言葉の応酬でそれを何とかしようとしているが、人々の直内面への共振が困難な為に、複雑怪奇な人間模様となっているのだ。

 

●内面の不動の点に戻ること

無理など何もしなくてよいのだ。まず自分のこころ模様を観ることである。ついついそれを忘れてしまい、何かの概念・観念・他者に自己投入する場合があるだろうが、いつも「わたしはわたしである」ところの、自分に戻るようにするとよい。

自己観想は、別に必ずしも座禅を組むパフォーマンスも必要もなく、常日頃のあり方の中で、自分に気づいていることである。

何か別の物・者・に自己投入をしている「自分」に気づいているだけでも、日常の嵐を体験しながらも、決して嵐に巻き込まれない、台風の目のような、不動の意識の点にあることにも気づくようになるだろう。

その不動の意識の点は、いわば「空」でもあり、それは無限の知恵や理解や豊かさの泉のようなものだ。

あなたのなかにある不動の一点は、

あらゆるすべての根源から湧き出す命の泉である。

まさに、今、ここに幸あり。

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。