気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識は光である?

2008-11-22 10:51:27 | 見えないものから見えるものへ

 前記事では「時間は本来存在しない」ということでした。毎日の生活をしていて、時間が無いなどということがあろうはずが無いではないか、と思うのも至極もっともなことです。通常の認識や科学的な見解も含めて、時間がなければ色々なプロセスが説明できないではないか、という反論・反感が出てくるものです。自分自身も所謂エンジニアの端くれとしての経験から、細かなマイクロ、ナノセコンドの単位を扱う機器や設計に馴染んでおり、時間は本来無いなんてあり得ないと思っていたのです。架空の時間を現象として利用しているということは実は的を得ているのは承知しています。さらに本質的な「本来時間は存在しない」という極端なアナウンスを理解する為には、自分を観る行為が必要であると思います。実はそれらは多くの先達の辿った道でもあるのです。

●逃してきた真実の言葉

 この地球上で悟った言われる人達、はるかに高みにあると言われる存在達、我々には到底手の届かない存在と言われている人達、それらブッダもキリストも含めて、相当な数に上る皆我々と同じである大いなる魂たちの残した言葉のなかには共通するのものがあります。

それの1つは、「汝自身を知れ」ということでしょう。

自分自身を知る・?・と言われてもどうしたら良いのか考え込んでしまいます。またチラっと聞いたとしても、哲学や科学を極めなければ判るわけはない・と言う様な他人事感覚で素通りしてしまいがちです。

●昔からある覚醒のプロセス

 彼らの多くには、まずなんらかの修行や教育や強烈な体験があるようです。あり得ないような不幸や不安、孤独や憎しみ、悲しみ等を経験する場合が多いようです。それらの一見不幸と感じる体験等は、この「地上に生まれた事に対する認識」を新たにする為の、極めて重要な目覚めのプロセスとも言えるものでしょう。郷においては郷に従うプロセスを経て、本来の輝きを取り戻すことに意味があるようです。そうでなければなぜワザワザこの地上・次元世界に現われる意味がありません。舞台に相応しい演じかたをキッチリとしているのは流石だと言わざるをえません。この世界は、丸いこの地球は、何でも有りの・大いなる発展途上を演じている華やかな「舞台」なのです。

●ネガティブ体験は覚醒の合図

 人々の共通するテーマとして、戦争、憎しみ、不幸、抑圧、暴走、不安、不信、孤独・・・などを人生で経験することで、本来の無限なる意識が、その地上の現実・現象とのギャップに潜在的な直感から来る驚愕を自覚することから「覚醒」は始まります。何も刺激の無い状態では、安穏とした眠りの中にいるでしょう。それも楽しい経験ではあります。あのブッダも王族の小さな城に終生閉じこもっていたとしたら、今の仏教というものもありえなかったでしょう。不幸や悲しみ憤りという、みな誰でも嫌がり、避け回る、強烈なネガティブ感情は、それらがネガティブだと感じていること自体に、本来ではない響きを、すでにしっかり感じていることを現しています。

●すでに知っている 虚・実の遊び

それらは本意・本質ではないことを、もうすでに我々は知っているのです。人間として意識をもっている限り、何が「真」で何か「虚」なのか、もう知っているのです。人により温度差はあるものの、不幸が不幸であるとして忌み嫌うことは、すでにしっかりとそれらが「虚」であり、あり得ないことであると認識していることを現しています。

すでに半分悟っているといってもいいでしょう。我々は、悟りなど程遠いと勝手に思っていますが、これらもどうも違うようです。不安や不幸や悲しみ等から逃げようとする、そのために多くの場合によくあるように、その防波堤となりそうな外の世界での権威、富、名声を得ようと人生を奔走するのは、もうすでに、不安や不幸や悲しみが本来のものではないことを知っているということを現しています。逃げるというやりかたに稚拙さがあるだけの話であろうと思います。

●潜在下にある恐怖を、意識の表面に出すべし

 主観的に嫌な事象から逃げる、回避すると言う行為自体は、それらが本来のものではないと知ってはいるものの、ただ怖いという感じが未だ付随していることを示しています。それらがほとんど意識の表面に出ずに終始していることで、いつまでたっても「嫌で怖い」という意識状態であるわけで、真と虚を併せ持った、いわば半覚醒の状態であると言っても良いかもしれません。

 どうせそこに在るなら、それをちゃんと見る行為をすべきなのです。そこに在るのに、怖い怖いといつまでたっても恐怖と背中合わせの友達でいること自体が、考えてみれば随分滑稽なものだと気づくでしょうか。怖い怖いと思いながら、潜在下に「恐怖」さんを無理に縛り付けているのは、我々の責任でもあり、「恐怖」さんにしても、困ったもんだと思っているでしょう(笑)

●身体・思考・感情

 我々にあるのは思考、感情、身体です。衣服や財産は我々ではありません。大きく理解すれば、身体、思考、感情です。普通に考えても、大分類して質的に分ければそういうことになると思います。多くの場合、身体は五感でしっかり知覚していますので、これがもっとも身近にあって常に「意識」しているものです。手を見れば手が見え、多くの人がもっとも気にしている顔や表情も鏡で見ることができますし、手で触ればしっかりした感触があります。このように我々の身体はよく見えており、程度の差こそあれ小まめにケアをしているものです。それは与えられた判りやすい五感感覚の賜物です。

●身体の裏にある因、思考と感情

 それでは、我々にある思考と感情はどうでしょうか。見ることがありますか?我々である身体・思考・感情のうち、思考や感情は肉眼で見ることができません。しかし考えていることや感じてしまうことは「知って」いるのです。これは身体レベルの五感によるものを、いわば「外の知覚」とするならば、思考や感情は「内なる知覚」といってもいいでしょう。

 実は思考や感情こそが原因となって、身体にもその影響が現れてくることはもう理解されています。思考や感情こそが我々の行動の因であり、身体状況や生活全般に現われてくる現象の本当の因ということも理解可能であると思います。我々に考える能力がなければ、岩と同じく動けないでしょう。感情が無ければ反省も味わいもなく、思考調整、フィードバックもできるわけはありません。

 一般通念では、この身体のみを自分達と思い込み、思考・感情を実体のないものとして無意識下に置いているようです。我々の在り様の元である因を潜在下に放り投げているようなものです。現在の科学的という考えかたは、物質量、数量で表せないものを扱うことが出来ないのです。科学の1側面は、量で表せなければ実体と考えない「物質崇拝信仰」に陥っていると言っても見当違いとは言えないでしょう。

●因である思考と感情を見る

 身体以外の我々の要素である、思いや感情は我々の身体以上に本当に身近なものであり、いつもどこでも我々に付随していることにもっと気づく必要があるようです。我々は、毎日身体を見ているように、この身近な思考・感情を「観る」ことが必要でしょう。なんといっても身体や生活全般の「因」である存在、思考や感情をどうして観ないのでしょうか。

●因の膨大な情報・エネルギーを知る

 瞑想や座禅、内観などという作業は、思考・感情をしっかり観るための古来からのわかりやすいノウハウなのです。多少とも経験がある人々は、膨大な思考というものがいかに目まぐるしく去来しているかが判ります。その思考・想念に伴う様々な感情も、それはそれはバラエティに富んでいます。無関係とも思える想念も湧いてきては反響し、すぐに別の想念が去来していることも理解されるでしょう。自分自身で意図もしないのに、勝手に古い記憶が呼び覚まされ、恥ずかしさや後悔等の感情も出てくる場合もあるでしょう。過去という記憶や未来という不安なども目まぐるしく騒いでいることも観えることでしょう。

 思考や感情、想念を観れば見るほどその奥深さや情報量の多さに気がつくのです。その想念の膨大な去来の中にあって、無意識のうちに、そのどれかを採用しているのが、実は我々の在り様であるということが理解できます。

●意識は光ともいえる

 問題なのはそれらが程度の差こそあれ、無意識のプロセスであると言うことでしょう。無意識であるということは、当然ながら意識的でない、気づいていないと言うことであり、わけもわからず翻弄されているということであり、暗闇での手探りで右往左往する状態のようでもあり、それは単に暗闇の中に光を当てていないという意味でもあるのです。意識的になると言うことは、実は光を当てると言うことでもあると思います。

 多くの人々の古い友である「恐怖」も、面倒でも、それをしっかり観ることができれば、そこには「理解」という恩寵が形を変えて存在していることに気づくのではないでしょうか。恐怖を恐怖のままにしておくのは親友に対する理解の無さを現しているようでもあり、いつまでも恐れのマントを羽織らせて、背中に背負って縛っているのは、かわいそうだとも思えないでしょうか。

●覚醒は自分の意識・光を見ること

 覚醒する、目覚めるということは、朝寝床から起きてきて太陽の光に当たるように、自分自身に意識的になることであり、わけのわからない状態から、少しづつわけのわかる状態に移行すること、暗闇でなにも見えない状態が見えるようになること、端的に言えば「意識の光」を当てることであるわけです。

●中心たる自分自身が見えるか

 そのためには、自分の想念・感情をいつも「観ている」という行為が必要なのです。簡単に気づけると思いますが、これは大いなる創造自体の在り様と同質なのです。人間の在り様もこの1点にあります。これが基点を思い出す、この地にあって自己を思い出すと言うことでもあります。あらゆる可能性の湧出する、ぶれない中心点には無限の平安があります。

皆々、本来の「わたし」がその不動の湧出点とも言うべき存在であれば、時間もエネルギーも自己の創り出すものであるということが、今の今、直覚で理解が出来るかも知れません。

 絶対的な安心を求めて外を探しまわり、傷ついて自分に立ち返る過程は、放蕩息子の例でもあるように、そうでないことに真に気づくための間違いのない方法であり、有り得ないほどの恩寵でもある思われます。愛という名をつけて間違いの無い、確実な自己の目覚めのプロセスとも言えるでしょう。まったくもって全てに意味があるものです。全ては今の連続であることがなんといっても奇跡としか言いようがないのです。

 不動なる心こそ真なる平安をもたらします。またそれは物や他人の評価などでは、決して代替など出来ないという、簡単な真理に気づくことが、それほど難しいわけはないのです。こころが迷うことのない素の在り様、明解なシンプルさは、もうすでに理解と悟りが現れ初めていることを物語っています。

   Flower1005

  本日も拙い記事をご覧頂き、まことにありがとうございました。