●人間は、意識による自己創造者
人間だれでも「自意識」がある。
自意識・・わたし意識・・「わたしが私である」・・という自己認識であるが、
地上のあらゆる生命種のなかで、この自意識というものが顕著にあるのは、人間をおいてほかにない。
わたしは、わたしに・・自らで気づいている・・
つまり、何にも・誰にもよらず、自らで自らを・・自己発見している・・
あるいは、自己が自己を創立せしめている、
・・・つまり原初の創造者と言えるのである。
創造者とは、それ、今のあなたやわたしたちのごとく、
何かに成ることが出来ても、本当は・・、
わたしとは、これだ、あれだという特定の者ではない。
何者でもない者、わたしは・・即ち・・わたし・・である。
I AM that I am !
これが真実の表明なのだ。
●永遠の今・・吾あり
オー・マイ・ゴッド! とは、どこかの神に向けた想いではなく、自己自身に向けた感嘆符である。
「Oh、my GOD!!」
体の大きさや性格、年齢、血筋、年収、経歴等も、そう・・各自の体験の記憶さえも、
どうでも良い、まったく枝葉以外のものでなく、
それらすべてを可能にせしめている・・存在法則、
「吾・・在り・・」という意識自体が、それ即ち・・自己創造、自己定立原理そのものなのだ。
●動物も神の派生、御使いのようなもの
例えばあなたの家のペット、犬や猫、小鳥等も生命種の1形態であるが、わたしは私だよ・・という自意識は極めて少ないのがわかるだろう。
そう、動物には自意識が無いのではなく、人間ほど顕著ではないだけなのだ。
なぜなら動物にも、個としての意図や行動があり、そして外界刺激に対する反応がある。
動物にある「意識」、それが人間にとって単純に見えていても、
意識~意図~エネルギー~行動 という意識の発現様式、つまり創造のプロセスを表現しているのである。
たとえそれが未分化であっても、人間の赤子の時がそうであるように、
「吾在り・・」意識が根っ子にあるのである。
そう、すべての生命の根源には「吾あり・・」があるということだ。
根源は、ただひとつの・・わたし・・それを神とか創造主とか根源とか名づけているだけの話だ。
●外から内に還るとき
大きさや、重さ、お金の額、そういう物量的な大きさの比較論ばかりが氾濫する現代文明では、
これは、一体全体なんのことやら意味不明ということになるが、
それは全くもって「灯台もと暗し」であり、あるいはよく例えられるように、
王様が自分を乞食だと思い込んでいる悲喜劇を示している。
自己自身の存立原理に気付かないこと、それを何千年もの転生で繰り返しをしてきたわけで、
まさにそれは喜劇や悲劇という名の幾多の人生劇場と言えるだろう。
「おー、マイ、GOD!」
・・・・
●物・銭・金の支配観念から抜け出せ
それが何の役に立つ?とか、
効果はどの程度なのか?とか、
お金でいくらになる?とか、・・・・
この世相の中で、ついついそういう思考や、感覚になってしまうことで、
いつもいつも、今ある奇跡的な自己の在り方から、意識をそらせていたことに、
もういい加減に気づくべきであろう。
外側から来る刺激、びっくり仰天、どかーん、バッコーン等という爆発的な刺激の中には・・、
身体の安楽さからくる、目くるめく夢心地の麻痺的感覚の中には・・・、
死ぬの生きるの・・という怒涛の激情の中には・・
決して真実は無い。
しかしながら、現在どれほどの魂達が自己の無限性を思い出しているだろうか、
自己の自己たる存在原理、真実に気付いているだろうか?
時間など存在せず、在るのは、今・・という常なる瞬間しかないのだ。
今、目覚めないで、一体全体・・いつ目覚めるのか?
ただ、それが問題ともいえるかもしれない。
あなたは気付いているか?
・・・
●放蕩息子の帰還
わたしは、わたしに・・自らで気づいている・・
つまり、何にも・誰にもよらず、自らで自らを自己発見している・・
あるいは、自己が自己を創立せしめている、・・・つまり原初の創造者と言えるのである。
吾・在り・今・という事実感覚以外に、実際確かなものは何もない。
・・・
誰でも人生において、寝ても覚めてもあるのは・・今の・わたし・・ではないか!
生れてから、もの心つき、常時存在していた「今・ここ・わたし」という意識、
これこそが、生きている意味において、根本にある事実なのだ。
それがなければ、ここに生きてはいない。
そうだろう?
常時存在していた「今・ここ・わたし」という意識、
意識する・「わたし」・・において、
その「今」から・・時間が生まれ、その「ここ」・・から空間が生まれ、
多くのわたしの創るそれらの世界が、多次元世界として表出している。
何ごとも、内から外に展開している真実に気づけるか。
それが何の役に立つ?・・という、経済植民地にて擦り込まれた思考で、
事の本質から目をそらさないことだ。
どんな効果?・・という、刹那的・功利的思考で、
もう、事の本質から目をそらさないこと。
I AM that I am !
oh! my GOD!
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
人間だれでも「自意識」がある。
自意識・・わたし意識・・「わたしが私である」・・という自己認識であるが、
地上のあらゆる生命種のなかで、この自意識というものが顕著にあるのは、人間をおいてほかにない。
わたしは、わたしに・・自らで気づいている・・
つまり、何にも・誰にもよらず、自らで自らを・・自己発見している・・
あるいは、自己が自己を創立せしめている、
・・・つまり原初の創造者と言えるのである。
創造者とは、それ、今のあなたやわたしたちのごとく、
何かに成ることが出来ても、本当は・・、
わたしとは、これだ、あれだという特定の者ではない。
何者でもない者、わたしは・・即ち・・わたし・・である。
I AM that I am !
これが真実の表明なのだ。
●永遠の今・・吾あり
オー・マイ・ゴッド! とは、どこかの神に向けた想いではなく、自己自身に向けた感嘆符である。
「Oh、my GOD!!」
体の大きさや性格、年齢、血筋、年収、経歴等も、そう・・各自の体験の記憶さえも、
どうでも良い、まったく枝葉以外のものでなく、
それらすべてを可能にせしめている・・存在法則、
「吾・・在り・・」という意識自体が、それ即ち・・自己創造、自己定立原理そのものなのだ。
●動物も神の派生、御使いのようなもの
例えばあなたの家のペット、犬や猫、小鳥等も生命種の1形態であるが、わたしは私だよ・・という自意識は極めて少ないのがわかるだろう。
そう、動物には自意識が無いのではなく、人間ほど顕著ではないだけなのだ。
なぜなら動物にも、個としての意図や行動があり、そして外界刺激に対する反応がある。
動物にある「意識」、それが人間にとって単純に見えていても、
意識~意図~エネルギー~行動 という意識の発現様式、つまり創造のプロセスを表現しているのである。
たとえそれが未分化であっても、人間の赤子の時がそうであるように、
「吾在り・・」意識が根っ子にあるのである。
そう、すべての生命の根源には「吾あり・・」があるということだ。
根源は、ただひとつの・・わたし・・それを神とか創造主とか根源とか名づけているだけの話だ。
●外から内に還るとき
大きさや、重さ、お金の額、そういう物量的な大きさの比較論ばかりが氾濫する現代文明では、
これは、一体全体なんのことやら意味不明ということになるが、
それは全くもって「灯台もと暗し」であり、あるいはよく例えられるように、
王様が自分を乞食だと思い込んでいる悲喜劇を示している。
自己自身の存立原理に気付かないこと、それを何千年もの転生で繰り返しをしてきたわけで、
まさにそれは喜劇や悲劇という名の幾多の人生劇場と言えるだろう。
「おー、マイ、GOD!」
・・・・
●物・銭・金の支配観念から抜け出せ
それが何の役に立つ?とか、
効果はどの程度なのか?とか、
お金でいくらになる?とか、・・・・
この世相の中で、ついついそういう思考や、感覚になってしまうことで、
いつもいつも、今ある奇跡的な自己の在り方から、意識をそらせていたことに、
もういい加減に気づくべきであろう。
外側から来る刺激、びっくり仰天、どかーん、バッコーン等という爆発的な刺激の中には・・、
身体の安楽さからくる、目くるめく夢心地の麻痺的感覚の中には・・・、
死ぬの生きるの・・という怒涛の激情の中には・・
決して真実は無い。
しかしながら、現在どれほどの魂達が自己の無限性を思い出しているだろうか、
自己の自己たる存在原理、真実に気付いているだろうか?
時間など存在せず、在るのは、今・・という常なる瞬間しかないのだ。
今、目覚めないで、一体全体・・いつ目覚めるのか?
ただ、それが問題ともいえるかもしれない。
あなたは気付いているか?
・・・
●放蕩息子の帰還
わたしは、わたしに・・自らで気づいている・・
つまり、何にも・誰にもよらず、自らで自らを自己発見している・・
あるいは、自己が自己を創立せしめている、・・・つまり原初の創造者と言えるのである。
吾・在り・今・という事実感覚以外に、実際確かなものは何もない。
・・・
誰でも人生において、寝ても覚めてもあるのは・・今の・わたし・・ではないか!
生れてから、もの心つき、常時存在していた「今・ここ・わたし」という意識、
これこそが、生きている意味において、根本にある事実なのだ。
それがなければ、ここに生きてはいない。
そうだろう?
常時存在していた「今・ここ・わたし」という意識、
意識する・「わたし」・・において、
その「今」から・・時間が生まれ、その「ここ」・・から空間が生まれ、
多くのわたしの創るそれらの世界が、多次元世界として表出している。
何ごとも、内から外に展開している真実に気づけるか。
それが何の役に立つ?・・という、経済植民地にて擦り込まれた思考で、
事の本質から目をそらさないことだ。
どんな効果?・・という、刹那的・功利的思考で、
もう、事の本質から目をそらさないこと。
I AM that I am !
oh! my GOD!
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。