気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

第6章 わたしとは何かの考察

2018-11-25 08:36:29 | 語り部の章
・・真のわたし・・とは何か?
人間にとって、これが第1義的に重要な命題である。

いつか次元の穴に落ち込んでいた、
死すべき肉体個人という宿命、
ネズミが回す羽根車のごとき、
無意識的な生死の回転によって閉じられた時空間、
その檻の中に閉じこもっていることに飽きてきたならば、
自己本来の無限性に立ち戻るのがまさに自然の摂理である。

いつまでも、ボーっと生きてんじゃねえよっ!と、
チコちゃんに言われてもしょうがない時期にあると、
あなたには、内面のそういう衝動はあるだろうか?



余談だが、・・・
チコちゃんの象徴は、たぶん幼いころの純真な自我・・の反映を意味していると、
わたしは誰?ここはどこ?生きることは何?死ぬとは何?
人生の意味はなんだろう・・
そういうまっとうな命題、命(いのち)の題(テーマ)を思い出させるための、
単なるTVの設定でもあり、また偶然たる必然の問いかけのような気がしないだろうか?

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わたしとは何か?
これを考察してみると良いかもしれない。

「わたしとは何か?」という問いは、
自分はサルの進化した肉体個人であるし・・
それ以上ではない・・と信じ切っている場合には、
まったく埒外、感知できないことであろう。

高次から次元を飛び降りて来ると、
この次元の波動の粗さによって、
大いなる自己の精緻なレベルの情報が欠落する。
生まれることは、忘却の河を渡るというが、
河とはあちら側とこちら側の次元の狭間のことだ。
誰もみな、その河を渡ってきた・・勇敢な魂である。



いったい誰が、このような世界に好んでくるのか?
あなたはもうその意味が分かっているだろう(笑)。

本来の自己を忘れる仕組みのこの地球という世界、
多くの魂たちが、
この次元生活で投影されるリアルな幻影の数々に目(魂)を奪われているため、
その現象世界の矛盾や劣悪さを、何回生にもわたって経験し、
浮かんでは沈む、輪廻転生の恩寵の仕組みに気づかない間は、

「真のわたし?」に戻ろうとする切なる衝動も出てこないかもしれない。

しかしながら、今という時期、このとき、今は、
朝の目覚めの時のようなものであり、
輪廻転生という、苦痛と快楽のはざまで学ぶ、
何が何だか?の繰り返しの生死を卒業する時期である。

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わたし・・とは何か?

<わたし>が・・在るから・・<世界>がある。
わたしがいなければ、わたしの見る世界も宇宙もない。

誰しも、そんな馬鹿な!という思いがあるが(笑)、
これが理解できなければ何のことかわからない。

常識では・・、
環境、世界、宇宙がずーっと在って、そうして私個人がたまたま出てきた
・・と思っているが、
それは、意識としての自己が、物質としての自己になりきっているということだ。

思考や、認識つまり”意識”の働きなくば、
世界が先だも、私が先だも無いではないか。
わたしは人間だも、女だ、男だも、まず金だ名誉だ・・も無い。

わたしが・・在るからこそ、そのすべてがある。
真には、わたしとは・・在る・・ことであり、
あれだこれだ、という意識することそのものが・・<わたし>といえるのだ。

意識なくば、私はこの何年何月に生まれて、どこそこの国にいる、
その肉体個人であるという・・あなた・・もない。

その意識は、在る・・存在していること、からきている。

在る・・beingから、あらゆる波動が噴出している。



<わたしは・・在る>・・という言語表現の中に、
その無限性が暗示されているが、
いつも、そのわたしは・・この肉体だ・・という観念が付きまとい、
その実に宇宙的に深い無限の可能性に気づかない。

若干科学的な言語でいえば、
わたしは・・在る!・・から、
すべての波動・エネルギー・情報が多次元的に噴出しているのである。

波動・エネルギー・情報・・・は、存在諸形態の広がり、宇宙のことだ。



わたしは地球に生まれては死ぬだけの、
単に一時の肉体個人であると信じていれば、
その信念、想念の塊、想念の束が邪魔をするというか、
そういう展開のフィルターをかけるため、

わたしは在る・・で世界が現れている・・ことが理解できない。
世界、宇宙は意識的な顕現であり、
その中心は・・わたし・・意識であるということが、
あなたは理解できるだろうか?


地球上の多くの人々が、たぶんそう決め込んでいる、
自分が肉体である・・という観念は、あくまでも「観念」だ。
観念つまり思考であり、そう思っているということに過ぎない。
観念とは、観察されることに対する今信じる思い、想念のことだ。
そうではないか?

--自分が特定の肉体個人である--は想念なのだ。

「想念ではなく、事実でしょ?!」・・は、そう”思っている”ということだ。
肉体があり、想念、思考があり、観察対象としての世界がある。
それが観測・観察事実であるが、----
その起点と思しき「肉体」に・・、
<わたし>という「概念」を当てているだけだ。

あなたに認識・思考という働きがなければ、
自分のことを肉体だとか「思う」こともないはずだ。

認識・思考という意識的な働きがなければ、
自分が自分を認識して、思考を巡らせることもない。

ここまで来れば、自分とは肉体ではなく、意識的なものと
否応ながら理解可能だと思うが・・どうだろうか。

・・・
今・・認識の働きがあり、その観察対象である「肉体」があるが、
その「肉体」が自分の意志で、また他者とは違う独自なやり方で、
自在に動かすことができるため、
私のことを、あの人、この人という他者とは違う、
別個の個人とみなすのである。

これが、この世界の多くの人が当たり前のように見なしていることだ。

そうではないか?