気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

幸せは今ある

2009-11-07 16:21:06 | 心の科学分野

●人が求めつづける幸福とは

多くの人々は今幸せではないと自ら感じているだろうか。多分そうかもしれない

「冗談じゃない、幸せであれば、今のような苦労もあるわけない、当たり前のことだ」・・と想っているのかもしれない。

誰しも幸せでありたいとどこかで願っているからこそ、

冷たい朝に起き出して、仕事をこなし、勉学に励み、嫌な人にも頭を下げ、愛想笑いを顔に作り、疲れた足取りで家にたどり着き、いつかまたこころを眠らせながら床につくのだろう。

●幸福は苦労の先にあるものか

それでも、その毎日毎日の繰り返しにも辛抱し、我慢しながら、自分または家族の為にと密かに奮い立ちながら、いつも来る明日にようやくたどり着いているのかも知れない。

多くの人は、ものごころつく子供の頃からそうだったかも知れない。 そう、今、幸せなどあるわけもないと思うから、きっと将来、幸せになるために頑張っているのだ。

多かれ少なかれ、そのような希望に満ちた未来への頑張りの中に、せめてもの今の幸せを見出しているともいえるだろう。わたしも、あなたも本当に愛すべき人々であるのだ。

 

●幸福には条件が必要なのか

しかしながら、なぜ過去も、今も幸せではないのだろうか。

それは・・・

 世界どこかの誰かが我々の幸せの邪魔をしているせいなのか?

 社会が偏狭だからなのか。

 政治が低俗であるからなのか?

 身近な人が何かにつけ、いつもあなたの足を引っ張っているからなのか?

 仕事の仲間がいつもストレスをあなたに与えているせいなのか?

 お金が、収入が期待どおりでないせいなのか?

 人がうらやむような美貌でないせいなのか?

 こころから愛してくれる人がいないせいなのか?

 豪華な御殿に住めないせいなのか?

 尊敬される地位についていないせいなのか?

 ・・・・・いいや、ちがう。

 

●求める幸福はいつも未来にあるのか

それらの全てが、あるいは1つでも満足できる状況ならば、幸せと思い込んでいるのではないだろうか。

多分、漠然とした意識ではありながら、そう想っているのかもしれない。

実のところ、こころや身体を安楽にする為の「もの」「人」を満たすことが、「幸せ」を得ることにつながると漠然と思い込み、そのいつも満たされざるものを満たそうとして奮闘しているのかもしれない。

何かがなければ幸せではあり得ない・・という刷り込まれたような想いに気付くだろうか。そこには、知らず知らずの刷り込みと勘違いがあるようだ。我々はどうも、幸せを求めているのではなく、安穏と充足を求めているといえないだろうか。

 

●幸せが未来にあるという幻想

 当然ながら、人それぞれのこころのステージ、ステップがあるものの、実のところ、ある人々にとっては、実は幸せなど眼中にないのが事実だとしたら、それは言いすぎだろうか。

幸せという「的」を漠然と頭に描きながら、体やこころの為の「安楽」と「刺激」を求めているだけの場合もあるものだ。

現代社会がこのような乱雑さと活気と喧騒に満ちているのは、そのような人間達の想いを満たそうとしているからに他ならないだろう。

社会は有る面で、本然たる幸せよりも、物的充足と安楽と生きるための、外からの刺激を供給する仕組みになっていることに気がつくだろうか。需要と供給である。

そのためには実によく出来た、幸せを求め続けるだけの世界ともいえるではないか。

あなたやわたし達は、自分のこころの中の奥や隅に隠してある、不可思議な不安や恐怖、あるいは自尊心が腐りかけたような孤独の影に自ら気づかずにいるが故にこそ、その影が社会に投影されてしまい、体験として具現化されていることに気づくだろうか。

そうして、あくまでもその影の投影である世界や社会の有り様の方に不平不満をぶつけるのか。

漠然とした意識のなかで、まず身体の安寧さが幸せに先立つものと思い込んでいる。そのため、身体の安寧さを獲得する為に、多くの細切れの知識と世渡りの術で社会という海を泳ぎ続けるのではないのか。

岸はいつも遠くにあることに辟易としながらも、それでも必死になって彼岸に辿りつく努力をしているようでもある。結局のところ彼岸は、その必死の努力が終わった時にしか到達できない矛盾を感じることを毎度繰り返しながら、いつかどこかで辿りつく希望を、未来に投影し続けていることもあるだろう。

我々が幸せでない?・・まさに宇宙的な冗談ではないか。

確かにもって、それを何世も何生も繰り返すことが出来るのもこの愛すべき地球の支えのお陰でもある。

 

●既に与えられていることばかり

幸せを追い求めること自体、本然の幸せから眼をそらせていることになる。今、無い」と想うから求め続けるのだ。

一見当たり前だが、ここに既に、「いつも得られることのない幸せ」を想定し、その状態をしっかりと得ている所作に気づくだろうか。

我々はいつも求めているものを、今の瞬間に得ているのだ。それに例外はない、気付かないだけのことだろう。

そう、いつも「この先にあるかも知れないという幸せ」を、今の今その通り得つづけているのだ。いつも未来にある幸せというものを、今の今の瞬間に、しっかりと得ていることに判然と気づくではないか。いつも未来にあるということを創りつづけているという笑える話なのだ。

幸せを「求める」行為によって、「幸せが今無い」ことを勝手に設定し、そのままを瞬間に創造しているようなのだ。それがわがまま三昧の放蕩息子の遊びといわれるものだろう。

 

●生かされている事実を思い出す

我々は自助努力で生きていると誰しも想っていることだろう。自分が生きなければ誰が助けてくれるものか・・という、どこか奪うばかりの社会の中で必死に孤軍奮闘しているようではないか。

 

ところで、我々は本当に自分のお陰で生きているのだろうか。

  我々の身体は誰が維持しているのか。 

   数十兆の細胞はあなたやわたしの個人的成果なのか。

  空気はなぜ周りに満ちているのだろうか。

   調和に満ちた地球の大気は、あなたやわたし達の個人的成果なのか。

  水はどうして生命をあらゆる場所に運んでいるのだろうか。

   わたし達は、意図して体に水や栄養素を運んでいるのだろうか。

  大地はなぜ足元を支えてくれるのか。

   我々がその足で意図して地球を支えているとでも言うのだろうか。

  太陽はなぜいつもエネルギーを我々に供給し続けるのか。

   暖かい熱も、全てを照らす光も、たまたまの偶然の「好意」なのだろうか。

   そこには大いなる愛があると観じないだろうか。

例えれば、無限の愛というものが絵として目の前に掲げられていたとしても、我々は紙や絵の具にしか着目せず、それを物質として分解し、額を切り刻み分析し、バラバラにしたあげく、元に戻せないようなことをしているのかもしれない。

また、鼓舞するような書物があったとしても、その中味のテーマなど解読するよりは、外見の装丁や紙ページの量や重量などにしか眼がいかない様なものかも知れない。

全ての被造物は、それを鑑賞・観察し、その創造の本意が理解される為にこそ、存在している。形や物ではなく、それで現すところのこころ、意識の働きに気付けるまで何十億年も必要はないのだ。

 

●意識的目覚めはいつも今しかない

 我々人類が「眠っている」といわれる所以は、我々を取り巻く「いのち」すなわち無限に織り成す「愛の表現」に気付いていないからである。

様々な生命や自然の有様は、我々を十全の愛をもって生かしているにも関わらず、それを単なる確率・偶然として捨て去る意識のどこに、万物の霊長たる人類の意識があるのか。

不満足と不幸を元に車輪を廻し続ける幻想の社会、世界に浸りこめるのは、その人を取り巻くところの様々な自然界の「無条件の愛」の支えが故のものなのだ。

我々を取り巻き、我々自身でもあるところの自然・宇宙は何も文句をつけることが無いのは、無機ゆえでなく無限の慈愛が故なのだ。

 

●人間とはなにか

人間・・それは、

  空気がなくては生きられず

  水が無くて生きられず

  土が無くて生きられず

  光がなくて生きられない・・・

  人々がいなくて生きられず

  動物がいなくては生きられず

  植物がいなくては生きられない・・・

 

・・・しかしながら、全てが愛と調和であることに、

意識的に気付くところの存在が人間なのだ。

そして無条件の愛に対して、

無条件の感謝の念を発することが出来るのも人間である。

それは、創造を創造として仕上ることが出来るところの存在ともいえるのだ。

 

我々は今、いつも、今も過去も、未来永劫、幸せに満ちた存在なのだ。

 人々は・・・あなたの周囲に、これでもかというくらいに大勢いて、それを待っている。

 動物は・・・いつも愛らしく、あなたのそばにいて、それを待っている。

 植物は・・・あなたの糧になってあなた自身の細胞のなかで、それを待っている。

 万物全てが、それを待ちわびて、あなたやわたし達を黙って支えているのだ。

それを「無条件の愛」といわずして何と言えるだろう。

あなたやわたしが、どうということもない事に悩み、後で後悔する行為を繰り返しながらも・・・、

それでも次第にこころが広がり、万物から無条件に既に受け取っている、今有る「幸せ」に気付くことを待ちわびているのだ。

我々は、個々、別個の悩みや不満どころではないはずの、

万物からの無償の愛に、もう気付くべきなのではないのかと言っているのではないか。

そう・・・、我々は幸せなどを追い求める必要自体がないことを悟り、既に有る幸せにいつも感謝するしか手は無いのだ。

まさに今この瞬間が幸せそのものであり、努力して行なうべきは、

まさにそれに気付くところの観の転換のみである。

全ては与えられている・・・感謝を十万遍も言っても・・足りないと思う。

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Flower1009

(ふと思えば、何かオーラが写っているような花の写真です。)

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。