●こころは現象化のフィルムである
我々の内面といわれるもの、すなわち意識作用、簡単に言えばこころの働きは、実は我々の外面といわれる世界への投影の原因になるものです。いわゆるフィルムに相当します。映画やカメラのフィルムと違い、常に自在に作成されている、ダイナミックに変化するフィルムです。この、こころの働きというものが、即物的でないと見えるため、実際に生きて生活するためにはそんなに役に立たないものと思い込んでいる人が多いようです。
●こころを無視する物質信念体系
『飯を食う為の役に立つのか?こころが美しければって?それが社会でどんな役に立つの?そんなことよりも、逆に騙されて損をするのではないか?そんなのは危ない危ない・・もっと現実を見なければ・・』という思考が支配的な人たちも多いのではないでしょうか。大体がそこのところで『こころ』の追求・探求は頓挫し、多くの群集の1人としてその中に自分を溶け込ませ、いわゆる生存社会に適応する為の生き方に埋没してゆくのが常ではないかと思います。
その中では、結局は肉体をできるだけ安楽に維持しよう・・という意識が中心となり、群衆社会の価値感の中で、それもできるだけ良い地位に上り詰めようとするのは当然のことのようです。そこでは、お互いに各自の利を獲得するべく闘いを行なうのは自明の理ともいえます。今のこの地球の社会は、大なり小なりそのような形態であることは、誰も否定できないでしょう。小さな輪の中で外向きに腕を組み、輪の中からはみ出さないようにお互いを押し合う、子供の頃に良く遊んだ「押しくら饅頭」ごっこをしているようでもあります。
我々の今まで馴染んだやりかたです。
●物質化による分離意識の体験
あなたやわたしのいる人間社会の様相は、全般的にこのようなものなのでしょう。自分と他人が別々で、お互い同士は眼には見えるけれども、いったい何を考えているのかわからない者同士、そのような者たちが集まって、おサルの山よろしくヒエラルキーを作り上げ、今では、この小さな地球の中で押し合いへしあい、中には他を勝手に排除し、牽制し、刹那の利益が一致する者たちだけが、表面的な仲良しを演じているようなものではないでしょうか。
個人であろうと組織であろうと国であろうと本質的なレベルは全く変わりがありません。どのような社会理論で説明しようと、どんな難しげな経済理論を掲げようと、本質は同じであることを理解出来る人々も多いことでしょう。自分の内面を観察しそのこころの有り様に気付いている存在ならば、多分にそのことがよく解るはずです。自己のことが知れるようになれば他のことも解るようになるものですが、逆に、自己のことがわからずして、外の世界を追い回している限りは、その目くるめく多様性の中で混乱して眠ってしまうことも多いのでしょう。
●無知の知に気づくまでの無意識の状態
この社会のベースにあるのが『無知』であるという事に気がつくまでに、相当の痛い思いや、理不尽な体験を経る事になるものです。流れに追従してうまくまた賢く立ち回っていても、その頼るべき群集というものが、実は無知を無知と認識しない、単なる尊大な無意識であるという、とんでもない事実を知る時期が来るまでは、それを信じているのでしょう。
そうなって初めて、否も応もなく、群集の無意識という架空の信念体系から脱する勇気が出てきます。本当の意味で1人1人が独立しながら完全な個性と他の全てとの調和を体現できるようになるものでしょう。
●自己に気づき始めた人々
このような人間社会の様相、無知を無知と認識しない尊大な無意識の愚かさに気づきだした人々が、今は相当に増えているのではないかと思います。幾多の人生の中で役者を演じきり、時には栄光の頂点を体験し、時にはこれ以上無いほどの辛酸を舐めながら、それでも1条の光を失わずにやっと今の夜明け前に辿りついた人々も大勢いるのでしょう。大げさではない表現ですが、それらは実に数万年の時間の帯の中で様々な体験を経てきた魂たちかも知れません。地球生命圏の中で輪廻転生を繰り返し、やるだけやった後でやっと気づき始めた人々、飽きてきた人々、予定通り目覚め始めた人々、また、元々ちがう世界の意識を持ち越してこの地にやってきた人々などが増えていることもあるでしょうか。
集合無意識の中から意識的な新たな芽が現われて来たのではないでしょうか。これらは地球の変容に呼応するような自然な芽生えであろうとも感じられます。
●井の中に閉じこもっていることに気づくべし
我々が『無限』の只中にあるということは、無知を無知と認識しなければ気づくことはありません。井の中で何でも知っていると思っている尊大さこそ、その無知を示しているのだと考えます。謙虚になればそれだけ自分たちの無知に気づくようになった証ということも言えるかもしれません。我々は『井』の中に居るのではなく、『無限』の中にいるのです。
意識的存在である人間の次元の拡大・上昇なるものは、その自己の意識作用の質的飛躍によるものであることは自明の理です。『物』にどうしてそのようなことが出来るでしょう。目覚めは自己自身を観る立場に立つことを意味するのです。いつも目覚めは1人1人です。井の中から這い出るのも1人1人です。
●観察から新たな意識の次元軸へ
自分が体験しているのは、肉体、思い、感情であり、自己を省みる、観察すると言うことは、まず自己の無知に気づくということなのです。往々にして、何故か自分自身は見たくないものですが、それを超え、自分である身体・思考・感情のあり方をしっかりと観ると言う行為が必要であり、それはあたかも2次元平面にべったりと張り付いた状態から、1つ新たな意識次元の軸ともいえるものを生じせしめることになるのです。
どのような体験もそれを有意義に生かすためには、意識的な観察眼が必ず必要であり、これらの基本的なプロセスを度外視して、何か夢見るような成長が外から勝手に起きてくる・・などということは期待薄でしょう。究極は神なる各自にあるのは、各自である神であって、誰か他者が全面的に面倒をみなければならないような、か弱い存在であるということはあり得ないのです。また外の世界は内面の写し絵として観察すべきであり、外の世界にいわゆる神を求め続けても、決して得られないことも同様でしょう。「放蕩息子」の例はそのことを教えています。
●他者依存は分離における生存形態である
人々は、自己と他者の関係を理解するプロセスを経て、自己の本質に気づくようになっているようです。また、個別、個別の分離した意識状態で、自己を他者と同じと考えるのは早計なのです。同じソラ豆が沢山あつまっているイメージや、子羊が群れていることに似ています。これらは多分に無意識的な誘導でもありそうです。皆が皆、弱いもの同士であるという、平均化という、一見民主的で?わかったような分離に導くことを意味するかも知れません。
●自己=他者は、それを超えた位置から見えるもの
一般通念で言う「皆同じ」という概念は、自己と他者の本質的な同一性の気づきではなく、他者へのお互いの依存を示すものです。今の社会においては、政治や仕組みなどに多大な期待を掛けることや、その批判を繰り返すことに終始する行為は、自己の何たるかを真摯に理解しようとしない場合のあり方ではないかと考えられるのです。他への期待が必ず裏切られることは、もう十分に理解出来るのではないかと思います。他者依存は須らく他者批判につながるものです。
自己を掘り下げ、本質に気づく分だけ、その分だけ、実は自己と他者が1つであるという気づきを得るものです。その場合には他者への「依存」などは消えうせており、逆に相手に何かをしてあげたいという逆方向の「奉仕」としての関わり方になるものです。エネルギーを外に求めつづける乳飲み子のあり方ではなく、大人として何かの奉仕をしようとする関わりかたに大きな質的違いがあるのです。似て非なるあり方にもなかなか気づくのは難しいものです。
●自己観察は古い自己を認めながらも、それを捨てる行為である
まず自己を観察し、その内面にある、こころの多様性と無限性に気づくことが出来る意識の位置、結果、より高位の考えかたが多少とも出来る観点から、己を観れば、自己と他者はその働きにおいて本質的に同じであるという事が理解出来るでしょう。自己が理解出来る分だけ他者をも理解出来るという簡単な表現に置き換えても良いかも知れません。
自我(エゴ)というのは刹那の世界を生きるための自己であり、往々にしてとりあえず肉体的に生きてゆく目的で何でもしようとします。そのなりふり構わぬ刹那の「自我」を、調和と成長の路線に乗せるための、観察とその修正行為が行なわれるようになれば、自我(エゴ)から、本来の高次の自己の存在がはっきりと見えてきます。本来の自分を思い出してくるということもいえるでしょう。
昔から言われる「自己の放棄」とは、古い自己を勇気をもって捨て去ることで、それを含めたさらに大ききくて高次の自己を得ることでもあるでしょう。今我々は、分離から統合へ、多なるものから一なるものへの体験過程にあるようです。
●マインドは体験を実りにする為のツール
我々の必要なプロセスは、まずこころのあり方の習熟であると察せられます。体験は成長のためであり、自己の無限性・多様性に気づくための貴重な宝物であり、その宝物を宝物として感謝するためにこそ、こころの働きがあるのです。マインドは様々な経験を宝物に変えてゆくツールであり、ツールである自己のマインドの働きを制御しないでどうして宝物に変えることが出来るものでしょうか。マインド・こころは自己を観る為の唯一のツールともいえます。
●多次元の身体とは
古今東西、いにしえの叡智の記録、昨今のスピリチュアルに於ける様々な情報の中の共通した内容の中に、我々の身体構造の多層構造の教えがあります。なお、肉体という馴染んだ体は多層の身体・ボディの内の仮の1つにすぎません。我々のボディには、チャクラなどと呼ばれる7つの生命のセンターがあるようです。これはわたし自身でも実感できるものです。またそれら7つの生命中枢ともいえるものは、多層になったわれわれの身体構造とも関連しているようです。もっとも大雑把に分ければ我々のボディ:存在形態は、肉体、意識、魂という複合体でもあります。
●肉体は探求世界用の波動衣服のこと
肉体は物理的な世界を体験するための、謂わば高度な機能衣服、モビルスーツ?物理世界への潜水服?のようです。この肉体というレベルは、今我々の多くが体験しているものであり、またこれには数十年という耐用年数があるのは誰も知っている事です。肉体は五感に映ずるもっとも身近なボディですが、多くの人々にあっては、五感に感じる物質レベルでの肉体のみに意識が集中しているわけです。まさに見るものしか見えず、意識するものしか現われないという原理が働いています。
●意識は連続する生命波動そのもの
意識体というのは、想念・感情に関わるもっとリアルなボディですが、物質・肉体レベルに囚われている場合は意識できないものです。これらは輪廻転生に関する記憶を有しており、自己の内面に意識的になればなるほどそのリアルな存在が明らかになるようです。普段の生活でのこころ模様の観察や、肉体の活動が休止している層での意識体験・夢情報を意識して分析する作業などを通しても、この多層のボディ:存在形態に気づき始めます。
●魂は「在る」
魂というのは理解や知識でそのものを捉えることよりも、間違いのない直感で把握するものでしょう。知性による理解、感性による気づきの、先に在るものであり、我々の根源ともいえるものですが、これは実は、『今生きて在る』という事実で明らかなことでもあります。事実に説明や証拠は不要であり、他者が証明するものでもありません。それはまさにそれとしか言いようがないものです。『わたしは在る』という意識がそれを証明しているのではないでしょうか。
●生と死は単に波動衣服の交換である
死とは多層のボディ:存在形態の一番外側の衣類を脱ぐようなものでしょう。春夏秋冬で衣類を変えるようなものでもありますが、肉体に囚われている意識レベル(集中レベル)では、その衣服を着替えることは、それはそれは、とんでもない恐怖を覚えるものです。確かに衣服が1枚しかないと思っていれば、その1枚の衣服(肉体)への執着はただ事ではないのです。そのために人生の全てを使ってもしがみつこうとするものです。元々授かったものであるその衣服自体が、数十年の耐用年数しかないのを知っているにも関わらず。
我々の本体は肉体以上の存在であるということです。多次元、多層のボディといっても、肉体としてイメージするような、限られた時間空間に構築される局所のボディではなく、時間空間を超えた形で構成されている形態であろうと思われます。
●地球生命学園の意義とは
我々を含むこの地上の生命存在達は、そこにたまたま物理的な地球が出来たゆえに、その表面に出てきた有機的存在であるとは思えないのです。偶然が積み重なって地球や諸惑星さらには銀河などが出来ていると言う考えかたが絶対正しいと固執すること自体が、井の中の蛙的考えかたと思えないでしょうか。地球は生命の学びの為の1つのカテゴリーであり、さらに高次のあり方から謂えば、あらゆる段階にある意識存在達の合意のもとに存在しているものだろうと考えられます。
地球での我々の輪廻転生は、全ての終りなき始まりの根源である悠久の一なる存在が、己に目覚めることを『体験』しているプロセスです。地球での生命体験は、己を忘れて再び思い出す為の特殊な学びを提供してきたようです。人間存在・魂は、究極で森羅万象の因、その根源自体でもあることを思い出すことが今大切なことなのです。
●地球の変容は人々の意識の変容とシンクロしている
我々の意識の波動が合わさり、地球という意識が共鳴してこのような物理次元をかもし出しているという可能性は、光の干渉技術に関するホログラフィーの類推でも容易に察せられるのではないかと思われます。肉体レベルでの自我を超えて存在する我々の本質的な自己達が、その体験を共有すべく、ここに集い、地球という母なる意識と共同で様々な学びと遊びを表現しているのが真実であろうと考えます。
今この時、この地球が変容しているということに気づくということは、昨今の社会変動・自然変動の観察もさることながら、原因側の要素である我々自身の内面を観ることでもそれが理解出来るものでしょう。我々の真なる自己を思い出すプロセスは、そのまま地球が覚醒しつつあるプロセスと決して無関係ではありません。
本日も誠に拙い文章をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。