物質を含む世界のあらゆる存在形態、こころの働きも含め、それらを既知なるあるいは未知なる『波動』として見たときに、今まで不可解であり、身近に感じられなかった様々な次元や生死の世界、宇宙の世界の話なども、多少とも理解が容易になるかも知れません。
●エジソンの逸話
眼に見え感覚に映る様々な現実を経験し、大概の理解と気づきを得た人達は、往々にして眼に見えないレベルの存在の有り様に興味を持ち、探求することが多いようです。例えばあのエジソンなども、晩年にはいわゆる『霊界』との通信など?を試みていたとも言われます。電球や電気の発明、新しいビジネス等というイメージのみを持った人々にとっては、「天才も最後には行き過ぎてしまい、とうとう晩年には頭が変になったのか?」等とも映るものですが、エジソンとは限らず、多くの先達たちの眼に見えないレベルへのアクセス意欲にはそれなりの意味があるものです。
●既知と未知、色(しき)と空(くう)
特に現代社会においては、物質的繁栄のみに汲々とし、眼に見えないものは、あたかも存在していないような一般通念・漠然とした信念を抱き、それに自ら染まってしまい、その目先の物質的な視点から世界を眺めていた感はないでしょうか。
もともと常識などは、常に変化し続ける認識と考えるものであり、多くの人々の言う?『常識などに間違えのあろうはずもない・・』、という観念こそ、現象のみに囚われていることを示すものです。本来の意識的存在である人間のあり方としては、当たり前という観念にこそ、その注意を向け、出来るだけ意識的になっている必要があるものです。
今の世界は、今まで見えなかったものが加速度的に見え出してくる、奇遇な時期にある事を感じないでしょうか。加速した世界の動態を見るにつけ、確かに極めてまれな一大シフトの時にあるようです。
●「色即是空」は、存在世界の有り方を説明する象徴的な言葉である
色即是空、すなわち、現象(色)は空(くう)から現われるものであり、また空(くう)であるからこそ、様々な色(現象)を湧出することが出来るということです。空(くう)の探求は色(現象)の探求でもあり、必然的に、今は眼に見えないといわれる未知の世界の探求につながるのです。従ってさらに広大な世界への理解を得ようとすれば、常に眼に見えない分野へのチャレンジが必要であり、思索、科学、哲学なども、未知なるものから既知なるものへの変換作業であるとも言うべきでしょう。
人間にある好奇心や、より大きな知識への希求で示されるごとく、我々の認識、意識の眼差しは、常に未知なるものへと向けられています。常識といわれる通念、観念や、既知なるものだけへの意識的な執着は、逆に人間存在としての本来のあり方ではないのです。その意味で、我々は一時の惰眠をむさぼる段階、目覚めざる意識の段階、忘却の淵に眠る体験をしている状態であったということもいえるかも知れません。
●今居る世界の、前後左右に気づく段階
この現実以外の世界といわれるもの、生前の世界、死後の世界、他の存在界などといわれる世界はどのように構成されているのでしょうか。
もっとも、自分が単に「肉体」であると無意識に信じ込んでいる「こころの段階」では、このような問いかけや探究心自体に意味が感ぜられず、まさに無きに等しいものでありましょう。ましてや、話題にしたり、気づいたりするどころの話ではありません。
それらの存在にとっては、五感以外のことは意識の対象の外にあるため、そのような概念自体に接する事もないかも知れません。その段階では、井戸中の小さな世界のみが、まさにその意識する対象であるために致し方ないものです。確かに、目覚めのために必要な1つのプロセスとしての『無意識』という体験をしているだけのことです。狭い世界に対して自分自身が飽和する段階までのことではあります。
●様々な存在界
現界、霊界、天界などという仮想存在世界を表す言葉は、その言葉がそのものを示すように、古い宗教価値感や善悪2元思想、また恐怖を元にした囲い込み方策などで色どられています。大なり小なり、我々無知なる人間達の「手垢(てあか)」にまみれており、その、おどろおどろしい概念が人類の意識に思いベールを被せ、大きな世界観から隔離してしまい、この地上次元のみへの偏執として機能してきたようです。今までは恐怖や無知、偏見、偏った宗教観などが、人をして、世界の本来の広大なあり方から、眼をそらすようにして来たかのようです。
古来から言われてきた霊界、天界などという異世界の概念は、多層になった幅広いさまざまな「存在界」のことを象徴的に表しています。地獄、極楽、などの概念は、意識的存在のその存在の有り様の、云わば段階・ステップまたは異なるステージを示しているのです。我々のこころという意識作用がより広範囲になり、様々な経験や現象に対する理解を深めてゆけば、自ずと、否応なくその『意識レベル』なるものは微細に精妙になってゆきます。これは簡単に言えば「意識的進化」とも言えるでしょう。
●意識の振動率・周波数について
例えば、1本の赤いバラを見たときに、どのように感じるでしょうか。単なる赤い花であると素通りしてしまうでしょうか、微妙な色合いに少なからず感動するでしょうか、植物という種の不思議を感じるでしょうか、また自己の意識を通じてその在りて在る生命という表現を感じるでしょうか。
単なる現象対峙にしても、まさにありとあらゆる思い方、感じ方、言い換えれば『意識の有り方』がそこにはあるのです。『意識の有り方』はそれに相応しい『振動率』、より身近な言葉で言えば『周波数』なるものがあると云えるでしょう。
●存在形態の違いは意識の振動率の違い
各人各人の意識的な進化のプロセスは、具体的に云えば「こころの振動率の変化の過程」とも表現できるでしょうか。鉱物、植物、動物、人間にもそれぞれの意識があり、また人間でありながらもそれぞれの個々人が様々な思考や感情を表現しています。まさに全ては広大な『意識』でありながら、その段階段階で様々な有り様を現しているということであり、それぞれの個体たる存在は、その時の「意識の振動率」が異なっているだけの事ではないかと思われます。
身体・姿態などの外面の形態の違いは、内面から発する意識の違いを表す2次的なものであろうと考えられるのです。
●進化には振動率の精妙化を伴う
より大きく深い、また精妙さを増した意識の有り方は、自ずとその『周波数』(意識的波動の精妙さと言っていいもの) が細かくならざるを得ないようです。例で言えば、目の前にあるパソコンの画像も、古い機種などは周波数が低く、その低い解像度での粗い表示しか出来ませんので、より細かく精細な画像を表すためには、更に高い周波数のものが必要になってきます。つきつめれば、存在の色々の諸相、表現の緻密さは、その諸相に於ける振動率・周波数に沿ったものになるわけです。
経験や気づき、体験に対する様々な思いや感情を通じて成長するということは、ある意味で人生経験の目的と云ってもいいでしょうし、その自然な成り行きとして、思考、感情、意図などの『意識状態』が、より高い周波数帯に移行していくとも云えるのです。
一言で云えば、存在としての愛と理解の度合いが、より広大でより深く高い方向に成長するということでしょうか。
●こころの有り様で意識の周波数が変る
意識的進化ということは、人間にあっては、いわゆる『こころ』の成長といえるものであり、より精妙で幅広い世界を認識出来るようになってゆくと言うことでもあります。動物と人間の違いは、肉体の質量の違いなどではなく、その意識の拡大範囲や、精妙さの違いです。
昔から言われている「オーラ」の輝きは、その人間の意識段階、理解の幅や深さを表し、赤系から紫、白、黄金、へと変っていくようです。これは光のスペクトルとも類似しており、光の七色のスペクトルもそれぞれに周波数が異なっているのです。
これは、程度が低いとか高いと言うことではなくて、そのようにスペクトルがシフトしているというだけのことです。人の思考や感情、行動などの表現出来る内容により、その周波数帯が異なってゆくというアナロジー(類推)と捉えても良いと思います。
●意識のレベルに応じた世界に在る事実
この『意識の振動率・周波数』なるものが、その存在の、その時に属する世界への同調機能をもたらします。我々のこころの働きは、その時々の我々の意識の振動率を決めており、その振動率に同調した世界との協調が行なわれているのです。 現状のこの世界に同調しているからこそ、今この世界に存在しているのが我々なのです。
●波動で読める世界観
我々の存在世界も一種の緻密なホログラフィーと考えられるのです。ということは我々の共有するリアルな世界は、ある一定の振動率を持った波動で構成されていると言うことも考えられるのです。我々が地球という時空フィールドに60億もの人間:個別意識として各々存在しているのは、個別の意識体(人間・動物・植物・・)が、一定の周波数帯に同調しているということも言えるでしょうか。それぞれに多少の周波数の違いはあるものの、お互いが意識下での同意の上、同じ番組を見ていながら、相互にコラボしていると言えるのではないでしょうか。
波動・周波数的な観点から我々の世界を説明しようとすれば、大枠ではそのような、ある意味ですっきりした世界構造を提示できないでしょうか。我々の身体、環境を構成する物質としての原子・素粒子も、ミクロでは波動の性質が顕著になるということは、多分にそのような世界観も実は的を得ているかもしれません。
我々は、今、地球の基本周波数を元にした世界にいるわけであり、人類集合意識の合意している3次元立体世界という、一見リアルな世界に浸かっている、あるいは同調しているということも出来ます。世界が実に立体的、触感的であるために、そのような波動の世界の住人・観察者であるなどとは思いもよらないわけです。実は、手の触れる机の表面も、自分の肉体も、空の青さも、空気の冷たさも、極めて緻密な地球の波動を元にした「ホログラフ」であると考えてもいいでしょう。
●ロバート・モンローの偉業
尚、ロバート・モンローは『体外離脱体験』を繰り返し、この世界を包み込む様々な周波数帯を「フォーカスレベル」としてわかり易く説明しました。不思議な事に、7オクターブ毎の意識的な周波数帯を示し、現実世界(現世意識エリア)~20、フォーカス21~(霊界)、フォーカスレベル27~(天界)、、フォーカスレベル35~以降は様々な存在世界・・・という具合に、やはり階層構造をしていると説明しています。
●周波数帯の住み分け
電磁波で伝わるTVやラジオなどは一定の周波数の幅のなかで、多様な映像や音声を表現することは誰にも理解出来ます。TVの1チャンネルと3チャンネルはわずかの周波数の違いですが、同調周波数をそれに合わせるだけで、チャンネル毎に違った映像を見たりや音声を聞いたり出来ます。周波数帯が少し違うだけで、全く違った番組を見ることができるです。例えば、1チャンネルではニュース番組、少しだけ違う周波数帯の3チャンネルでは料理の番組という住み分けがあるのです。
我々の今の意識の振動率では、世界の存在層の1部しか見えていないということです。例えば、古来から言われてきた「現実界、霊界、天界」なるものは、存在するあらゆる層の隣合った別の存在の周波数帯のことを象徴的に示しています。
●世界の違いは周波数帯の違いでもある
それらの違いの基本は、その世界に存在する『意識』の周波数の違いにあると考えられます。電波通信関連の技術などをご存知の方々は、少しづつ異なる「バンド」(周波数帯)が飛び飛びになって構成されている事が良くお分かりでしょう。TV等では、周波数の違いがすなわち各チャンネルの違いとなっています。1チャンネルが現実界、2チャンネルが中間(霊)界、3チャンネル以降は様々な天の世界等などと考えるとわかり易いでしょう。
ある周波数帯(意識世界)では、そのほかの周波数帯(意識世界)との混信は無いということであり、言い換えれば、周波数の違いだけによってですが、通常は、周波数の違う他の世界を見ることは出来ないということです。 要は、それぞれの世界の違いは、まずもって、その世界に在る意識存在(人間など)の意識の周波数の違いという事でしょう。それは異なった時間空間という形で現われますが、実のところ、周波数の異なるだけのことであり、世界は今ここに重なって存在しているということも云えるでしょう。
●「固定観念」は文字通り、固定する為の「アンカー」
「現実」といわれる、この地球次元世界のみが唯一であると暗黙ながら感じていることは、世界の地平は平面であり、とても球体などとは考えられないとする、いわば過去の天動説を髣髴とするものです。まさに「固定観念」が人々を1つの狭い世界に釘づけにする、「錨」「アンカー」の役目を果しています。これはある時には文明維持の為の保護作用にもなるものですが、今のような意識レベルでの、文字どおり『激動の時』にあってはまさに足かせともなるでしょう。
●集合意識を「意識する」ことが急務
多くの人間が、壮大な世界の有り方に気付かないのは、皆がそう思っていない、そんなこと言っていない、聞いていない、教わっていない、等という感覚的な理由が主なことでしょう。そんなこと信じられない・というのは、人類集合意識の表面に現われていないから・と言ってもいいでしょう。「五感で誰しも知覚することが出来なければ、それは存在しない、または人間にとって意味の無いことである」という意識状態、観念にまさに同調しているとも言えます。
集合意識または社会通念、あるいは常識という意識のバンド(周波数帯)に自らを縛っているのでしょう。また縛っているとも考えていない、気づいていないかも知れません。
我々は主に五感を通じて、そのわずかの表面の意識、顕在意識を通じて世界と接しています。世界を見る窓としての五感と、それに反応する狭い顕在意識があるのです。五感で得られる情報を元にした思いや感情が、狭い顕在意識の窓を通して、世界の中の一側面を切り取って見ているといってもいいでしょう。その側面側面での認識過程を経験しているプロセスにあるのだと云えるかも知れません。
輪廻転生の目的は時間・空間を実にふんだんに使ったものであり、幾世代にもわたる時代での変遷を通じて、様々な自己の体験とその気付きを経験することでもあると考えられます。
●地球意識の振動率の変化
慣れ親しんだ、この地球のこの次元という『舞台』自体の振動率が、現在変りつつあるようです。それに気づかずに、無意識的に「古い」信念体系を元にしたシナリオで演じているステージではなくなって来ているかも知れません。ひょっとして、地球という多次元『舞台』が、ある時一挙に転回し、新しい幕間に移行している間も、そのシフト自体にも気づけないかも知れません。
我々の存在しているこの地球のフィールド自体も意識体であり進化しているのであれば、この世界のゲストである我々魂存在が、旧態已然たる無意識のままであっては、ある意味で失礼?にも当たるでしょうか。さらに今後、その地球と人類意識の間のギャップが拡大してゆく事にもなり、我々自体がそのエネルギーギャップのもたらす不快を経験することになるかもしれません。
具体的に云えば、今行われている社会・経済の激変、地球生態系の変化、時空潜在次元での多層界の遷移、太陽系レベルでのシフトなどにも気づくことで、そのシフトに合わせたこころの持ち方と行動のパターンを準備しておくべきなのです。尚、意識進化を大切にするという生き方は、今後驚天動地の一大変化があるからだとか、そんな事態は無いから大丈夫だとか云々・・という条件付きのモチベーション(動機)からではなく、人間本来、いつも出来るだけ意識的に生きること、知覚レベル、認識レベルをより広く、深くしてゆく・という生き方が必要なのではないかとも考えます。
地球というフィールド、そのうららかな春のような日差しのなかで、光や風のざわめきを感じながら、様々な体験や眠りを楽しんだ後には、各人各人の潔いそのすっきりした目覚めこそが、ゲストである我々人類にとって、この地球への一番の恩返しなのではないでしょうか。
いつまでも、いつまでも眠っている場合ではない・・かと思う今日この頃です。
まさに、いさぎよさこそが、夜明けを迎える為の切なる「こころ」の開花ともいえるのです。
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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。