気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

時間とはなにか

2008-11-15 11:59:16 | 見えないものから見えるものへ

 しばらく身辺が忙しく、記事更新が遅れてしまいました。にもかかわらず大勢の方が覗いてくださっていることに感謝致します。

 このブログはいわゆる悟りという当たり前の状態を思い起こすべく存在しているようでもあり、そのうちに、なーんだそうだったのか!という大笑いに結び付くようなそんなことでもあれば本当に楽しいとも思います。・・・・思いっきり手前味噌でありますが(大笑)

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●時間は、「わたし」を眠らせる揺りかご

 わたしとは一体なんでしょうか。あなたとは一体なんでしょうか。この最も無限に近い自分に関して誰も皆、問いかけたことがあるでしょう。それでも・・・、いつもながら、わたしとは何かが理解出来る前に、その問題?を忘れてしまった事と思われます。まさに根本的な問いかけですが、人様によっては、まったくもって馬鹿な問いかけであると感じるものです。あたかも禅問答のような、わかったようなわからないような・・・永遠に夢として片付けてしまいたいような、そんな問いかけではないでしょうか。

 一般的には、「それで飯が食えるのか?」という、自動身体維持機能からの指令に忠実な僕となってしまうことが多いようです。実はその時から、時間という足かせ手かせが我々の周りに物理的に現れてくるようです。あるいはそのような無意識の期間に、わたし達を保護してくれる揺りかごのようなものでもあるのでしょうか。この限られた小さな世界のなかで遊んだり眠ったりを楽しんでいる赤子のようです。

●時間という整理箪笥

 「わたしが何かって?そんなものわかるわけはない。そんなことより仕事だ、生活だ、勉強だ、呆けている暇があったら働かんかい~」

・・・等と言ってそれなりに努力している間に、あっという間に「時」が過ぎ去ってゆくことになります。我々の人生の大半は、最も大切な課題を忘れ去り、外の刺激に溢れた世界へ身をゆだねゆく事で、その五感の刺激から得られる情報を蓄積し、人生という時の流れの中の整理ケースに収納してゆくことであったのかも知れません。

 気がつけば、人生航路における外界からの膨大な情報を、記憶というタンスにしまいこむだけで過ごしてしまい、その刺激に対する自分の思考・感情面の反応の分析には手が回らないようです。単に暴れまわった思考・想念・思い・感情や身体的な行動の記憶レベルのものとして、自分の中の時間という箪笥に無意識にしまい込んでいるのかも知れません。

●時間感覚とは無意識感覚である

 時の経過は、我々が無意識であるがゆえに必要なものだろうと思います。瞬間瞬間に意識的になっている状態では、時の経過など無いように思います。楽しい事には自分の全知覚をそれに集中し続けることで、ふと気がつくと、時の短さを誰しも感じるものです。逆に嫌な場面に遭遇すれば、自分の意識はそこから逃れ、永遠とも思える、長い長い不快で不本意な待ちの時間を感じるものです。

●意識と時間は相対論的な相関関係がある

 誰しも経験しているのですが、人が何かに意識的になっている状態では、あたかも時間量が短く感じられ、逆に、無意識である場合は相当に時間量があるように感じられるものです。楽しい授業や仕事はあっと言う間に過ぎ去り、嫌な授業や顧客まわりは、延々と続くように感じられます。

 物理学での相対論は、空間と時間は絶対的でなく、相互に連続変換される量であると言うことを言っています。万人が目にすることが出来る理論は、あくまでも数学で現される1,2,3という物理量で計算できるものだけを扱わざるを得ませんが、五感で見えない領域の理解は物理量で表現できない為に打ち捨てられているだけのことでしょう。

いずれにしても、時間は相対的であるということは、今では多くの人が納得しているわけです。

●常識での時間とは

 現代文明は原子時計のテンポを世界標準の時間の尺度にしていますが、それはあくまでも物質の振動サイクルと太陽系の軌道運動のサイクルを、あたかもカレンダーのように参考にしているものであり、本質的な「時間」を現すものではありません。カレンダーどうりに動けばわかり易いだけのことであり、絶対時間などという概念はとうの昔に消えているのです。

 時間は相対的であり、あらゆる現象の独自の振動・サイクルを示すものであり、物理的に限定しなければ、人間にあっては、その意識レベルに応じたサイクルがあり、各自に固有の時間があると言ってもいいでしょう。元々時間の本質は相対的ではありますが、この地球上では、1つの原子時計の固有振動を、統一的な参照時間として採用しているというのが真相であろうと思います。

●時間と意識

 物質はごく微細に観察すれば、素粒子という概念で把握せざるを得ず、その素粒子の振舞は微細になればなるほど、波動としか考えられなくなります。現代物理のひも理論はそのような本源物質波動の在り様を推定する理論であろうと考えられます。

 根本的には物質レベルの全ての根本は「波動」であるという事は、頭の固い科学の徒も否定できないでしょう。その微細な波動域を生み出しているのは、「意識」というものであると考えられます。物理量で現す今の科学では不可能な領域ではありますが、あえて言葉を選ぶならば、それは「意識」という表現にならざるを得ないのです。

●意識的時間の意味

 意識が振動の元であり、その振動自体の属性としての「振動率」が「時間」として付随して現われるため、物質レベルの様々な運動や動きが現れ、それを五感という一定の振動感受能力で共鳴(受信・知覚)したものの総体が、今我々が生きている・・この世界である・というのが真相ではないでしょうか。

 したがって、時間は意識の属性であるともいえる訳です。人間の思考、思い、感情なども意識そのものでもあるのであれば、気分次第で時間が長く感じられたり、短く感じられたりするのも、まったく理にかなった事なのです。

 根源たる意識が振動の元であり、また物質顕現の根源エネルギーであるとすれば、時間の長短など単なる主観だ、という反論は科学的ではないことがわかります。逆に、主観であるという主張の中に、意識の属性としての時間の本当の意味がわかると思います。

 時間が相対的であるというのは現代の物理科学的な説明でも行なわれており、また人間の意識レベルによる長短感覚も、実にリアルなものであることを認識すべきでしょう。ただ単に1,2,3という物理量では表せないだけの話です。

●時間の無い世界とは

 スピルチュアルな分野での情報類の中で、地球のシフトした世界や、宇宙の中の他の世界には、時間は有って無きがごとくのようなものがありますが、これなども普通はなかなか理解し難いかとも思います。常識では、時間が無いなど考えようもありません。

 時間がなければ、因果律、原因と結果の法則が敗れてしまうと考えるからでしょう。タイムマシンで未来に行って、未来の現実を変えてしまえば、過去の記録そのものが変ってしまうというパラドックスがあるわけです。直線時間であれば、それこそ訳がわからなくなってしまいます。

 これらは、あくまでも時間が一定に未来に流れていくものだ・・という先入観念があり、今の我々自体の「今」の世界に対する認識が不完全だからであると思われます。過去が有り、今が有り、そうして未来が有る・・・という幻想に気がつくでしょうか。

 今の瞬間の連続が過去と未来を創りだしており、未来も過去も実在ではないことを悟れば、未来というものも、過去というものも、この今の瞬間に含まれていることが理解出来ると思います。その意味では、この今の有り様でいかようにも時間を織りなすこともできるわけです。単に、今人類は無意識に原子時計を信じ込んでいるだけの事でしょう。

 過去は記憶の中にあり「過去」にはありません。未来は希望の中にあり「未来」にはありません。記憶も希望も今の意識状態です。全ては今の瞬間、絶対的なこの瞬間だけに有るのです。なるほど時間は存在していません。

 より意識的な人間存在の住まう世界は、確かに時間が希薄だという意味が理解出来ます。人間が無意識の状態からシフトし、より意識的になれば、全てが無限とも感じられる学びと楽しさと愛で溢れている事に気が付き、それこそ時間などあって無きがごとくという状態にもなります。

 実は我々は、もうすでにその「時間」の有り様に気付いているのです。

           

Water_lilies

本日も拙い文をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。