●難しいから悟りなのか?
「悟り」という言葉には、何か高尚で手の届かないイメージがあるようです。それは「悟り」という言葉と、歴史上の先達の神々しいといわれる程の伝説や、記憶を垣間見ることで得られる、おのれとの圧倒的な意識ギャップを感じるからでしょう。凡人には到底、あのようなありようは不可能であり、あのような艱難辛苦も解脱も出来るはずもない、それが出来るのは、彼らが特別な魂であるからこそである。・・と、思っているものです。
●苦難をすでに越えている我々
しかし艱難辛苦は我々のほうが多いかもしれないと考えた事はあるでしょうか。いまのこの地上に生きていることが、あなたやわたしにとって、決して理想の状態であるとは思っていないはずです。物質が豊富か少ないかは別にして、幸せを請い求めている状態、すなわち多なり少なりの困難と不安を感じる世界に生きているのではないでしょうか。この世界にあるということは、多くの意識存在にとって、すでに試練の場にあるといっても間違いとは言えないでしょう。うかうか出来ない油断のならない世界、決して楽しい・嬉しいことばかりではない世界に生きていると、誰しも感じているのではないかと思います。我々皆、今ここにいると言うことは、経るべき苦楽をすでに経験した魂である証拠ではないかと思います。
●違わない本質
悟りを開いたといわれる、覚醒したといわれる存在達の魂が、特別であり、我々とは違うのだというのは一体どうして解るのでしょうか。ブッダやキリスト、ムハンマド、荘子、日蓮、ヨハネ、マルクス・アウレリウス、道元、空也・・・歴史に残る数々の先達は、我々と違う存在なのでしょうか。実は、そんなことはないことは、潜在意識ではすでに皆知っているはずなのです。
では彼らと我々の違いは何でしょうか。確かにここが問題でもあります。一体何が違うのでしょうか。確かに簡単な問題ではないのですが、実は、この難題の原因は、外の何者か、あるいは社会の制度、他人の有り様にあるわけは無く、まさに自分自身にある事も、すでに解っているはずなのです。違いを作り出しているのは、結局は自分自身の観念でしかないのです。
「到底あり得ない」「とんでもないこと」と肩をすくめ、意識的にあるいは無意識的にその「違い」をわざわざ設けている自分達に気づけるでしょうか。民主的だという今の世の中にいる人々がよく言う、「人間、皆同じだよ」という言葉は、これには適用しないのでしょうか。人間に例外や区別があるものでしょうか。
偉大と言われる魂達と、そうでないと思っている魂達との違いは、まさに、その違いを設けていないか、違いを設けているかの違いでしかないのではないでしょうか。ひょっとして、後世の難しそうな教義や体系は、その違いを、ことさらにうず高く積み上げたあげく、結局はその輝きを見えなくさせているような迷路になってしまったのかも知れません。元々そこにあるものが、単純な真理が、もっとも難しく、分けがわからないものとなっているのかも知れないと考えた事はあるでしょうか。確かに、末法の世とはそのようなものかも知れません。
●本質は、量で計るものではない
価値あるものは、その分難しいものであるという・・思考がいつもそこにあるでしょう。気がつくかも知れないことですが、大きな物量はそれだけ重いものだという、物理世界の観念が、全てにおいて当たり前のことのように染み渡っているようでありす。我々は不完全であるがゆえに、完全を求めて流離い、獲得して行くことで充実していくものだという考え方でもあります。 不完全な人間であるからこそ、努力して完全になってゆかなければならないのだ、という常識的な見解は、どの様な人にとっても大きな違和感はないと思います。
●不完全という誤謬遊び
不完全なものはないということを理解出来るでしょうか。あどけない子供達は不完全でしょうか、知識がないことが不完全で、未完成なのでしょうか。年寄り達は子供達より知識や経験がありますが、それは完全に近づいているという証拠なのでしょうか。身近にいる動物達は不完全なのでしょうか。人間になれない可愛そうな生命なのでしょうか。道端に咲いている黄色や赤の草花は、人間の家の庭に咲いていない哀れな自然種なのでしょうか。太陽は不完全に燃えているのでしょうか。大気は、不満だらけで雨を降らせているのでしょうか。
我々の身の周りにあるもの、そこにあるものが、不完全で、未到達で、未完成であると一体誰がそう思うのでしょうか。世界が苦渋に満ちたもの、常に理想へと改善されるべき未完成のものであると思うのは一体どうしてでしょうか。
●観えるのは自分の投影画
それは、我々自身が我々自身をそう観ているからに他なりません。常に改善されるべきなのは、外の世界ではなく自分自身なのであるということに気づくことが、そんなに大それた事ではないでしょう。我々の外と感じている感覚世界は、我々の鏡と考えて良いでしょう。我々の心持ち次第でどの様にも変る世界であることに気づくべきであると言うことこそ、偉大なる先輩達の繰り返し繰り返し言ってきたことだと思えないでしょうか。
ただ、世界が自分の都合の良いように現象として変るのか?と考えるのは、これまたエゴイスティックなご都合主義でしょう。あなたやわたし達のいわゆるエゴ的な希望をホイホイ叶えてくれるような変わり方ではありません。今までとなんら変らない世界を見る、わたし達の目が変わる事であり、その結果、ビックリするほど様変わりする風景に接する事になるのです。
●世界はすでに理想として在るもの
世界が変ってくれて、そうして我々がそれを享受するのだ・・という他人任せの思考、自立していない依存思考は、それこそが克服すべき事でもあります。非常に微妙なところでありますが、自分が変らなければ決して自分のいる世界は変らないのが真実です。
理想を求めるこころや行為は、それすなわち、理想がいつも求める先のその向こうに、あることを意味します。決して得られない先に・・・。理想は今ここにあるものです。ことさら悩んだり、空想したり、苦しんだりせずとも、今ここにあることが理解出来るでしょうか。我々の生きて在る世界は、そのまま「大いなる存在」の創り続ける世界であり、様々に変化しつづけるかつ完全な世界です。その一部である我々は大いなる存在自身でもあり、そうであればこそ、小我を静めて今在る世界を、そのままに、まともに見ることが出来て初めて、理想を発見することになるのです。
●内と外のパラドクス
この大いなるパラドックスこそ、今の我々の試練とも言うべきものであり、尤もらしい苦労の為の苦労や栄耀栄華は、それ自身そのための試練ではないことを知らせるためのものであるわけです。
今ある現実こそ、我々のもっとも相応しい鏡像であり、そこに悲しみや苦しみ、虚栄や逃避を見るのであれば、我々自身を振り返るべきであることにどうしても気づかざるを得ません。 どうしても最後に残る難題は、自分自身なのでしょう。自分の難題であれば、自分次第でこそ解す事のできる問題ということであり、そんなに難しいものではないのです。
問題を創るのは自分であれば、問題を思い切って創らなくするのも自分であります。問題を創るのが楽しい場合は永遠といえる時間の間、それを作り続けることも出来るし、問題を創らないことも出来るわけです。我々がカルマや因縁などと言っている原因になりそうな、様々な問題・トラブルなどの経験は、大いなる生命の中でのほんの寡少な経験であることは知っておくべきでしょう。
自分が変れば、まさにそれに丁度相応しく周りが変ることが、創造の基本パターンであり、その都度そのままその時の理想でもあると考えるのが、合理的と思えないでしょうか。
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今、不幸だと思っているのならば、今生きて在る、当たり前の幸せを感じましょうか?
幸せは、ハッキリと心の状態以外のなにものでもありませんから。
今、孤独と感じているならば、目の前の大勢の仲間や世界をよく見ましょうか?
皆同じ仲間であり、無限の向こうにいるあなた自身でもありますから。
今、不本意だと感じているならば、目の前の越えるべき教訓を掴みましょうか?
後で振り返ればいつも良かった・と思うのが教訓ですから。
今、不安だと感じているならば、世界が今日も明日もあることに安心しましょうか?
あなたの不安は決して誰かが消し去ってくれることはありませんから。
今、地球が心配ならば、しっかり残されている美しい自然に心から感謝しましょうか?
わたし達の「身体」は、美しい地球の「身体」からの一時期の借り物なのですから。
今、欠乏していると感じているならば、自然にある途方もない豊かさを見ましょうか?
但し、ポケットには入らない多種多様・無限大の豊かさですが。
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「悟り」は今在ることをそのまま受け入れることであり、無軌道な思考や感情の創り出す心の状態でも、巨万の富で安心する状態でもありません。
「今在ること自体が悟り」の境地であることは、言葉では表し様がないかもかも知れません。そのままであり、どうもこうもない?当たり前の、「今」の「瞬間」ということです。無限に在ることができるのは「今」をおいて他に有るでしょうか? いえいえ、とうてい議論の余地などあり得ないでしょう。
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ソー・ビー・イット (ラムサ)
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レット・イット・ビー (ビートルズ)
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わたしを信じてほしい
あるがままのあなたとして在ること、それ以外何も必要ないのだ。
あなたが獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。
それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているようなものだ。
あなたの本質にとって異質なものを除去し、浄化し、放棄することで十分だ。
それ以外の全ては無駄なのだ。 (マハラジ)
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それはまさに、それであり、今、全てが在る。
いつもながら、拙い記事をご覧頂きまして、誠ににありがとうございました。