気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

毎日に感謝です

2007-11-24 20:46:40 | 色々な気付き

ほんとに、本当にありがとうございます。

一緒の世界にいて頂いて、本当にありがとう。

おいちゃん、おばちゃん、じいさん、ばあさん、ありがとう。

反論できるありがたさ。共感できるありがたさ。孤独も経験できるありがたさ。

子供達よありがとう、おかん、おとんありがとう。

地球さん、何万種もの動物さん、鉱物さん、空気さん、植物さん

全てが今の私の中に存在しています。心や肉体にも。全てがつなっがっていることに気がつきました。

今日はこれしかありません。

くどいですが、本当にありがとう。


宇宙設計思想を読む

2007-11-22 22:27:54 | 色々な気付き

我々の毎日の生活環境は誰しも否定などしません。確かに五感を通じて存在していると思っています。いわゆる現実と言われています。物質しか認めない方々もこれは否定し難いはずです。それではどうしてこの現実があるのでしょう。

今の世の中は色々な物で満ちています。自然のものを除けば、すべて人工の加工物です。その加工物は人間が作ったものですね。数年前には存在もしていなかった物がどんどん現れてきます。それらは人間の意識にまず産まれたもので、それらの仕様を決め、設計を行い、製作・施工を行って具体的な物に現します。いきなり物体化はしません。必ず設計が行われます。その後に設計に基づいた製作・現実化が行われます。

そのような我々の現実化の方法すなわち、案、吟味、設計・施工または加工のプロセスは、1つの創造といって良いと思います。何もなかったところから、新しい何かを生み出すために、案や設計を行うのは人間らしいプロセスなのですが、森羅万象、時間の介在形態は異なっても、同じようなプロセスであるとも考えていいでしょう。無からの製作・創造には変わりありません。車メーカーの新車なども、エンジニアの案などが吟味されて、設計を経て工場での生産ラインに乗り、消費者の手元に届くわけです。最初から有るわけではありません。産まれてゆくのです。

我々の存在している宇宙が現実であるならば、やはり何がしかの思案・設計があると考えても全然おかしくないと思えます。それが神の技と考えることもできるでしょう。規模が全く違いますが、何者かが思案・設計プロセスを経て、我々の現実世界、ひいては宇宙も現実になるということが自然な考え方ではないでしょうか。

宇宙にはちゃんとした設計思想があるが故に、現実に存在しています。それらの末永い持続、発展を願うのは、人間の設計者でも同じことです。調和や愛、進化などを盛り込んでいくのはごく当たりまえのことなのです。われわれの気がつく範囲の中で、目で、耳で、鼻で、口で、皮膚で、心で、感情で、意識でもって、その設計思想を観ているのだ・・と思えないでしょうか。

宇宙の設計思想は調和、愛、進化などを元にしているのは疑う余地がないようです。誰しも永遠に続くことを心底願って創造していくものです。原初の1なる創造原因(神)というものであればなおさらのことです。


永遠の奇跡の連続

2007-11-20 21:11:07 | 色々な気付き

私達人間の一番大切なものはなんでしょう。

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タンスにしまっているルビーの指輪ですか。預金通帳ですか。地位と名誉ですか。12000株の株券ですか。

4DKの新築のマイホームですか。10種の国家資格ですか。お隣とのうわべの平穏ですか。

同僚より誉められることですか。昇進してちょっと地位と給料が増えることですか。

TVで無縁の人のギャグを笑うことですか。家族を心配ばかりして怒りまくっていることですか。

頭にスピリチュアル情報をかっ込むことですか。人の弱いところをつかって勧善懲悪をきどることですか。

信念を得たいと思って他人の考えを収大集・コレクトすることですか。

生活大事と、大切な感覚を毎日ゴミ箱にそっと入れ続けることですか。

それともどこかに誰かが隠しているという、海賊キッドの金貨ざくざくのお宝でしょうか。

気がついたら病院に寝ていることですか。

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いいえ違います。あなたも私も、今、ここに生きていることが最も大切でありましょう。息をして感じて考えることが出来ます。一体全体、どうやって、誰がそれをできるのでしょう。

こんな奇跡をどうして忘れられましょう。わけもわからず、うっかり何億回捨ててしまっても、必ずあなたや私に与えてもらえるこの命に、どういう感謝をして良いかわからないほどです。奇跡以外の何ものでもありません。


必然たる地球の存在

2007-11-15 22:04:36 | 色々な気付き

地球に生命が誕生したのは偶然の幸運だといえば、常識として通りますね。簡単に言えば、太陽系第3惑星のちょうどいい軌道にあったがゆえに、大気や地殻や水などを含めて適切な温度が保たれ、生命が育まれることになった・・という事のようです。

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偶然とはどういうことでしょうか。

例えばAさんとBさんが幼なじみであり、東京駅で20年ぶりに出合ったとします。

「やあ、Aさんでないか!いやー偶然だねー」「おっB、おまえ元気していたかー。」等の会話が聞こえてきそうです。20年ぶりなので偶然ということなのでしょう。出会う確率が低いので、それを偶然といってもおかしくないようです。

しかし、AさんとBさんの意志と行動を、朝起きたときから常に見ていた別のCさんがいたとしたら、どうでしょうか。そのCさんがAさん,Bさんを常に観察できる立場にあった場合は、そのCさんはどう言うでしょうか。

Aが朝7時28分に起きて、いつもの様に会社に出向いたが、駅そばを食べたのでいつもより3分改札を通るのが遅くなり8時40分になった。一方Bは久しぶりに用があって、新幹線あさま306号を使って東京に8時35分に着いた。新聞をキヨスクで買ったたため、改札を通るのは8時40分になった。・・・これでA,Bは出会うことになった。別に必然的にそうなっただけである。偶然ではありえない・・・。 Cさんにとっては二人が出会うのは必然であったと報告するでしょう。

どんな現象にも、必ずその原因があるのは、物理世界では特に常識です。偶然なる現象はあり得ないだろうと思われます。要は我々の認識、理解が不足しているだけなのでしょう。AとBの当事者は自分しか見えていないが故に、起きた東京駅での出会いが偶然に見えるのです。Cさんのように、もっと大きな視野や情報があったならば、お互い必然的に出会うのも判っていたはずです。こう考えると、「偶然」とは無知なるが故の、ごく表面的な判断でありそうです。もっと理解や情報が増え、視点が広くなって、自己や周りの現象が理解できるようになると、多くのことが必然的なことと判るはずです。偶然という言葉は、無知を他の何事かのせいにしている都合のいい言葉でありそうです。

地球が偶然に運よく生じた・・というのは、実は我々の無知を言っているだけだと考えて決しておかしくないのです。我々の理解、知識、視点が大きく広くなると、これらは必然的なことになって来るでしょう。例えば、貴方や私が今ここに存在しているのは、何らかの必然、理由があってのことだと考えるべきではないでしょうか。天空遥かに無限に繋がるこの宇宙が偶然のビッグバンで出来た等という考えの何処に正当性があるのでしょう。

目に見える現象を生起させるための元になる原因というものは、まさに眼に見えないからこそ原因といえるのです。エネルギー保存則は物理世界で認められていますが、現象を通じて常に変移してゆくエネルギーそのものは目にも見えなければ、触ることも出来ません。必ず現象でしかおのれを現すことしかできません。

これと同じようなことが、我々の思考、想像力と我々の体験世界があります。目では見えないが、心で見たり感じたりできる、意図や思考、判断などの精神作用が我々の行動や環境を生み出します。歯磨きしようと思わない限り、誰も歯を磨くという体験はしません。寝ようと思わなければ布団に入ることもありません。これらは小さな原因と結果・現象なのですが、あらゆるものにも当てはまるのではないでしょうか。

原因なければ結果なし、真の原因は思考や想像という意識作用である、我思うが故に我あり、とも言われています。あらゆるものの根本原因はきわめてシンプルであると共に、我々のすぐそばにあるようです。それらの認識・見識・知識・経験をすればするほど、偶然などありえないことが判ると思われます。我々の周りに生起する現象は、意識的であればあるほど、あらゆる必然性に気が付いて、その深い意味が理解出来るようになるでしょう。。

地球は必然的に今ここに存在しています。その原因たる大いなる規模の意識作用の賜物です。地球上の変化は地球の意識作用の変化であると考えてもいいのではないでしょうか。地球は生きている意識的存在であり、規模は小さいが同質である人間は、その中で育まれていると言ってもいいでしょう。


重い鎖の切断時期

2007-11-11 18:26:09 | 色々な気付き

食物連鎖とはよく名づけられたものです。食物になる動物は「鎖」で繋がっているとの考えです。個体、生体としての形を維持するために、別の弱小個体を食物とするシステムの考え方です。我々はよほど鎖で繋がれるが好きなのでしょう。

人間も何かを食べて、活動のための燃料や生体素材として使用しています。他の動物が他の小動物を食べるという行為を見て、多くの人間がなにか理不尽さを感じるのは、人間に思考や感情があるからでしょう。せっかく生きている生命を強制的に捕獲し食用としてしまうことに、何がしかの不合理や悲哀を感じてしまうからでしょう。また人間という、他の動植物より高尚と自称している存在も、結局は何かを食べないと生きられない、という動物的な側面を感じてしまいます。

以前の記事のように、植物は太陽エネルギー・水などの要素を結合させ、花や実になったのち、再び大地に落ちることで再生循環によるゆっくりした進化を行っていると考えられますが、その他に、何者かの生体の構成に役立ち、その排泄物や腐食後の大地への循環を経て、ふたたび植物の構成要素に戻ることで分子レベルでの経験をしていることも考えれます。植物の個体が個体独自の感情や思考がないと観察されるのも、その役目を暗に示しているのかもしれません。(実際には人間の想念に敏感に反応する意識もあるのですが、意志を伴った個別の意識レベルではないようです。)

(下記の映像はあるブログからの転載です。ご存知の方もおられるでしょうが。)

命を奪われるときに、感情を表し涙をも流すといわれる牛や豚、それから鶏達を大量に束縛し、四肢をもった個体動物にある自由意志まで奪い、強制的な飼育とを繰り返すのは、どうしても行き過ぎと考えるのはおかしいでしょうか。かわいそうだという感情論よりも、大量に行われる殺生に対する動物の念の方が重大なのです。食べられて人間を祝福する・・などという馬鹿げた考えなどありうるわけもなく、その逆に恨みという念として人類種族に働きかけているのは火を見るよりあきらかです。動物にも親子や種族の感情があるわけで、その恨みの念とその効果を無視することは出来ません。

今は人間の支配層からも地球環境問題がクローズアップされるほどのギリギリの限界に来ています。この飽食と独善にまみれた「鎖」を断ち切るのは今しかありません。自然界にある生体バランスに対して、人間が課した重い鎖を外すのは人間しかありません。今その鎖を外して行かなければ、もうじき鎖につながれている不自由な種族達は次々と消えてゆくでしょう。それしかその鎖から逃れるすべがないと判断した時から。

(特定の生業や生活などに関して批判するつもりなど一切ありません。ただ、我々の生存の元の元を大事にしたいという意見ですので、なにとぞご堪忍、ご理解下されますよう・・・。)