●生と死の狭間
我々は今ここに生きている。その連続である我々の人生は、時間にして数十年程度のスパンのなかに現れた偶然の出来事の羅列であると考えている人が多いだろう。お金や物の話は誰にも共通する会話になるが、生とか死とか命とか・・そんな会話がタブーになったような世界に我々はいるようではないか。不思議な感慨があるものだ。
多分我々は、生と死の狭間である人生をそれなりに生きているが、その前と先、例えば生前と死後のことは考えないようにしているように見える。多分、肉体である我々は、死んだら終わり、元も子もない・・と考えているに違いない。
我々は朽ち果てるべき肉体そのものであると考えているからなのだろう。それが大勢の人々の 「意識されざる」 または 「責任回避の」 共通観念といえるものだろう。皆がみなそう思っているだろう?・・ことが真実であるかも?・・という「漠然とした信念」ともいうべきものだろうか。他者が他者の顔色を見つつ、様子をうかがいながら何の結論も得ないままでの、無知の状態での放置といえるかもしれない。
多分、何回も無意識で生まれ来たり、そうしていつの間にかあちらに還る繰り返しをしているのだ。地球という物質レベル波動の濃厚の世界には、本然の自己と、物質レベルの体験フィールドの自己の間に緩衝フィールドである、いわゆる霊界が生成される。我々はその緩衝フィールドを何度も行き来しているのだが、物質の波動に同調するたびに一時我々の真我を忘れることも繰り返している。
●集合意識の自己幽閉
地上の我々は、極めて小さい物質感覚の世界、五感の世界に幽閉されている、事すらも気づかない状態ではないのか。何事においても、「もうこれが全てである」と考えることの中にこそ、その幽閉の壁が出来ていることに気づかないものだ。幽閉の門の中で何もわからない者同士、世間という囲いの中で、お互いの顔を眺めているにすぎないのかもしれないのだ。
これが「集合無意識」というべきものだろう。我々は今、その観念のいわば周波数帯域の中にいると言っていい。
我々は社会という外界を生きている、見ていると思っているが、実は本当の外界ではなく、集団の観念、その時々の常識という観念体系の世界に生きているし、それを見ていることに気づくだろうか。その観念体系のなかでの出来事や、あるいは眼に見えない方向付け、刺激によって人生を消費しているのだ。よく例に出される個別別個の不安に満ちたか弱い子羊の群れのようなものだろうか。
誰にもある人生、その時々で生起する想いや感情が、社会の常識というプログラムで規定された範囲の中で歪められていることに気づくだろうか。毎度お馴染みの人の間で生じる歪が、怖くて楽しい人生の続きをもたらしてきたのだ。それをカルマともいうのかも知れない。
●死の恐怖は、即ち生への恐怖
社会の中にある様々な人々の言葉、表現、行動は、いかに権威付けされていようと、いかに尤もらしくアピールしていようと、その刹那の生命をただ享受しながら無意識の状態のままで必死になって生きているということだろう。
我々が生きてある・・という意味を真剣に探求すると、必ず生と死を合わせて理解しなければならなくなる。
特に死という現象の先が五感では見えない為に、それを恐怖として逃避しているに違いない。死は忌み嫌われるものとして、いつもいつも我々の認識の外に排除しているのではないか。
そうして死ぬまで、死を回避することの正当性を主張しながら、刹那の人生を送っている場合が多いのではないだろうか。まさに大きな勘違い・無責任・逃避とも言えるものであり、これが人類の集合意識の共通の根にある観念といえるものだ。そのために様々な努力や軋轢、闘い、支配、反逆などが起きているといってもいいものだ。思い出す努力よりも目先の刺激を楽しんでいることを選択しているようなものだろう。
●自己自身を知る事と真反対の世相
自己のあるがままを観ることが出来ないからこそ、その眼を外に向けて固定してしまうのだろうか。そうして外の世界の他者をいじることで、何事かが為せると信じてしまう段階もあるだろう。しかしながら、その他者依存が嵩じて他者を攻めることになることにもなかなか気づかないのだ。
世界の様々な出来事やニュースや権威からのアナウンスも、全て、現象の扱いに一喜一憂しているだけのことであろう。どこかの権威や大統領やさらには陰謀集団や、あるいは政治家、革命家が、あなたやわたし達の幸せをもたらすわけではないのだ。
内面に湧く想いや感情の中にある久遠の創造性よりも、外の世界にあるわかりやすい物質の操作に夢中になっている幼児達が、今の我々の有態と言えるだろうか。
物質に夢中の間は物質の消滅が怖くてしょうがないのだ。そのような意識の場合は、例えば、死は忌避すべきタブーとなる。
●物質文明の根元にある死への恐怖
大枠は死ぬのが怖いから様々な生への執着行為が行なわれるのではないだろうか。富の蓄積も、権威の追求も、支配への飽くなき努力も、多くは自己の肉体維持の為にあるといっていいのではないか。
限られた命であるがゆえに、それを必死で確保しようとする行為が、経済の発展であり、富の蓄積であり、人集団の中の有利な地位・権力なのだろうか。
他人の言動に悩み、人間関係に悩むのも、仲間外れや孤独という、自己の生存に適さない状況が起きるかも知れないという恐怖から来るとするならば、それはつまるところ、自己の生命の保身にたいする毀損への恐怖からきているのだ。
解決すべき問題は、他者にあるのではなく、いつも自己にあるのだと気づくだろうか。
●あるがままを忌避すること=怖れ
死からの逃避は、恐怖が故のものであり、その恐怖がゆえにまさに今の生が萎縮したものになっているかもしれない。生を生き切ると称して、無意識レベルで爆走するか、あるいは結局のところ汲汲とする人生ともなる原因は、まさに死への無理解と恐怖があることに気づくだろうか。
逆に言えば、自己本然の生を最大限に生きることができていない・・かも知れない為に、まさにその終局である死を回避している場合もあるだろう。
生も死も相対的なものであり、生への執着も、死の忌避もその何たるかを理解しないままのこころの歪を示すものであろう。
生も死も誰にもどこにもある相対的なものであり、それを体験する我々にとってはあくまでも一時的な現象にすぎないのだ。我々は現象を現すところの「因」たる意識であり魂であるからだ。
今の社会を構成する様々な人達は、生と死をあるがままに理解することで、我々自身の本来の生命に気づくことを怖れているのかも知れない。もう少し無意識の状態で遊びたいということなのだろうか。
ところが、必ずやってくる肉体死の後は肉体を離れた状態での生に直面することになる。
●内(因)から外(現象)へ展開する意識
死を回避し続ける手段として、生存競争や様々な娯楽を提供しているのが現代文明であろうか。支配と支配の軋轢や変遷、権力の華やかな飾り、飽食三昧、性の刺激の過剰発露、感情の冷ややかな爆発とも思える戦争・・・全ては無知なる我々自身が目覚めるまでの体験をするための、ある意味での時間稼ぎのようなものかも知れない。
外の世界の誰かが何か良き事をするのを待ちわびるような幼児(おさなご)のこころは、最後のダマシに遭遇することになるだろう。それもこれも、生きて、そして死を通過するのはいつも各自であり、また生きている間に目覚めるのも、いつも自分自身であることがわかるまでのことだ。
そのための繰り返しが飽きるまで行なわれてきたのかもしれない。あなたはもう思い出せるだろうか。
●不滅のものを推し量る
肉体の生成・消滅は、物質組成の様々な変化の一環であるが、その背後にあるエネルギーの不滅は理解出来るかも知れない。物質の様々な運動・変化の背後にある目に見えないエネルギーというものは、既にエネルギー保存則として理解されている。結果である運動・変化の因としてのエネルギーは物理科学でも常識とされている。エネルギーは様々な運動・振動系において、様々な単位として表されているが、その様々な形態変換を通じて存在するものがエネルギーなのだ。
これは生命という形態変化の因としての意識の根本作用に気づく隠喩としては妥当と考えられる。
エネルギーの意識化されたものが情報であり、情報は記憶という形で保存される。物質レベル以上の存在である、あなたやわたし達の魂なるものは、不滅の記憶庫ともいえるかも知れない。意識が体験すること、即ち、想いや感情、経験は、消えない記憶として保存されている。
●降りてきている「蜘蛛」の糸
更には、昨今増えてきた汎世界の情報、多次元宇宙のチャネリング情報、モンローのフォーカスレベルの仕組み、古くはスエーデンボルグの霊界情報、相当に変質された感もあるが釈迦やイエスの言葉なども我々の生命の不滅を説いている。
それらの様々な情報の中にもある、変質されたものや真正なものをより分け掻き分け抽出し、内面の感性を信じながら自己認識に至り、自己の中にある無限の命を再認識すべき時に来ているのだ。
我々は今まで回避してきた全ての相対的な有様を、セットとして統合する過程にある。光と影、男と女、善と悪、そして生と死・・・それらを有るがままに観る必要があるのだ。どれか、何かを忌み嫌い、忌避することはいつまでもその影に怯え続けることになる。
生・それもあり、死・あれもあり、それらは単に我々の体験としてある。
様々な体験に対する想いや感情は、真我なるわたしやあなた達自身の豊かさを証明し続けるところの朋である。我々の想いの中にこそ本来自然の有り方に帰還する蜘蛛の糸があるのだ。想いを広げ、理解を広げることが今必要な行為なのだ。
●今は古い地球興行舞台の幕引き時期
他者に遊ばれ、小突かれ、また小突き返し、感情逆立て、復讐して喚くような演技はもうこの地では出来なくなるだろう。それも貴重な体験であるが、この地球生命圏はそれらの体験を充分演じきったようである。
例えれば、舞台の興行主が地球意識生命体とするならば、その興行内容は更に感動深いものにするべく次なる努力をするのは当たり前のことなのだ。どんな舞台もパフォーマンスも、その時々のテーマを元にした、始まりと終わりがあるものだからだ。もうこの愛すべき舞台を刻んだり破壊したりする演技は出来なくなるだろう。
次なるこの地球という舞台では、新たな感動と愛をこれでもかというくらいに創造してゆくことになるだろう。ある意味では、これでもか・・という悲しみのお陰でもあるのだ。
愛という言葉がいつも誤解と手垢にまみれていた地球の舞台は終わり、愛と理解、それが当たり前のこと、本然であることがわかるような舞台が演じられることになるだろう。考えてみればこれは自然の成り行きかもしれない。
●統合とは、ありのままを観ること
今我々は、生と死も統合しなければならない時期にあるようだ。
生と死も相対的な現象であり、我々はその相対的な現象そのものではなく、それらを体験する側の存在なのだ。様々な生と死を通じて命を展開してゆくことが、我々の歩いている道といえるだろう。
地球生命圏は物質レベルの形態変化を特徴とする生命フィールドであろう。素材としての物質形態が大自然を代表とするごとく様々に生じるところであり、そのため、我々を含む全ての意識の個性ある発現がわかり易く学べるようになっているのかも知れない。
生と死は意識的存在である人間の最も根本的なテーマであり、古来から伝えられて来たところの「悟り」や「解脱」は、その生と死をそのままに意識的に受け入れるということなのだ。とんでもない大革命を闘うことでも、肉体の変態を行うことでも、多次元世界に消え去ることでもない。
今あるわたしの有り方をあるがままに受け入れるということなのだ。あれがダメ、これが不足というこころではなく、全てがまさにあるがままであり、様々な変化と進化が行なわれている普段の創造に気づくということなのだ。
そうすれば否応も無く、変化と進化を体現している大きなわたしに戻ることになるのだ。執着を放すことは、物質レベルの現象に意識を没入している限りは、確かに難しいといえるだろうが、意識的に執着を手放す行為を通じてこそ、わたしという意識の焦点の転換と拡大・帰還が起きることに気づくだろう。
●放てば手に満てり
いつかまさかの天変地異や大変動等によって否応なく気づかされるよりは、勇気と潔さをもって、様々な執着をその手から開放するべきだろう。
その手放すべきものとは、子供の頃にはなかったはずの「執着」だけなのだ。今、子供の頃の無意識な純粋さをこそ、意識的に再び取り戻す時ではないのか。
様々な繰り返しの人生体験を経た後には、自らで再び純粋なこころを創りあげる意識的行為によってこそ、その大輪を咲かせることになるだろう。地球という生存圏が提供してくれた人類の幼年期の終わりを記念する大輪の花である。またそれは当たり前のあるがままへの帰還でもある。
これは「解脱」といわれる、今の在るがままを「意識的に」認める行為と言えよう。そこには困難や不満や不足があろうはずもなく、ただ感謝があるのみである。
この「地球」の特徴の1つは、人間という、ゼロから目覚める体験をあえて求めて降下してきた、無数の意識存在を受け入れ続けてきたところの、辛抱強い「愛」である。
本日も、いつもながらの拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。