★セイラー・ボブ・アダムソンの教え
(「ただそれだけ」2011年刊:ナチュラルスピリット・・より)
◆エゴは作り話である
わたしたちの問題は、二歳か二歳半頃身につけた、
一個の分離した実体、すなわち「自分」という考えから起こります。
あなたは「自分」とか「私」という言葉に対して何かできるでしょうか?
それについてできることはあまりありません。
そこで、私たちは、出来事、経験、条件付けーー自分に起こった物事ーーを加えるのです。
そこに信念のエネルギーが入り込み、
それは見かけ上、具体的なものになり、
それが現実に存在しているように・・思えてきます。
それが、我とかエゴとか呼ばれているものです。
それは、自分自身はこうだ・・と信じるための参照点となります。
何かを見て、わたしはそれを好きになります。
それを好きになるとは知るはずもありませんでした。
まあ、それが以前に起こったことであれば、
わたしはその過去のイメージと結びつけて「これはいいな」と言うのでしょう。
やがて、その「良いこと」が過ぎ去ろうとします。
でも、私はそうなってほしくありません。
そのとき、何が起きるでしょうか?
私がそれを本当に好きなとき、
私は何をするでしょうか?
私はそれらが去るのに抵抗しようとします。
抵抗とは何でしょうか?
抵抗は葛藤であり、葛藤は病気(dis-eras=安らかでない)です。
もし葛藤の中にいれば、あなたは不安です。
こころ安らかではありません。
それが病気です。
もし何かが起こって、私がそれを好きでなければ、
私は再びこの記憶の自分を参照します。
それを好きでないとき、私は何をするでしょうか?
私はそれを押しやり、取り除こうとします。
またもや抵抗、葛藤です。
自然界においては、正反対のものからなるペアが常に作用していて、
そうした作用なしではどんな二元性もありえません。
これらの正反対のものは互いに対立するものではありません。
相反する立場はなにもないのです。
もし今かが春なら、まもなく夏がやって来ます。
春は、「夏であったらいいなあ」とは言いません。
それは自然に、何の対立もなく動いていきます。
満ち潮は引き潮と戦いません。
嵐がやって来て、色々なものを吹き飛ばします。
しばらくすると嵐は静まり、自然は徐々に水からを更新していきます。
正反対のペアはたえずそこにありますが、
何の対立もありません。
私たちに関しては、正反対のペアは常に対立します。
なぜなら、私たちは物事を、こうあるべきだ自分が考えたり、
信じたりしている心のイメージをたえず関連づけたり、
照らし合わせたりしているからです。
ーーー
つまり、私たちは物事をあるがままにしておかずに、
物事が、こうあるべきだと自分が考えるやり方に従うことを望むのです。
ですから、私たちが抱える問題はすべて、実際は関係性の問題、
すなわち何と関連するかという問題なのです。
それはただ男女関係だけではありません。
そして、関係性の問題は、常に私たちが持っている自己イメージに関係しています。
それは、過去の出来事や経験にもとづく架空のイメージだということを理解するとき、
人はみずから落ち込んでいる罠に気付くのです。
・・・
このことは偉大な宗教的伝統の中でも言われています。
問題は・・・利己心、自己中心性、自己意志です。
あなたはこのエゴを昇華し、破壊しなければいけないと教えられます。
あなたはそれについてあらゆる種類のことを行い、
そうした奮闘の中で、何が起こるでしょうか?
あなたはそれに対して何をしているのでしょうか?
それは、エゴがエゴに対して戦っているのです。
それを注意深く見れば・・
エゴとは作り話だとわかるでしょう。
それは決して存在したことはありませんでした。
それは決して存在することが出来ないでしょう。
そのことは、今ここで、実にシンプルに指摘することが出来ます。
(つづく)
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(注)上記著作より引用
●セイラー・ボブ・アダムソン
インドのアドウ”アイダ(不二一元論派)の流れを汲むオーストラリア人の霊的教師。若い頃は船員や羊毛刈りなどに従事し、酒浸りのすさんだ生活を送っていた。やがてアルコール依存症となり、断酒会に入る。アルコール依存症からの更生がきっかけで、スピリチュアルな探求の道に。
1976年にニサルガダッタ・マハラジに出会い、その教えによって真理と平安を見い出した。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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