気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは何か(15) 神々の目覚め

2015-11-30 03:08:44 | 新たなる地平線
わたしとは何か・・と問いかけているのは、わたし以外にない。

当たり前だ。

外の世界の誰も、わたしに代わって「わたし」は何か?と、決して問いかけはしない。

そりゃそうだ。


わたしの知覚する世界の中で、自己を自己として感じている者は・・・わたし以外にいない。

他者もそうだと思うのだが、他者は他者でそう感じているだけで、

わたしは、わたし以外にない・・・。


当たり前すぎて、何が何だか?なのだが、

「わたし」は宇宙で「ただひとつ」であるということに気付けるだろうか。

おいおい、私だけかよ・・さみしいじゃないか・・という必要もない。

全てが、皆それぞれ、ただひとつの意識だということ。

オール、イン、ワン。

・・・

大勢の人間がこの世界にいるし、話もするし、

色々コミュニケーションすることはできるが、

わたし・・は「わたし」以外にいない!


例えば、わたしが目を瞑れば、世界は見えなくなるし、耳をふさげば聞こえなくなる。

というよりも、その分だけ世界が消えるということ、

そういうことが言える。


有るのに・・見えないのではなく、有るのに聞こえないのでなく、

その時は、その分だけ世界は消えてしまうのである。


「そんなばかな!・・」というのが、いわば常識であるが、

それは、その他の人が相変わらず世界を見ていて、聞いていて、知覚していて、

あなたにそれを説明するからなのだ。


しかし、他の人も目を瞑り、耳をふさいだら、またまた別のその他の人が、

世界は有るよ・・・と伝えることでしかそれを説明できないのである。


例えば、宇宙の中に、それを知覚認識する意識主体が誰もいない場合、

一体誰が宇宙の存在を証明できるのだ?


宇宙すらも、自らの存在を自覚・証明できないだろう?

つまり宇宙は「存在していない」ことになるのだ。



つまり、「わたし」意識が無ければ、世界は存在しないということ、

自己を自己として認識する人存在、意識存在がいなければ、

宇宙すらもその存在を自覚できないということである。

意識的に・・自覚するからこそ、世界、宇宙があるということだ。




創造主、神なる根源の自己想起・・それが宇宙。


それは、意識的存在である・・人・・にあっても同じこと、

我々が有る・・、在る・・、あることは、神の宇宙創造と相似なのだ。


簡単に言えば、宗教がかって聞こえるのは致し方ないが、

意識的存在であるところの、「わたし」達は・・神々であるということだ。


大きな物を動かすとか、大金を所有するとか、ウルトラマンのように巨大だとか、

そういう物量の過多ではなく、目先の刺激や威力の大小でもなく、


存在そのものが、宇宙を創造しつつ、それを知覚認識しているという、

絶大で、かつシンプルすぎる真実に気付けるだろうか。


例えば、あなたが片目を閉じれば、あなたの世界はマジそうなるのだ。

そう見えるのではなく、そう成ることを・・「知覚」しているということ。




今までは、事物や環境が先にあると「思い込んでいた」からこそ、

客観世界が先にあって、私たちはその中の身体動物だと思い込んで、

あるいは、思い込まされてきたせいで、

わたしという・・意識が、わたしの世界のすべての根源にあるという、

このような逆転認識はピンと来ないかもしれないが、

全ての根源には、わたし・・があるという・・「真実に戻る」だけの話。


わたしは、わたしであるところの・・それである。

I am that I AM.

これは宇宙のまさに創造原理。

これがあなた方でもある。


極めて、最もシンプルなことが、

最も難しいなんて、まったく、どういうことだろうか。


言わば、これが聖書にある「ラクダの通る針の穴」だ。

物量観念、唯物観念では、確かにそんな大きなものは決して通れない。

しかし、わたしはラクダではない・・・。


わたしは・・わたしという認識主体、意識存在、意識体、いわば法則であって、

外の世界に投影された姿形、物量、現象ではないからだ。

現象や物量は現れては消え去るもの。


鏡に映った自分の姿形を求めて、鏡の表面をかきむしっても、そこには何もない。

投影された事物は<あなた>自身ではないのだ。


そう、

わたしは・・・鏡の中にはいない。

物質や、時空間の中にはいない。

外の世界の、中・・・にはいない、

ましてや集合意識の強制や束縛の中にもいない、

滅び去ることも、破壊されることもない。

何がどうなろうが、本質で何も心配など要らないということだ。


外の世界の、ほんの微小片がわたしだ・・ではなく、

そうではなく、外の世界を映し出す、こちら・・手前、それが<わたし>だ。

それを魂だとか、意識だとか、生命だとか、神だとか言っているだけのことだ。


主観論だとか、汎神論だとか、そういう頭の「観念」の話ではなく、

我々が、わたしとして・・今在る・・・事実を説明しているだけ。


だって、そうだろう。

目の前のパソコンやスマホは、

一体「誰」が見ているのだ?


夜空の星々は、

一体「誰」が観測しているのだ?


苦楽の人生を経験しているのは。

一体「誰」なのだ?


幾多の転生や世界を体験し、様々な人格を演じているのは

一体「誰」なのだ?


いまの、わたし・・という、宇宙の自己認識の働きそのもの、

それは消え去ることも、かつて生まれたこともなく、

それは、永遠に、いつも、「それ」なのだ。


わたしとは、それである。





本日も拙い記事を御覧頂きまして、誠に有難うございました。