●色即是空
形ある物は空(くう)に消え、また空から様々な形が現われる。これは我々をとりまく現象世界の根本的な仕組みを言ったものです。諸行無常も同じです。全ては変化変遷(色)するものであり、そのためのあらゆる可能性を育むものが空(くう)である、ということでしょう。眼に見えないからこそ、眼に見えるものに転化顕現できるわけであり、可能性は無限であるからこそ、変化し続けるということです 。
●空の無限想起
人々はいつも目先の現象にこだわり、肉体維持のため、いつも何かを確保し、溜め込んでいくようです。そのように、目先の基盤であるおのれの肉体を維持しようと悪戦苦闘ののち、真実を知った時には、せっかくの努力が結局、露と消えるものであったと落胆するような感覚も出てくるものです。諸行無常、全てははかないものだ・・・などと感じるものでしょう。
しかしながら、消え去るものは、あくまでも形、物、風評等でしかないのです。意識作用自体、また意識的成長自体は決して消える事はなく、形を現すための空(くう)に記憶されます。記憶と言っても量的追加ではなく、無限にあるものの中の「想起」ともいえるものです。空(くう)は常に全ての可能性を含んでいるからです。結果は無常であり変化し続けるが、原因自体は不変ということに気づけるかもしれません。
●函数と変数、不変と変化の諸相
数学的なアナロジーでこじ付け風に言えば、「変数」は変り続けるが、「函数」自体は変らないようなものです。例えば極めて簡単な例ですが、y=f(x)という函数を眺めれば、
f(x)の、変数 x は様々に変るのに、函数自体 f( )は常に変らざるものです。
f( )の( )は空(くう)である必要があるでしょう。
f は法則、 x は変化する意識、 f(x)は、その時々に生起する意識作用を現し、y=f(x) は、生成変化する様々な諸現象をあらわします。
●諸行無常
たとえば、あの西行法師の、ぼろぼろの法衣と、諸国行脚の姿絵を見たことがあるかもしれません。詠み残された歌をとおして、世界はなんてはかなく無常なものであると、思ったこともあるかもしれません。それからは、確かに昔も今もある、変らぬ現実の、一見確たる世界や生活が、実ははかなく消え行くものだという「無常観」を感じさせ、その時そのことが理解できる者にとっては、どうしようもない逃げられない真実として受け止められるようです。
1つの悟りに接すると同時に、せつなさと哀れみをも感じさせるかもしれません。胸の辺りにかすかなうずきを感じながら、「悲しいけれど、これが真実であろう・・・」という感覚を持つかもしれません。
●無常観は本質の自己の目覚め
無常観というのは、現実の世界に浸り、様々な経験と思いの変遷を繰り返した挙句、なるほどそうなのかという、ある種の「悟り」に至った人の意識状態を現しています。生まれてから、外界に精一杯伸ばし続けた意識、何かを求め続ける切なる五感感覚の先には、実のところ、決して希望や理想や幸せは見い出せないのだ・ということに、否応なく気づく瞬間が誰にも訪れるものです。その時感じるのが「無常観」だと思われます。
そのときには、あたかもすべてが崩壊するような感慨に襲われるかもしれません。まさに砂上の楼閣が壊れるような、そんな切なさを感じるものでしょう。それは、無意識に張り巡らせ、求めに求めた、意識の放射が、外から内に回帰する、そんな質的転換をも示しています。その瞬間は、走馬灯のように一瞬で回顧するような、瞬間的な「悟り」となって立ち現れます。追い求めていた物や形や名誉、権威等ではなく、実は我々の生きることで得られる体験自体が、最も大切な財産であったのだと、真に理解出来る瞬間でもあるのでしょう。
●「いま」内なる真実を観る時
外から内への劇的な変換の瞬間であり、内なる魂への帰還と言ってもいいかもしれません。吐く息から、吸う息に戻るような、そのような瞬間でもあるのです。 自己をとり巻く世界は、自己の鏡であるということに気づく瞬間でもあります。まさに鏡が鏡であると気付く瞬間です。見るべきは鏡ですが、本質は鏡の中にはないことは明白です。外の世界はホログラムであるということと同じ意味をもっています。
●生と死は、単に表と裏
我々はとりあえず生きながらえる為に、出来る範囲であらゆる努力をしています。お金も株も地位も、権力も、能力も知識も、生きる為の「ツール」と認識しており、その獲得の為のあらゆる努力を惜しまぬ姿勢は、あなたもわたしも同じなのではないでしょうか。人々にとってもっとも忌み嫌うもの、それは、「死」というものでしょう。これを回避すべく努力することで、科学や技術、医療、そして政治や陰謀などが起きていると言ったとしても、あながち見当違いとは言えないのではないでしょうか。
しかしながら、それら形あるものを、否応なく、全て手放すことになるのが、死というプロセスなのです。
悟りの瞬間は、まさに人間の死と同じようであり、1つのハードルを乗り越える瞬間に他なりません。世間でいう死、それは顕在意識によるものではなく、潜在意識及び肉体の要求にもとづく、肉体の自己消滅を現し、まさに「色」から「空」への変化です。しかしながら、近視眼的な捉え方は本質を見逃してしまうかも知れません。死は、世間で言うような怖くていやな現象、すぐに忘れてしまいたいものではなく、無限に大きな生命システムに基づいた壮大な仕組みでもあり、たとえ無意識であったとしても、本来の自分に戻るための、いわば自動仕掛けの恩寵の仕組みでもあるのです。
●生と死の「観念」を捨てる
本来悟りは、生きてありながら生と死のハードルを乗り越えることであり、「生と死の観念」の衣を脱ぎ捨てることと言えるでしょう。全ての執着を捨て去り身軽になったことで、結果、自然にハードルを越えることでもあり、その飛び越える自分自身を発見して驚くことであるかも知れません。肉体に有る楽しみ、苦しみ、また絶頂と地獄の感情起伏、絢爛豪華な、はたまた苦渋と忍耐の体験の数々、集団無意識という厚いベールの下で生きる重い経験、そのような波乱万丈の生体験の繰り返しの中にありながらも、その度にいつもいつも自分自身に戻ることができるのは、まさに死というプロセスのおかげです。あたかも、お役を演じていた様々な芝居の舞台から、本来の役者である自分に戻ることが出来る瞬間です。本来の記憶を取り戻す瞬間ともいえるでしょうか。
●捨てて得られる「永遠の今」
本来我々の持てるものは何も無いということは、すなわち全てをもっているということでもあるということに気付けるでしょうか? 我々が全ての可能性を含む「空」であればこそ、千変万化する世界で遊べるのかもしれません。捨ててしまえば何も無くなる!という恐れは全く意味がないでしょう。なぜなら、執着を捨て去るということは、恐怖をも捨て去るということなのです。「恐怖」が捨て去られたあとに、一体全体、果たして「恐怖」する事があり得るでしょうか
●今わたしは在る
自分にあるものはまさに「今」の自分だけという、あたりまえの原則に戻るときには、過去という記憶の中にある様々な思いが立ち現れ、全てが懐かしさ、ありがたさとなってしっかりと魂に記録されるものです。全てが「わたし」のためにある、これ以上の愛を思いつくことが出来ません。
「今」しかないという事実に気づけば、過去の生誕も、未来の死も、本質ではないことがわかるかもしれません。
「今・わ・た・し・は・在・る」 ことは、・・即ち、変化しながらも、永遠に「今わたしは在り続ける」 ことを明確に示しています。これが本質であり、また「あなた」が今、存在していなければ、世界も存在などしていないのだ、ということを示しています。
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エックハルト・トール著「Power of NOW A guide to Sporitsual Enlightment」
日本語タイトル「悟りをひらくと人生はシンプルで楽になる」 飯田史彦 監修
問い そんなこと言ったって、時間の概念なしに、どうやってこの世界に生活していけるんですか?未来がなければ、目標に向かって努力することがなくなります。過去がなければ、自分が誰かもわからないじゃないですか。 過去があるからこそ、今の私があるんです。人間にとって「時間」はすごく貴重なものですよ!
答え 時間は、ちっとも貴重ではありません。時間は幻だからです。あなたが貴重だと感じているものは、実は時間ではなく、時間を越えた「ある一点」、すなわち、「あるひとつの時」ですそれは、「いま」です。「いま」こそが、ほんとうにかけがえのないものです。時間に、つまり「過去と未来に」焦点を当てるほど、もっとも貴い「いま」を見失ってしまいます。なぜ?、「いま」が一番貴いのでしょう?答えは至極簡単。それが「唯一のもの」だからです。存在するのは、それだけです。永遠の「いま」こそが、わたしたちの人生の全てがくり広げられ、内包された空間であり、唯一の現実です。「いま、この瞬間」が人生なのです。人生は「いま」です。わたしたちの人生が、「いま」でなかった時など、これまでもありませんでしたし、未来永劫ありません。わたしたちを、思考の世界から超えさせてくれるのは、「いま」というときだけです。「いま」だけが、時間とかたちのない「大いなる存在」につながれる唯一の時です。
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大いなる存在というのは、あなた自身でもあり、またさらに大きな存在です。あなたも他の人も、石も、水も、山も、風も・・あらゆるものは、大いなる存在の無限の在り方を現しています。
本日も拙い記事をご覧頂きましてまことにありがとうございました。