意識という言葉には人のこころの意味もある。
こころとは何かといえば、思考や想いである。
何をどう思っているか?・・あれはこうだ、これはそうだという「思い」だ。
その総合したものを「想念」という。
そう、想念とは、様々な思い・観念・信念などの総合されたものである。
想念の <想> は、木の年輪(目)のようにつちかわれた「こころ」を意味する。
想念の <念> は、”今”の・・「こころ」のあり方・・のことだ。
この想念をしっかり観察しなければならない。
いまはそのための日常生活であると言っても過言でないだろう。
外界を眺め、怖い怖いの合唱に同調し、鬱憤晴らしで喧嘩している場合ではない。
また隠微で解りにくい世界大戦争など、カルマの解消以外に意味は無い。
今起こされている集合意識の1部の汚流に対しては、無視せず、また入り込まずだ。
創られた恐怖の流れの行き着く先には、決して幸福も真実も無い。
想念は”情報”であり”エネルギー”でありまた”波動”である。
あなたはそれを超えた存在、観察する者であり、経験を味わう本質だ。
意識的存在(人)の行く末を決めるのは・・その「想念」である。
もちろん人の想念には極めて多岐・多次元にわたった複雑さがあるわけだが、
今・ここに・・在る・・気づいている意識・・としての<わたし>は、
まず、その根幹にある主たる想念の形に気づいていなければなるまい。
表現、行為はそれに従ってあるがままに現れてくるものだ。
なぜならば、人がこの世界にきてどのようであるか、
さらには、その経験と希望と英知の拡大のため、
またどこかの時空に転生することにも大きく関係しているのだ。
エネルギーには「保存則」というのがあって、
それは決して消滅することなく持続するということだ。
もちろんその表現型は現れては消え去るけれど、
その原因であるエネルギーは保存・持続される。
外形・表現体は当然様々な形に変化するのがその本分であり、
千変万化するのが当然であるが、その原因たるエネルギー自体は変化しない。
つまり・・その形を変えて持続する・・のである。
もちろん・・1つ1つの単独の・・形・物体自体は・・失われてしまう。
あなたが自分は肉体だと思っている場合は、
1つの形であると信じこんでいることであり、
現れた物質(肉体)としての自己認識に固定されているということだ。
「私とは死んだら終わりの物質肉体だ」・・と思い込んでいれば、
類は友を呼ぶといわれるような波動の共鳴によって、
わたしは肉体だという類の想念系と同調する。
例えばそこに恐怖が蔓延していれば、その恐怖の想念によって、
それに引き付けられ、巻き込まれるのだ。
肉体の消滅後、その保存されるエネルギー(情報)は、
その主たる想いのフィールド(集合意識世界)に同調し、
そこに想いのタネを下ろすことになる。
タネはそれにふさわしい土壌に植えられるわけだ。
魂はそれにふさわしい集合世界に体験の場を用意する。
自然界を観察し、その仕組みに感じ入ればこれは理解しやすいはずである。
目の前に鉛筆があったとしよう。
これはどうしてここにあるのか?
誰かがかつて鉛筆のイメージを持った、
こうしたほうがいい、これが便利だ、素材は・・などなど、
様々な思いを巡らして・・それを形に表した・・。
代々それを作り、それを販売し、それを購入して、ここにある。
もとは誰かの試行錯誤したイメージの集合であり、
それを身近な素材で形に仕上げたということだ。
そしてその鉛筆が無くなったとしても、
別のものを買うか、あるいは別のものを作るかすれば、
またあなたの目の前に存在することになる。
目先の物が大切なのか?
それを創造している想念・マインドが大切なのか?
古い想念形の形態化と消滅過程という、
ある種苦しいカルマの解消プロセスを・・突き抜けた先に開けている
新たな集合意識世界での基本認識であるといえよう。
主たる思いが人生の方向を決め、経験という実りを刈り取るのだ。
そして人生のみならず、幾多の転生のあり方をも方向づけるからだ。
そう、転生は偶然でも、何かの強制でもなく、想念にもとずいて起きる。
あるいは、別表現でいえは、
この想念(記憶)が、転生によって持ち越される生きた情報である。
一回ぽっきりの無駄な人生などあるわけもない。
そう思わないか?
1回だけだ・・と誰が勝手に決めたのか?
そう思って・・真剣に生きよう・・と言っているだけなのだ。
さらに、
人間として生まれて、たった数年で・・
・・わたし・・という自意識が勝手に発生すると思うか?
微に入り細にわたる想念という壮大な活きた記憶こそが、
人が人間であることを顕現・顕示しているのだ。
わたしが・・わたし・・で在ること・・意識・・それが「証拠」である。
I AM THAT I AM.
この意識原理が理解できようか、
それとも、まったく意味不明だろうか?
今・・人であること・・それは・・
それにふさわしい想念記憶、生きた情報があればこそなのだ。
これは・・あなたも幾多の転生を経てきた「証拠」である。
内面には幾多の転生を経た記憶、
膨大な情報・叡智を蔵している存在なのである。
一体全体・・誰に証拠を求める必要があろう?
必要なのはそれに、真に・・気付くことだけだ。
こころとは何かといえば、思考や想いである。
何をどう思っているか?・・あれはこうだ、これはそうだという「思い」だ。
その総合したものを「想念」という。
そう、想念とは、様々な思い・観念・信念などの総合されたものである。
想念の <想> は、木の年輪(目)のようにつちかわれた「こころ」を意味する。
想念の <念> は、”今”の・・「こころ」のあり方・・のことだ。
この想念をしっかり観察しなければならない。
いまはそのための日常生活であると言っても過言でないだろう。
外界を眺め、怖い怖いの合唱に同調し、鬱憤晴らしで喧嘩している場合ではない。
また隠微で解りにくい世界大戦争など、カルマの解消以外に意味は無い。
今起こされている集合意識の1部の汚流に対しては、無視せず、また入り込まずだ。
創られた恐怖の流れの行き着く先には、決して幸福も真実も無い。
想念は”情報”であり”エネルギー”でありまた”波動”である。
あなたはそれを超えた存在、観察する者であり、経験を味わう本質だ。
意識的存在(人)の行く末を決めるのは・・その「想念」である。
もちろん人の想念には極めて多岐・多次元にわたった複雑さがあるわけだが、
今・ここに・・在る・・気づいている意識・・としての<わたし>は、
まず、その根幹にある主たる想念の形に気づいていなければなるまい。
表現、行為はそれに従ってあるがままに現れてくるものだ。
なぜならば、人がこの世界にきてどのようであるか、
さらには、その経験と希望と英知の拡大のため、
またどこかの時空に転生することにも大きく関係しているのだ。
エネルギーには「保存則」というのがあって、
それは決して消滅することなく持続するということだ。
もちろんその表現型は現れては消え去るけれど、
その原因であるエネルギーは保存・持続される。
外形・表現体は当然様々な形に変化するのがその本分であり、
千変万化するのが当然であるが、その原因たるエネルギー自体は変化しない。
つまり・・その形を変えて持続する・・のである。
もちろん・・1つ1つの単独の・・形・物体自体は・・失われてしまう。
あなたが自分は肉体だと思っている場合は、
1つの形であると信じこんでいることであり、
現れた物質(肉体)としての自己認識に固定されているということだ。
「私とは死んだら終わりの物質肉体だ」・・と思い込んでいれば、
類は友を呼ぶといわれるような波動の共鳴によって、
わたしは肉体だという類の想念系と同調する。
例えばそこに恐怖が蔓延していれば、その恐怖の想念によって、
それに引き付けられ、巻き込まれるのだ。
肉体の消滅後、その保存されるエネルギー(情報)は、
その主たる想いのフィールド(集合意識世界)に同調し、
そこに想いのタネを下ろすことになる。
タネはそれにふさわしい土壌に植えられるわけだ。
魂はそれにふさわしい集合世界に体験の場を用意する。
自然界を観察し、その仕組みに感じ入ればこれは理解しやすいはずである。
目の前に鉛筆があったとしよう。
これはどうしてここにあるのか?
誰かがかつて鉛筆のイメージを持った、
こうしたほうがいい、これが便利だ、素材は・・などなど、
様々な思いを巡らして・・それを形に表した・・。
代々それを作り、それを販売し、それを購入して、ここにある。
もとは誰かの試行錯誤したイメージの集合であり、
それを身近な素材で形に仕上げたということだ。
そしてその鉛筆が無くなったとしても、
別のものを買うか、あるいは別のものを作るかすれば、
またあなたの目の前に存在することになる。
目先の物が大切なのか?
それを創造している想念・マインドが大切なのか?
古い想念形の形態化と消滅過程という、
ある種苦しいカルマの解消プロセスを・・突き抜けた先に開けている
新たな集合意識世界での基本認識であるといえよう。
主たる思いが人生の方向を決め、経験という実りを刈り取るのだ。
そして人生のみならず、幾多の転生のあり方をも方向づけるからだ。
そう、転生は偶然でも、何かの強制でもなく、想念にもとずいて起きる。
あるいは、別表現でいえは、
この想念(記憶)が、転生によって持ち越される生きた情報である。
一回ぽっきりの無駄な人生などあるわけもない。
そう思わないか?
1回だけだ・・と誰が勝手に決めたのか?
そう思って・・真剣に生きよう・・と言っているだけなのだ。
さらに、
人間として生まれて、たった数年で・・
・・わたし・・という自意識が勝手に発生すると思うか?
微に入り細にわたる想念という壮大な活きた記憶こそが、
人が人間であることを顕現・顕示しているのだ。
わたしが・・わたし・・で在ること・・意識・・それが「証拠」である。
I AM THAT I AM.
この意識原理が理解できようか、
それとも、まったく意味不明だろうか?
今・・人であること・・それは・・
それにふさわしい想念記憶、生きた情報があればこそなのだ。
これは・・あなたも幾多の転生を経てきた「証拠」である。
内面には幾多の転生を経た記憶、
膨大な情報・叡智を蔵している存在なのである。
一体全体・・誰に証拠を求める必要があろう?
必要なのはそれに、真に・・気付くことだけだ。