気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

次元の話(その3)想いという新次元要素

2016-11-10 06:09:25 | 宇宙時代の考え方
だだっ広い空間の中に、物質があって運動している様子を説明するのが、
物理学でいう3次元(物理的4次元)と言っていい。

かの有名な、すでに古典になった感のあるアインシュタインの「相対性理論」で、
「時間・空間の連続体」という概念が登場した。
時間空間は一体であるという、それまでのニュートン力学体系には無い考え方だった。
時間と空間は一体でありながら、別物として観測されているということ。

えー、どういうこと?・・というわけだが、

特殊相対性理論では、
X^2 +Y^2 +Z^2 +(iCt)^2=0(^2は二乗のこと)
 3次元的距離=光の及ぶ範囲 という等式だ。 
(X,Y,X=空間距離、C=光速、t=時間 i=虚数)
X、Y、Z、t(空間と時間)その関係を数式で表している。

アインシュタインは、さらにこれを進めた一般相対性理論で、
重力を、空間の歪と考えそれをテンソルという量として導入し
宇宙の姿を示すだろうところの「重力方程式」を提示し、
それによって、宇宙とは閉じた4次元時空連続体、
つまり4次元的な「球」のようなものだと提唱したのだ。



つまり、この宇宙は 4次元的「立体球」であるということで、
いわば地球が3次元的に丸いように、
宇宙全体も4次元的に"丸い"ということを示したのだった。



宇宙になかにある、無数の様々な星の「重力」によって宇宙全体も丸くなり、
4次元球を構成しているという話。
地球が平面ではなく「球面」だったように、
一気に無限遠まで巨大になるものの、
その宇宙も重力によって球面になる、ただし4次元的球面だ・・という説明である。




なので、仮に、北極から上へ宇宙をまっすぐ上に突き進むと、
あーら不思議・・下の南極から元に戻ってくるということになる。
まっすぐ向こうに進むと、4次元球体だから「後ろの正面」から戻ってくる?(笑)

さらに物理学上のリサ・ランドール女史でも有名な5次元理論では、
その「宇宙という巨大な4次元球が、さらに無数にあるという話なのである。

4次元の上にあるのが5次元であり、それらを関連付けているのが、
星々に普遍にある「重力」である・・という理論。

確かに4次元宇宙を無数に蔵しているのはその上の5次元となるわけだ。
宇宙そのもは1つの「四次元宇宙球」であり、さらに同じような「宇宙球」が無数にあるという話。

宇宙は単に無限というわけではなく、つまり多次元・階層構造であるという話なのである。
(あー、頭がクラクラしてきた・・笑)
・・
こういう話ならば、人間などゴマ粒以下の塵の小片にもならないが、
いやそれは、人間の肉体容量に比べれば・・という意味だけの話であり、
宇宙全体を吟味し、推定し、観測している人間の意識に関する話ではない。

「われ思う、故にわれあり」で有名な、デカルトや
「純粋理性批判」を著したカントの時代に、
うっかりか、ちゃっかりか、実物でないとして捨てられた?「思推」が、
人間存在として実に重要なファクターであったのである。



・・・
3次元(物理的4次元)レベルでは、世界とは、
光の届く範囲が、つまり目に見える範囲だけが世界だといわれているが、
それを扱うところの、思考、想像、思推という人間の意識活動、つまり想念は、
一気に無限遠まで届いているということなのだ。
(思考は重さも大きさもないし、目には見えないが・・)
思考や想念も「波動」であるからこそ、人の意識に中のイメージとして浮かび上がってくる。
思考や想念という波動があるからこそ、あるいは思推があるからこそ、
3次元世界をも観察(観て察知する)ことが出来ることに気づけるだろうか。

確かにこういう気づきと常識観念に間には、相当なギャップがあるのも事実。

思考がすぐに物に変換されない、すぐに金にならないからと言って、
それが目に見えず、触れないからと言って、
思いや思考、想念自体に全く気付いていないことは、
まるで海の中で必死に水を求めている魚のようなものである。
・・
例えば、
宇宙が多次元だという認識も、それは誰がしているのかといえば、
それは「人間」なのである。

結局のところ、宇宙がそうであろう・・という話、多次元であろう、という認識。
これは・・結局、人の「思考」によって出来ている。

つまり多次元世界というのも「認識」ということなのである。
諸観測の結果、これが多分事実であろう・・という「認識」である。

人間の・・その時の観察によって得られるのが「認識」であって、
要は、「認識」とは・・人の<思考>によって作られた観念なのである。
役に立てば良い、役に立たなければ捨てられている・・マインドの創作物。

確かに法則などは観察結果と合うように作られているものの、
単に、宇宙大自然を観察する人間の「認識」に過ぎないということを忘れてはなるまい。

そこにあるのは、ただ、
宇宙はこうだ、世界はこうだ・・という「認識」なのである。

「えー、何言ってんだ!・・認識、思考というがねエ・・、
実際に宇宙があるではないか・・!事実ではないか・・!」

というかもしれないが、

事実とは、それは我々の五感に映じた1部分のことであって、
決してことの全体像などではありえないし、
さらに、我々の五感に映じる宇宙、その宇宙は・・

「五感」自体が・・・見ているわけでなく、
五感・知覚を通じて・・それをそうだと<誰か>・・いや<何か>が
気づいて・・それを認識しているのだ。

この世界を認識している・・誰か・・何者か・・が問われている。
ここが実に・・・重要なところ。


観察対象、いわば<客体>は・・それを観ている当の<主体>ではない。

つまり、意識ある・・わたしは・観察対象の世界にいるように見えて、
それを超えたポジションにいるという事である。

3次元(物理的4次元)を観察している存在は、当然それを超えた次元にいる。
というか、究極の観察者・・根源を神といえば、神はすべての次元を超えている。

超えている・・というのは、あちらに行っちゃっている(笑)・・のではなく、
ここに在りて、さらにそれを含んでいる、さらに大きな在り方とでもいうか、
真我を究極のわたしとすれば、それは、
私個人を含む、さらに大きなわたしの在り方というべきものだ。

究極まで拡大した自己は、真我と呼ばれる・・わたしであれば、
大きなわたしから小さな私までには、次元という意識の階層があるとも言えるだろう。

人間を、いわば途上の神の子供とするならば、
その神の子とは、多次元という階段を上がり降りして遊んでいる者だと言って良いかもしれない。
友達とじゃんけんして、山道の階段を、上がった下がったりしてで遊んだことはないだろうか?(笑)

例えば、スピリチュアルで普通のように言われている5次元という存在形態は、
宇宙が多次元構造であるということにとどまらず、
ここで説明した物理的な4次元(空間と時間)に、
さらに意識の派生である思考、想念というものを加えた次元ということができるだろう。
時間(it)と空間(xyz)に加え、思考、想念というファクター(?)だ。

そして人間には想念がある。
そう、長い間この世界では気づかなかった、あるいは忘れていたこと、
人は皆「魔法使いの弟子」のようなものなのだ。(笑)

3次元的物理的形態に中にに閉じられていた「意識」が・・自らに気づいたからには、
意識のツール、表現形である想念、想い、思考によって、
時間空間という存在表現形態を変えることができるのである。
(単にスプーン曲げ等もはその1例、無垢な子供たちは実際に曲げちゃっている!笑)

そうであるからこそ、
人は時間・空間にとどまらず、想念をもその観察対象に含める時が来ているのである。

そう、想いとは、自己創造の行く先を決める車輪のようなものであるとも言えるだろう。