気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

内観は意識進化の必要条件

2008-09-13 13:20:16 | 宇宙的気付き

 人類の多くが、次第に目覚め始めているようです。目覚めるという事は、人間として1つの「本質的な在りかたに気づく」ということであろうと思われます。人間は肉体存在であるという今までの無意識の観念から次第に抜けて、それを含め、更にそれ以上の高次なる存在である可能性を、実際に感じてきていることでもあるでしょう。

 次第に増えてきた、前世などの生まれ変わり事実の科学的情報、霊界などの異次元、多次元世界の体験者の増加、次第に増加している地球外生命の来訪と過去の隠蔽の暴露、新しいエネルギーの噂、そして現在の飽和した人間の社会制度の崩壊と変化の兆候、地球生態系の急激な変化、太陽活動などの異変兆候など、総合的な観察をするならば、実は裏側での人類の認識、意識レベルの大きな変化や進化を表しているとも思われます。

 そうであれば、外界の大きな変動を恐れることは何もありません。やるべきは自分自身の変化や進化を自ら促すことであり、その行為がまさに外側の変化との整合性をもたらすことになるからです。

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●内観とは

 自分の内側を観るということです。肉体の皮膚や内臓を観ると言うことではありません。自分の想念・感情・身体反応を観察するということです。我々はいつも何かを思っているはずです。これは途切れる事はありません。眠っている時には無意識という状態を感じていますが、何かの目的や経験がある人ならば、眠っている状態でも、何らかの意識体験を記憶している場合が多くあります。

 この思考・感情などの自分の意識作用全般を、自分で観察するという事が内観といってもいいでしょう。禅や瞑想は同質の行為であり意識次元を拡大する為の必須条件ともいえます。

●思考や感情の垂れ流しに気づく

 不思議な事に、多くの場合思いや感情が「垂れ流し」になっているものです。社会生活の中で例えば怒りを感じた場合、それらは一瞬で爆発し身体に相応の反応をもたらします。体感で言えば怒りは血管を収縮させ、血圧を上げ、心臓に圧力を加えます。これらが起きるがままに任せていることは、健康にも良くないと言われています。またこの制御されない思考や感情は、社会的な無意識の洗脳や刷り込み、常識と言う実際は実体の無い罠にはまることにもなります。

 争いや逃避は恐怖という感情が主導権をもっている状態で現れる現象です。戦争などは全て恐怖と対決する為の間違った最も愚かな手段なのです。外に恐怖があるからそれを征服すべく外に向かって働きかける行為であり、恐怖の本質を全く理解していないことを表します。

●夢も体験のうち

 夢は内的知覚経験であり、普段の生活は外的知覚経験です。夢でも音声や映像の記憶があるということは、それ自体が体験と言えます。何も皮膚感覚や視覚経験のみが体験とは言えません。現実であろうと夢であろうと、記憶に残る事は全てが体験と言えます。我々の日常生活での限られた五感感覚だけが体験の全てであると言うことではないのです。

 日常生活は時間と空間というハッキリ御膳立てされた舞台の中で進む為、それがあたかも全てであると思いがちですが、夢はその時間空間が内的世界に置き換えられているだけであり、双方に共通なものは、「わたし」という存在が経験し記憶しているということです。

●内観で拡大する意識

 内観で自分の思いや感情を観るとはどういう行為をいうのでしょうか。それは文字通り、自分自身の思考や感情を「見る」という行為であり、もう1つの自分の視座から眺めるという行為です。

 例えば日常で「怒り」を感じる場面がある場合、それこそあっという間に興奮した状態になり、そばにある物を見境なく投げつけたくなったり、思いっきり蹴り上げたりしたい場合があると思います。そのとき、同時に、その自分の状態に「気づいている」自分に意識的になる・気づくという感覚は理解出来ると思います。

 怒りに狂っている自分の他に現れる自分、「あー俺は、わたしは怒っている・・」という感覚をもつ別の自分といっていいでしょう。怒り狂っている自分を、もう1人の自分の視座から見ているという意識状態ともいえます。

 わたしは怒っている・・わたしは悲しんでいる・・・わたしは楽しがっている・・という自己観察意識が、多くの人々の経験の中にも散見できるでしょう。それは決して冷徹な心や、無感覚の冷徹さを意味するものではありません。また分裂症と言われる自己認識の混乱状態とも違います。自己を観るという行為は、今起きていることを無理に加工したり、押さえつけたり、逃避する事ではなく、あるがままの自分をより広い視座から見ると言う行為であるわけです。それだけ辛いことである・・という感覚も当初は付随してきますが、この辛さを経験することで成長することにもなるようです。

●反省と内観の違い

 反省するという行為は誰しも間違いとは思いません。一時の感情や思い違いをしていたことを、後になって気づいてしまい、大いに反省する事は良くあることでしょう。この反省と言う行為は内観・自己観察の1つの形態ですが、反省の場合は何かの価値観と、そのときの一時の異常な感情・思い・行動を比較して、明らかな差異に気づくことでもあり、そのためには、多少の時間経過と、基準となる価値観が必要になります。

 内観・自己観察は、今の自分にたいするリアルタイムの気づきであり、時間差も社会的な価値観も必要ありません。ただ自分から発するあらゆる現象を眺めることです。身近な単純な行為ですが、それゆえにすぐに忘れてしまう傾向があるものです。

●内観は本質へのアプローチ

 自己の思いや感情を取り去ったら、一体なにが残るでしょうか。意識的作用がなくなったらそれは人間ではありません。人間としてある本質はその思考や感情であるのは自明の理であると思うわけです。ハッキリした肉体感覚に囚われてしまい、隠れた本質にいつも取り巻かれていながら、それに全く気づかないようなものかも知れません。我々が生まれ変わりで運べるものはこの思考や感情の重みのようです。色々な経験を通じて学び、その時々で宝のような意義ある記憶として運べるもの、真の財産はこの思いや感情の記憶とも言われています。

 その人間の本質である、思考や感情を「見る」という行為は、あたかも子供を観ている親の視座でもあります。また目の前の映画を見ている自分をしっかり意識しているという視座でもあります。また地上を上空から俯瞰して、広い視点から眺めるという視座でもあります。

 自己観察は自分に最も近い「自分」を観るということであり、その行為自体が、その自分という1つの次元を拡張するという行為なのです。もう1人の客観的な自分が現れるということではなく、狭い自分というものを再発見する、より広い視座にいる自分に気づくということであり、これこそまさに自己意識の拡張であり、意識次元の上昇ということであるわけです。

 感情や思考をしっかりと観てしまうと、いつのまにか理解というものに変質し、本質ではない虚構の部分は自然と剥げ落ちてゆきます。それは瘡蓋がぼろぼろ落ちるように剥げ落ちてゆくようです。一体全体なにをやっていたのか?どうしたと言うのだ?という微妙な思考や感情に、次第に置き変ってゆきます。それはあたかも恐怖小説に没頭していた自分に気づくようでもあり、悲惨な映画に見入って怯えていた者が、実は観客席にいることに気づいた瞬間のようでもあります。

●己の無知を知る者

 無知の知というのは、おのれの無知さ加減にあらためて気付くということであり、これがなければ永遠に無知の状態ともいえます。まさに辛いところですが、自分の愚かさや幼さを自覚することが出来れば、少しづつ更に広い見地から考え、感じ、行動することができるようになるということでしょう。囚われの観念が少しづつ剥げ落ちてゆくことで、自分というものが少しづつ更に軽くなってゆくことに気がつくでしょう。少しづつ存在次元が広く感じられる・・という表現も間違いではないと思います。

全てを知ったと考えることは実は停滞であり、本当に無限であることを知るということは、知り続けることであり、その行為自体がすなわち永遠を体現しているのであるということです。

●外観と内観はメビウスの帯

 刺激に満ちた外の世界を見るのは誰でも出来ます。五感によってイヤでも知覚できます。但しその世界は必ずしも歓迎すべき世界ではないかも知れません。それどころか、外の世界を泳ぎ回る経験をすればするほど、トンでもない世界と感じてしまうかも知れません。知れば知るほどその不確定な世界、何かの間違いとも言える誤解に満ちた世界だという認識になるかも知れません。しかしこれは良い兆候であるともいえます。とんでもないのは、実はあなたやわたしたちの問題だということに気づき始めるからです。

外と内はメビウスの帯のように繋がっているようです。その不可解なねじれに気づくでしょうか。ねじれは心が創るものかも知れません。

●内面に気づくほど外の世界が分かる仕組み

 今のような世界が映ずるのは、なぜなのでしょうか。どうしてこんな世界にいるのだろうかと感じるのは何故なのでしょうか。社会の仕組みが悪いせいだと感じれば、それを何とかしなければならない・改革だ・革命だ・という事になってきます。しかしながら今までの改革や革命などが効果があったのでしょうか。多分労多くして益少なしではないかと思われます。多大な犠牲を払って外の世界を変えようとしてきた結果、今の時代があります。

 過去の阿鼻叫喚の血みどろの努力も、歯を食いしばった局限状態の命のやり取りも、決まりきった教えの塔でのぬるい眠りへの逃避も、全て、外の世界の中に価値観を見出そうとする結果出てくる不幸ではないかと思います。

 外を変えることは出来ない相談でしょう。なぜなら結果は変えることが出来ないからです。世界で眼に見える現象は結果であるからです。それに心が反応すれば、またそれが現象化の原因になってゆく無限ループにもなってしまいますが、変えるべきは原因のほうであるのは明らかです。

 原因は人間の内面にこそあるのです。内面とは心であり、思考や感情といわれる人間の意識作用なのです。まず征服すべきは自分自身であると言っても過言ではありません。

●自分を思い出す事が急務

 人類の不幸の原因は、自分を忘れていることに尽きるのです。自分の中にある思考や感情という働きを通した意識進化ということをすっかり忘れているからです。意識進化の代わりに肉体進化、種の進化、人間はサルの進化した存在?という「縛り」の概念に、文字通り縛られています。それは車の車種の変遷を言っているようなものでしょう。乗り物の話と運転者の話が混同しすり替わっているようでもあります。

 物質の高度に組織化された生き物、偶然の産物が人間だ・・・という無意識の観念に縛られている事に気がつくかもしれません。偶然の産物が人間であるならば、・・もしそうであれば、眼に見えない思考や感情などに価値などあると思うわけもなく、とりあえず世間で生きてゆく事だけが、肉体維持だけが目的になってしまうのは当然です。どこから来てどこに行くのか、人生とはなにか・・という純粋な問いかけなど真剣に考えようもありません。

●自分を観ることは目覚めること

 自分を思い出すとは、自分の本質に立ち戻ると言うことであり、自分の本質の作用である思考・感情、それから生じる行為というものを、しっかりと観察・ケアすることから始まります。自分を理解する為には、自分の本質的作用である心の働きを把握せずにどうやって可能なのでしょうか。少なくとも自分の見渡す限りの、体験する限りの世界は、全て自分がどう見るかにかかっているのではないでしょうか。

●一即多:見る行為で多が現れる

 目覚めや悟りというものは、意識進化の途上に立ち戻るということであり、決して究極のぬるま湯にやっと浸かれるということではないようです。意識進化は常に発展途上でもあり、また、それ自体いつも究極を示すものでしょう。究極の一者がおのれを現したのものが、人間を含む無限の有り様であるならば、その様々な現象の中にありながら、わたしという本質にいつもながら気づいていることは、究極の一者であることに立ち戻る行為になるのではないかと考えられます。宗教的な言葉で言えば、神の子は神だ・・ということです。

●本来の人生観

人間の本質は、自覚する「神」であるということは間違いのないところだと思います。我々人間の紆余曲折も、実は楽しい創造主自身の遊びであるとも考えられます。

 宇宙を顕現する為には、まず自分自身の無限性を現したいという意図があり、その結果現れ続ける宇宙全体を内観しているのが創造主、一なるもの、神、仏、法則と言われているものでしょう。

 今ある世界と本質の自分をつなぐ必要条件は、いわゆる内省、内観、自己観察という、一なるものの本質に立ち戻る、1つの必要な行為であろうと考えます。例えば、内観がどういう効果をもたらすのか?と聞くことは、まさに、いつもながらの他者依存の思考であり、おのれ自らが現す自発的な意識という根本から外れたことになるでしょう。

 自分を理解出来た分だけしか他者を理解出来ないということは自明です。気長に自分を観るという意識進化への、地道とも言える行為は、まさに存在する全ての元である無限の愛と理解に満ちた「創造行為」と同質なのだと言えるのではないでしょうか。

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 Nature1006

 

 

  

(本日も拙い文章をご覧いただき誠にありがとうございました。)