気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

悟りのプロセス(2)自分の思考を観るべし

2008-11-30 10:38:47 | 偉大なる先達の言葉

 何事にも原因があるということは、因果論者も科学の徒も理解できるはずです。この世界は我々の五感で見たり聞いたりできますが、その限られた意識の窓から見えるもの感じるものは、山であり空であり雲であり、ビルであり電信柱であり、道を急ぐ人々であり、ランドセルを背負った子供達です。

 そのような身近な世界の中にあって、人間は特別な1つの「無限・点」を現していると言えるかもしれません。・・道行く人々、知り合いの人とのたわいない会話、こちらを見つめる目、その中には自分と同じ「意識」の発露が感じられないでしょうか。どうと言うことも無い挨拶だけの会話や素振りのなかに聞こえる声、こちらを見る目は、「空」から全てが出来ているこの世界にあって、なんとも言えない親しみと仲間意識、同じようにあまねく広がる理解と愛を感じられるでしょうか。

 その全ての在りようの根本原因が「大いなる存在」というものでしょう。そのあまねく全てであるところの存在は、あなたやわたし達であるというのも、全く当たり前のこととして感じられることが、さとりのフィールドと言えるでしょう。あまねくあるもの・・それが大いなる存在という言葉で表すしかできない全ての「因」ということです。

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エックハルト・トール著「Power of NOW A guide to Sporitsual Enlightment」

日本語タイトル「悟りをひらくと人生はシンプルで楽になる」 飯田史彦 監修

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・p26-34 抜粋

問い 「大いなる存在」 を経験するのを、難しくしている原因は、なんでしょう?

答え 自分の思考(色々な思い)を、「ほんとうの自分」だと思いこむことです。すると、思考はコントロールが効かなくなり、勝手気ままに活動してしまいます。自分の思考活動を、自分の意思でストップできないのは、大変な苦痛です。しかし、ほとんどの人が、この習性をもっているために、わたしたちの感覚はすっかり麻痺してしまい、これが、ごくあたりまえのことだと思いこんでしまっているのです。ひっきりなしの思考(思い)の騒音が、「大いなる存在」とひとつとなって、「心の平安」の境地に到達するのを、妨げているのです。

哲学者デカルトの名文句「われ思う、ゆえに我あり」は、みなさんもおなじみでしょう。彼はこの文句で、究極の真実を表現したと、確信していたに違いありません。しかし、「わたしは在る」ということを、「わたしは考える」ということと等しくする、言いかえるなら、思考活動によって、自分のアイデンティティを確立する、という初歩的な誤りをおかしているのです。

 自分の思考をコントロールできない人は、(ほとんどの人がそうでしょう)、「人間はみんな、はなればばれなのだ」 と信じて、人生を歩いています。これを信じている人の人生には、この深遠が反映されて、問題と摩擦が、次から次へとやってくるのです。

 「さとり」とは「すべてはひとつであり、完全である」という境地にいることです。それゆえに、「すべてとつながっていること」なのです。さらに、平和につつまれています。眼に見える、「かたちある世界」はもちろん、自分の内奥にある、眼では見えない「大いなる存在」と、ひとつになっていることです。

 「さとり」 は、心の葛藤や、人との摩擦がなくなることだけを意味するのではありません。さとりをひらくと、もう自分の思考に、ふりまわされなくなるのです。

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問い 「思考を客観的にながめる」、というのはどういうことなのか、具体的に説明してくれませんか?

答え -----   できる限り、、思考の「声」に耳を傾けることです。何度も繰り返されるセリフには、特に注意を払いましょう。数年間にわたり、かけられ続けてきた「古いレコード」がないか、よく耳を澄ませてください。これが「思考を客観的にながめる」ことです。「頭の中の声に耳を傾ける」、「思考を見張る」と、言いかえることもできます。

この声を聞くときには、あれこれ批判せず、偏りの無いこころで行ないましょう。批判するという行為そのものも、応戦というかたちの、「思考の声」にかわりないからです。これをしていると、「ひとり言をする『声』があって、さらに、それを聞き、観察している「ほんとうの自分」がいる」、と、だんだんわかるようになってきます。この「 『ほんとうの自分』がいる」という感覚は、思考とは別のものです。この感覚は、思考を超えた源泉から発せられているのです。

思考を客観的に眺めていると、その行為をしている、「ほんとうの自分」の存在に気づきます。「ほんとうの自分」に気づくと、意識は新たなレベルに到達します。勝手気ままに活動していた思考(思い)はパワーを失い、「ほんとうの自分」のしもべになります。

これが、無意識的な思考活動を終らせる、第一歩です。思考がおしゃべりをやめると、「無心状態」が生まれます。最初のうちは、無心状態は、ほんの数秒間しか続かないかもしれませんが、心がけ(意識的に気づくこと)次第で、だんだん、長く続くようになります。無心状態の時には「心の平安」を感じるはずです。

これが、普段は思考の雑音によってかき消されている、「大いなる存在」との一体感なのです。この状態は、本来人間にとって、ごく自然な状態であるはずなのです。

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この状態に到達すると、それまでの「自分」の認識を超え、より壮大な「自分」の認識を持つようになります。より壮大な「自分」である、「大いなる存在」も、本質的には、わたしたちであることに変らないのですが、それは同時に、途方もないほどわたしたちようり偉大なのです。わたしがみなさんに言っていることは、矛盾、もしくは荒唐無稽と受けとられかねませんが、これ以外には、表現のしようがないのです。

-------------抜粋、引用終わり

 百歩譲った表現をさせてもらえれば、スカイダイビングもバンジージャンプも、車の運転も全て体験として楽しいものでしょう。それらは身体を使って経験をするものですが、体験出来れば、もう楽しくなり、怖くもないし、その経験自体が自分の1部になります。人間としての意識進化の重要な一歩は、自分の心を見ることで、それをまさに見ている本来の自分に気づくことでもあります。これは思考や思いを楽に扱えるようになることでもあり、自分自身を「マスター」してゆくことでもあるでしょう。これらは、知識の為の知識ではなく、実践で少しづつ「体得」してゆくものです。なるほど、常にあるハードルは、世間や外界にはなく、自分にあるという事実に、しっかりとうなずくことができます。

 「さとり」というものも、人間の意識レベルでの経験の1つと考えるのが正当でしょうが、これは意識進化を促す、1つの大いなる「体験」とも言えるかも知れません。あらゆる不安や心配の原因は、いまだ来ぬ「未来」を不安視したり、記憶としか存在しない「過去」を悔やんだりすること(思考・思い)によって出てくる「誤謬」であることにだけは、気づく必要があるのです。

 そのためには自分の中にある目まぐるしい「思考」を見る必要があるのです。思考は森羅万象の全てのなかから、今の自分の「意識レベル」で「同調」する「波動」であれば、その自分自身の「同調」キーがいい加減では、不安やら心配やら恐怖やらが、勝手に出てきてしまいますね。まさにパンドラの箱となり、怖くてしょうがないものになっているのでしょう。自分が造っているのにもかかわらず・・・にです。ひょっとしたら、ちょっと笑えることかもしれません。

Flower1003

この地上にある草花も、何も、べつだん難しくなく、自然に花開いていますが、人間も、人間らしいレベルで、いわゆる、さとりをひらくことが、本来、あたりまえのプロセスのような気もします。

本日も稚拙な記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。