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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

次元上昇と次元降下(1)

2009-11-15 16:42:25 | 宇宙的気付き

精神世界の情報に大なり小なり触れている人々は、アセンションまたは次元上昇という言葉を知っているだろう。

それらの言葉が流布されてきたのはここ数十年以内のことではないだろうか。

それは何なのか、どういうことなのかおぼろげながら理解されている人々もいるだろう。

それが一体何なのかを多少とも理解する為には、今の現状をしっかりと把握しなければならないだろう。即ち外界の状況と、あなたやわたしの内面の状況である。

 

●続いてきた次元上昇の学習場・地球

アセンション、次元上昇等は、ことさらそのような新しい言葉で表わさずとも、今まで様々な宗教や教えなどでも、それは言われ続けてきた。

例えば、人間が成仏すること、昇天すること、あるいは解脱、悟りの境地というような言葉で説かれてきたものは、全て人間の意識の進化または質的転換を示している。

例えばアセンションは「昇天」とも解され、それは「死ぬ」ことではなく、生と死のレベルを抜けることであろう。

いわば、地上界から天界に「戻る」意味であり、単なる死とは異なるのだ。

 

●意識→ エネルギー →物質形態

意識は物質に先立つ根源的な存在であり、決して「死ぬ」ことはない。肉体死は分厚い縫いぐるみを脱ぐようなものであり、中核の魂・意識は不滅である。

これを例えれば、読んでいた本を燃やせばそれは燃えて灰となるが、その中味の記憶は残るようなものであり、また殊更ながら、本の作者自体は無くならないようなものである。

あまりにも本の内容に没入している場合、その本が燃えて灰となったら自分も消えてしまうような錯覚に陥るだろう。

我々は物質的な生と死を超えている存在であるが、あまりにも「生」にこだわるために、その対極の「死」を体験する錯覚に陥るのだ 。

 

魂・意識にとっては生と死は、単に相対的な事象なのだ。

 

●生と死の繰り返しの仕組み

往々にして我々が今までの繰り返しの生において、意識の昇華を果さずに肉体の死を迎えた場合、一気に天界へは戻らないようだ。

この降下次元である物質世界から、死を通じてその魂・意識が離脱した場合、人存在多くは進入する前の本来の高次元と、この物質次元の間にある緩衝次元に留まることを選択しているようだ。

その天界と地上界との間の緩衝次元をいわゆる霊界ともいう。ある存在にとっては休憩場でもあり、またある存在にとっては居眠り場でもあり、修羅場でもある。

即ち、魂・意識がこの地で予定した体験学習は、1回・2回ではクリアーできないことが多いため、何度も地上にリターンバックする為のクッション領域、言われるところの霊界という緩衝層を利用していたのだ。

 

これを天体を周回する衛星のようなものとしても良いかもしれない。地上付近から大気の上空を楕円を描いて周回する飛翔体というイメージもそう外れたものではなさそうだ。

 

一度天体の引力に引かれた場合、それを離脱するエネルギーを獲得しなければその周回軌道から外れることが出来ないようなものだ。我々は天空に飛び去り、そしてまた地上に降りてくるサイクルを行なっているともいえるだろう。

通常は、この生と死、あるいは階層の行き来という、繰り返しサイクルを通して体験と気付きを深めながら、自らの何たるかを思い出す体験学習をしているのだ。

  

●意識の階層構造

我々の地球もロバート・モンローのいうフォーカスレベル、または、多層の存在層で構成されている。物質階層はあくまでも1つのフォーカスレベルにすぎない。今は、多くの人々がその周波数帯に同調・集中しているだけのことである。我々は、今、そうした人々の集まりである人類意識の中にいる。

・・・

それは物質偏重の信念体系というべき、単なる1つの意識階層である。

高次の意識存在レベルから、地上の物質存在レベルの間にも多層の世界があり、狭間にある周波数帯、中間層は古くからは霊界とも言われるが、その霊界も決してアヤフヤな幻想世界ではない。

 

●こころ=意識の同調・変調作用

我々体験学習中の魂・意識は、その時々の我々の意識のコア周波数、別の表現をすれば信念によって、それにふさわしい世界に引かれることになる。

 

生きている間は主に物質層に五感を通して同調しているが、死を通った場合は一番外側の肉体という借りのボディの同調が消滅する為に、肉体を除く意識体のレベルでの同調が行なわれることになる。

 

●睡眠中に行なう意識周波数の変換

あなたも睡眠中に夢の諸フェーズにて、霊界やたまには天界などを訪問しては還って来ているのだが、そのような他世界の知識や好奇心が無い為に、顕在意識のフィルターでいつもふるい落とされている。即ち、表面意識では全くといって良いほど憶えていないのだ。

 

これを例えれば、我々がTV受像機のチャンネル4(例えばこの世界) に同調していることで、その時の地球ドラマを見ているようなものだ。

 

多少ながらも気付き始めた人々にとっても、霊界その他の存在界がいいかげんでアヤフヤのように思えるのは、今見ている・集中しているこの世界の周波数帯から、ある時ほんのちょっとチューニング(同調)が外れてしまうことで、隣接する別の存在界、例えばチャンネル6(霊界)を一瞬の間だけ垣間見ることに原因があるだろう。

充分にその周波数帯に同調できない為、その他の存在世界の知覚情報、映像・音声等に変換された情報等も、極めてノイズだらけのように感じ、映像や音声もかなりボケたものに見えるだろう。

夢の世界というのは、アヤフヤな夢幻の世界と解釈するのもしかたのないことではあるが、夢は内面からの極めて有用な情報と解釈される日も近いに違いない。

 ・・・

問題は我々の顕在意識の気付きのレベルにある。

 

●存在全ては波動である

チャネリングをする人、いたこ、シャーマン、あるいは霊界訪問をしたと称する人々は、まさに意図的また無意識的に、自己の意識周波数ともいえる波動の振動率をシフト・変換した者達といえるだろう。

  

TVやラジオ・携帯電話などを実現する電磁波も周囲の空間に飛び交っているように、どのような周波数帯の波動も、今ここ、同時に存在している。

空は波動の生じることで「空間」となる。今我々の知覚している三次元空間とは、我々の意識の波動で創出されるところの周波数帯域の一定のエリアとも言えるのだ。

  

つまるところ、我々の意識がどの存在周波数帯に同調しているかが、どの世界に存在しているかということを決めている。そう、我々は今しっかりといわゆるこの三次元世界に同調しているだけのこと。

 

我々のこころの働き、即ち想いや感情はその周波数の同調キーである。

  

即ち意識の働きが全てのキーである。

いつも有るのは「今」であり「わたし」であり、その投影たる「世界」なのだ

そう・・・、まさに「今」は、もう眠っていてはいけない時なのだ

  

そう・・・

それも  大笑いして  目覚める時が来ている。

  

 ・・・・・・・・・・・

次元上昇と次元降下(2)へ続く

Chikyu0085

本日も拙い記事をご覧頂きまして誠に有難うございました。


生と死・最後の二面性

2009-11-01 15:30:02 | 宇宙的気付き

●生と死の狭間

我々は今ここに生きている。その連続である我々の人生は、時間にして数十年程度のスパンのなかに現れた偶然の出来事の羅列であると考えている人が多いだろう。お金や物の話は誰にも共通する会話になるが、生とか死とか命とか・・そんな会話がタブーになったような世界に我々はいるようではないか。不思議な感慨があるものだ。

多分我々は、生と死の狭間である人生をそれなりに生きているが、その前と先、例えば生前と死後のことは考えないようにしているように見える。多分、肉体である我々は、死んだら終わり、元も子もない・・と考えているに違いない。

我々は朽ち果てるべき肉体そのものであると考えているからなのだろう。それが大勢の人々の 「意識されざる」 または 「責任回避の」 共通観念といえるものだろう。皆がみなそう思っているだろう?・・ことが真実であるかも?・・という「漠然とした信念」ともいうべきものだろうか。他者が他者の顔色を見つつ、様子をうかがいながら何の結論も得ないままでの、無知の状態での放置といえるかもしれない。

多分、何回も無意識で生まれ来たり、そうしていつの間にかあちらに還る繰り返しをしているのだ。地球という物質レベル波動の濃厚の世界には、本然の自己と、物質レベルの体験フィールドの自己の間に緩衝フィールドである、いわゆる霊界が生成される。我々はその緩衝フィールドを何度も行き来しているのだが、物質の波動に同調するたびに一時我々の真我を忘れることも繰り返している。

 

●集合意識の自己幽閉

地上の我々は、極めて小さい物質感覚の世界、五感の世界に幽閉されている、事すらも気づかない状態ではないのか。何事においても、「もうこれが全てである」と考えることの中にこそ、その幽閉の壁が出来ていることに気づかないものだ。幽閉の門の中で何もわからない者同士、世間という囲いの中で、お互いの顔を眺めているにすぎないのかもしれないのだ。

これが「集合無意識」というべきものだろう。我々は今、その観念のいわば周波数帯域の中にいると言っていい。

我々は社会という外界を生きている、見ていると思っているが、実は本当の外界ではなく、集団の観念、その時々の常識という観念体系の世界に生きているし、それを見ていることに気づくだろうか。その観念体系のなかでの出来事や、あるいは眼に見えない方向付け、刺激によって人生を消費しているのだ。よく例に出される個別別個の不安に満ちたか弱い子羊の群れのようなものだろうか。

誰にもある人生、その時々で生起する想いや感情が、社会の常識というプログラムで規定された範囲の中で歪められていることに気づくだろうか。毎度お馴染みの人の間で生じる歪が、怖くて楽しい人生の続きをもたらしてきたのだ。それをカルマともいうのかも知れない。

●死の恐怖は、即ち生への恐怖

社会の中にある様々な人々の言葉、表現、行動は、いかに権威付けされていようと、いかに尤もらしくアピールしていようと、その刹那の生命をただ享受しながら無意識の状態のままで必死になって生きているということだろう。

我々が生きてある・・という意味を真剣に探求すると、必ず生と死を合わせて理解しなければならなくなる。

特に死という現象の先が五感では見えない為に、それを恐怖として逃避しているに違いない。死は忌み嫌われるものとして、いつもいつも我々の認識の外に排除しているのではないか。

そうして死ぬまで、死を回避することの正当性を主張しながら、刹那の人生を送っている場合が多いのではないだろうか。まさに大きな勘違い・無責任・逃避とも言えるものであり、これが人類の集合意識の共通の根にある観念といえるものだ。そのために様々な努力や軋轢、闘い、支配、反逆などが起きているといってもいいものだ。思い出す努力よりも目先の刺激を楽しんでいることを選択しているようなものだろう。

●自己自身を知る事と真反対の世相

自己のあるがままを観ることが出来ないからこそ、その眼を外に向けて固定してしまうのだろうか。そうして外の世界の他者をいじることで、何事かが為せると信じてしまう段階もあるだろう。しかしながら、その他者依存が嵩じて他者を攻めることになることにもなかなか気づかないのだ。

世界の様々な出来事やニュースや権威からのアナウンスも、全て、現象の扱いに一喜一憂しているだけのことであろう。どこかの権威や大統領やさらには陰謀集団や、あるいは政治家、革命家が、あなたやわたし達の幸せをもたらすわけではないのだ。

内面に湧く想いや感情の中にある久遠の創造性よりも、外の世界にあるわかりやすい物質の操作に夢中になっている幼児達が、今の我々の有態と言えるだろうか。

物質に夢中の間は物質の消滅が怖くてしょうがないのだ。そのような意識の場合は、例えば、死は忌避すべきタブーとなる。

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●物質文明の根元にある死への恐怖

大枠は死ぬのが怖いから様々な生への執着行為が行なわれるのではないだろうか。富の蓄積も、権威の追求も、支配への飽くなき努力も、多くは自己の肉体維持の為にあるといっていいのではないか。

限られた命であるがゆえに、それを必死で確保しようとする行為が、経済の発展であり、富の蓄積であり、人集団の中の有利な地位・権力なのだろうか。

他人の言動に悩み、人間関係に悩むのも、仲間外れや孤独という、自己の生存に適さない状況が起きるかも知れないという恐怖から来るとするならば、それはつまるところ、自己の生命の保身にたいする毀損への恐怖からきているのだ。

解決すべき問題は、他者にあるのではなく、いつも自己にあるのだと気づくだろうか。

●あるがままを忌避すること=怖れ

死からの逃避は、恐怖が故のものであり、その恐怖がゆえにまさに今の生が萎縮したものになっているかもしれない。生を生き切ると称して、無意識レベルで爆走するか、あるいは結局のところ汲汲とする人生ともなる原因は、まさに死への無理解と恐怖があることに気づくだろうか。

逆に言えば、自己本然の生を最大限に生きることができていない・・かも知れない為に、まさにその終局である死を回避している場合もあるだろう。

生も死も相対的なものであり、生への執着も、死の忌避もその何たるかを理解しないままのこころの歪を示すものであろう。

生も死も誰にもどこにもある相対的なものであり、それを体験する我々にとってはあくまでも一時的な現象にすぎないのだ。我々は現象を現すところの「因」たる意識であり魂であるからだ。

今の社会を構成する様々な人達は、生と死をあるがままに理解することで、我々自身の本来の生命に気づくことを怖れているのかも知れない。もう少し無意識の状態で遊びたいということなのだろうか。

ところが、必ずやってくる肉体死の後は肉体を離れた状態での生に直面することになる。

●内(因)から外(現象)へ展開する意識

死を回避し続ける手段として、生存競争や様々な娯楽を提供しているのが現代文明であろうか。支配と支配の軋轢や変遷、権力の華やかな飾り、飽食三昧、性の刺激の過剰発露、感情の冷ややかな爆発とも思える戦争・・・全ては無知なる我々自身が目覚めるまでの体験をするための、ある意味での時間稼ぎのようなものかも知れない。

外の世界の誰かが何か良き事をするのを待ちわびるような幼児(おさなご)のこころは、最後のダマシに遭遇することになるだろう。それもこれも、生きて、そして死を通過するのはいつも各自であり、また生きている間に目覚めるのも、いつも自分自身であることがわかるまでのことだ。

そのための繰り返しが飽きるまで行なわれてきたのかもしれない。あなたはもう思い出せるだろうか。

●不滅のものを推し量る

肉体の生成・消滅は、物質組成の様々な変化の一環であるが、その背後にあるエネルギーの不滅は理解出来るかも知れない。物質の様々な運動・変化の背後にある目に見えないエネルギーというものは、既にエネルギー保存則として理解されている。結果である運動・変化の因としてのエネルギーは物理科学でも常識とされている。エネルギーは様々な運動・振動系において、様々な単位として表されているが、その様々な形態変換を通じて存在するものがエネルギーなのだ。

これは生命という形態変化の因としての意識の根本作用に気づく隠喩としては妥当と考えられる。

エネルギーの意識化されたものが情報であり、情報は記憶という形で保存される。物質レベル以上の存在である、あなたやわたし達の魂なるものは、不滅の記憶庫ともいえるかも知れない。意識が体験すること、即ち、想いや感情、経験は、消えない記憶として保存されている。

●降りてきている「蜘蛛」の糸

更には、昨今増えてきた汎世界の情報、多次元宇宙のチャネリング情報、モンローのフォーカスレベルの仕組み、古くはスエーデンボルグの霊界情報、相当に変質された感もあるが釈迦やイエスの言葉なども我々の生命の不滅を説いている。

それらの様々な情報の中にもある、変質されたものや真正なものをより分け掻き分け抽出し、内面の感性を信じながら自己認識に至り、自己の中にある無限の命を再認識すべき時に来ているのだ。

我々は今まで回避してきた全ての相対的な有様を、セットとして統合する過程にある。光と影、男と女、善と悪、そして生と死・・・それらを有るがままに観る必要があるのだ。どれか、何かを忌み嫌い、忌避することはいつまでもその影に怯え続けることになる。

 

生・それもあり、死・あれもあり、それらは単に我々の体験としてある。

  

様々な体験に対する想いや感情は、真我なるわたしやあなた達自身の豊かさを証明し続けるところの朋である。我々の想いの中にこそ本来自然の有り方に帰還する蜘蛛の糸があるのだ。想いを広げ、理解を広げることが今必要な行為なのだ。

●今は古い地球興行舞台の幕引き時期

他者に遊ばれ、小突かれ、また小突き返し、感情逆立て、復讐して喚くような演技はもうこの地では出来なくなるだろう。それも貴重な体験であるが、この地球生命圏はそれらの体験を充分演じきったようである。

例えれば、舞台の興行主が地球意識生命体とするならば、その興行内容は更に感動深いものにするべく次なる努力をするのは当たり前のことなのだ。どんな舞台もパフォーマンスも、その時々のテーマを元にした、始まりと終わりがあるものだからだ。もうこの愛すべき舞台を刻んだり破壊したりする演技は出来なくなるだろう。

次なるこの地球という舞台では、新たな感動と愛をこれでもかというくらいに創造してゆくことになるだろう。ある意味では、これでもか・・という悲しみのお陰でもあるのだ。

愛という言葉がいつも誤解と手垢にまみれていた地球の舞台は終わり、愛と理解、それが当たり前のこと、本然であることがわかるような舞台が演じられることになるだろう。考えてみればこれは自然の成り行きかもしれない。

●統合とは、ありのままを観ること

今我々は、生と死も統合しなければならない時期にあるようだ。

生と死も相対的な現象であり、我々はその相対的な現象そのものではなく、それらを体験する側の存在なのだ。様々な生と死を通じて命を展開してゆくことが、我々の歩いている道といえるだろう。

地球生命圏は物質レベルの形態変化を特徴とする生命フィールドであろう。素材としての物質形態が大自然を代表とするごとく様々に生じるところであり、そのため、我々を含む全ての意識の個性ある発現がわかり易く学べるようになっているのかも知れない。

生と死は意識的存在である人間の最も根本的なテーマであり、古来から伝えられて来たところの「悟り」や「解脱」は、その生と死をそのままに意識的に受け入れるということなのだ。とんでもない大革命を闘うことでも、肉体の変態を行うことでも、多次元世界に消え去ることでもない。

今あるわたしの有り方をあるがままに受け入れるということなのだ。あれがダメ、これが不足というこころではなく、全てがまさにあるがままであり、様々な変化と進化が行なわれている普段の創造に気づくということなのだ。

そうすれば否応も無く、変化と進化を体現している大きなわたしに戻ることになるのだ。執着を放すことは、物質レベルの現象に意識を没入している限りは、確かに難しいといえるだろうが、意識的に執着を手放す行為を通じてこそ、わたしという意識の焦点の転換と拡大・帰還が起きることに気づくだろう。

●放てば手に満てり

いつかまさかの天変地異や大変動等によって否応なく気づかされるよりは、勇気と潔さをもって、様々な執着をその手から開放するべきだろう。

その手放すべきものとは、子供の頃にはなかったはずの「執着」だけなのだ。今、子供の頃の無意識な純粋さをこそ、意識的に再び取り戻す時ではないのか。

様々な繰り返しの人生体験を経た後には、自らで再び純粋なこころを創りあげる意識的行為によってこそ、その大輪を咲かせることになるだろう。地球という生存圏が提供してくれた人類の幼年期の終わりを記念する大輪の花である。またそれは当たり前のあるがままへの帰還でもある。

これは「解脱」といわれる、今の在るがままを「意識的に」認める行為と言えよう。そこには困難や不満や不足があろうはずもなく、ただ感謝があるのみである。

この「地球」の特徴の1つは、人間という、ゼロから目覚める体験をあえて求めて降下してきた、無数の意識存在を受け入れ続けてきたところの、辛抱強い「愛」である。

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本日も、いつもながらの拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


万象一体

2009-10-25 13:26:42 | 宇宙的気付き

●個我の「わたし」という認識

我々はそれぞれの別個の肉体という独立した単位をもっているように見える。肉体の外との境界は我々の皮膚と思っているに違いない。皮膚付近にある視覚、臭覚、味覚、音覚、触覚は外界の情報源の窓という役割をもっていると捉えているだろう。

我々の存在感覚の中心が顔、頭の周囲にあるという漠然とした感覚は、その五感の窓口が頭部に集中しているからに他ならない。特に視覚と音覚は支配的な感覚である。

●五感は意識の体験の窓

その五感の情報は体内の細胞、神経伝達などの情報伝達ルートを通じて、脳に集められそこで情報処理をされたうえで、映像、臭い、味、音、触感という、いわば味のある立体的な存在感覚を生じさせるのだ。家に居ても町を歩いても、様々な映像や音、振動等を常に内面に取り込むことで、その時々の外の世界にいるように知覚している。

多かれ少なかれ、我々が今生きているという「感じ」は、このような体内の五感情報による実感を基にしているのだ。それらの情報が、今我々が認識しているような3次元的な世界を映し出すのであるが、それらの外界からと見える様々な五感の情報は、全て波動・振動なのである。視野を創るのは光・電磁波であり、音や味や臭いは空気と細胞や物質の電気的、物質的振動波の伝達といえるだろう。触感は人体周囲すべてに存在する同じく振動波の窓口といえるものだ。

●物質も波動である

原子核は素粒子という微細なもので出来ており、更に微細なクオークに分割され、その素粒子レベルの物質は粒子という塊の性質よりは波として波動の性質をもっている。波動の塊が粒子と観測されるとも考えられており、基本は全て波動・振動であるということだろう。物質科学の先端といわれる「ヒモ理論」は、物質は全て微細な「ひも状」の何かが振動して出来ていると考える理論である。その「何か」とはエネルギーとも考えられる。それらはまさに弦の振動を彷彿とさせるものだ。

我々が生きていると認識しているこの世界は、結局は波動によって構成されているのだ。我々の認識する限りの種類の波動の間の共鳴、伝播、干渉等で出来上がっていると言っていいだろう。物質が硬いものだと感じるのは、その波動の塊どうしの振動数の違いと考えていい。扇風機のような高速回転(振動)しているものに手を差し出せば、その振動数の違いで弾かれてしまう。弾かれることは、反撥されることであり、そこに硬いものがあると感じることと同じである。みかんを手にしてそれに物質感をもつのは、組成の違いとか、質量があるとかいう説明よりも、その振動数による違いによる周波数ギャップとも言えるだろう。

●世界は波動・ホログラム

突き詰めて考えれば、我々が外界と感じている世界は無限ともいえる種類の波動の様々な周波数の違いで構成されているといえるのだ。外界の中にいると思っている、我々の表現形である肉体も、同じく物質とするならば、それもすべからく「波動」で出来ていることには違いはない。やわらかい、透明、硬質、不透明等というのも全て波動の振動数または粗密の違いにすぎないと考えていいだろう。

●三次元世界

我々の住むと感じている世界は、光・電磁波でその境界を創っているようだ。物質は光速の速度の限界を超えられないと言う相対性理論でその境界が生じるのだ。相対性理論では我々の認識する物質世界は「光」の速さを超えられないとされている。光が四方八方に伝播することで現れる世界は3次元的な立体的な視覚認識をもたらす。

我々の認識する世界を構成する「物質」が、究極は色々な周波数をもつ電磁エネルギーの塊であるとすれば、なるほど光(電磁波)は超えられないのは自明だろう。物質は元は光であり、光の振動数を様々な周波数に分かち、またその速度を落としている、または存在次元を降下させていると言う表現は、あながちいい加減な表現ではないだろう。

宇宙の辺境といわれる何十億光年先の銀河の映像も、五感情報の辺境といわれるものであり、その先には宇宙の存在は規定できないものと理解されている。見えないのだから確かにどうしようもない。これはいわば「肉眼」の限界なのである。光の速度の向こうまでは、我々の肉眼は追いつかないということだ。ハッブル望遠鏡は我々の肉眼の延長なのだ。

●三(四)次元を超えつつある今 

ところが、昨今の素粒子の研究では素粒子の情報自体が、光速度を超えて伝播することがわかったようだ。簡単にいえば、素粒子の磁気スピン(回転)情報が、別の場所にある同じような素粒子の磁気スピン情報(回転)に、ほぼ瞬時に影響を伝達するというものだ。物質を構成する素粒子の磁気的回転(磁気モーメント)は、真空に渦を生起させると考えられ、その渦同士は相互作用を行なうという風にも考えられている。その相互作用の速度は光速の比ではなく、その10億倍という試算もあるようだ。ほぼ瞬時ともいえる相互作用である。

これらを説明する為には、何もないと思われていた「空・間」自体がその波動を生み出すと考えるしかないようだ。空間は空っぽどころか、光を含むあらゆる波動を生じせしめる母体そのものなのである。そう考えれば、遥か彼方の空間も、我々を取り巻く空間も全く同じ母体であることが理解出来るだろう。どこか遠くも、今ここも、空間であっては同質であり、遠い・近いは空間にとっては一所であるということだ。空(間)の変調波動が様々な物質形態を生ぜしめ、またその様々な形態は全てとの相互作用を維持しているといえるだろう。

まさに「色(現象)即是空」 「空即是色」なのである。

●肉体は万物と水面下でつながっている

我々という存在は、肉眼視できる範囲の波動の調和的な塊である「肉体」をもっている、あるいはその中にいる・・という風に理解しているに違いない。誰でも理解出来るところの肉体という個別の表現形態も、個別、別個と考えているが、実のところ、それは氷山の一角を観るごときものである。我々の信奉する物質自体も、我々の固定観念の水面下では瞬時の相互作用を行なっているごとく、全ては全てにつながっているのだ。

全てが個別でありながら、全てとつながっている認識を持つことで、否応となく現れる世界に気づくだろうか。ウソも隠しもだましも、それはつまらない子供だましと認識する世界である。

個別、分裂、二元性の観念世界から、全包容的な世界への認識の変換が意識の統合である。何をどう認識するのかどういう世界に顕現しているのか、全ては個々の気づきと意識の拡大に因っている。

●意識が「空」で紡ぎだす万象世界

万物全ては、どこにもある「空」から波動として紡ぎだされるものであり、その画き手は他ならぬ「意識」である。「意識」は物質を紡ぐ者であり、当然ながら物質形態をその内部に含む存在であり、また物質形態を含むあらゆるものを創造するものである。あなたやわたし達にある「意識」は、すなわち人間で言えば個性ある「こころ」のはたらきは、万象を現すところの根源たる「意識」と同質であり、その一部であり、またその一部であるあなたやわたし達という存在もホログラムのごとく、個別一片でありながら全体をも畳み込んでいる者である。

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我々のこころは、全存在としては、全てに筒抜けでありながら「遍満する意識」は非難も中傷もしない。なぜなら、それらは様々な未知なるものから既知なるものへの探求過程から掘り出されるものだからだ。人間社会にあっては善悪、上下という価値観で色づけされる様々な体験も、すべからく「意識」の発見・創造した貴重な経験といえるのだ。

しかしながら何でも有りの混乱した草原から、それらを一大花畑に昇華する方向に進化・拡大してゆくのが人間という意識存在の歩く道であろう。今までの人類の様々な悲哀や喜び、光と影は、決して無駄にはならないのだ。遊びほうけることも、汚すことも、壊すことも、淋しい想いも、そして勇気ある行動も、全ては同質であり、それもこれも様々な知識や体験を生じせしめるところの「未知」のおかげであろうか。なるほどそのとおり、我々は「未知」への探求者なのかも知れない。

●愛とは全てを大切に想うこころ

何世、何生を経ても、いつも今あることに気づくことに、感謝する以外にどのようなことがあるのか?いつも万物の慈愛は注がれ、御膳立てはいつも整っているのだ。幸せも不幸も今、選択するのは自分であることに気づくならば、それに感謝しかないと思えないだろうか。

素粒子の振舞でも解るように、万物は万物と相互に繋がっている。人間的な言葉で言えば相互が相互に「大切に思っている」といえるだろう。

大切に思うこころは「愛」 ともいわれる。

その「愛」が現れたものが今の我々の「宇宙」なのだ。 

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 本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。

 


時(とき)の戯れ

2009-10-03 15:18:26 | 宇宙的気付き

●空(くう)は無限そのもの

我々は無限の可能性を包含する「空」(くう)の中から、無限にある「未知」(みち)に対して自らを投影する存在である。

「空」(くう)は何もないのではなく、すべての可能性があるがゆえに「空」(くう)である。

「空」(くう)はすべてを満たすがゆえに、まさに「空」(くう)であり続ける。

なぜなら、現れたものはすでに「既知」であるからだ。

空(くう)にこそ未知が溢れているのだ。

それをワクワク、ドキドキしながら知り続けることが体験の喜びなのだ。

 

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●創造の瞬間

その「空」に、いつか、「わたし」という意識が「揺らぎ」となって生じ、それが分極しつつ中心から外へと多次元的に回転渦を巻きながら、その存在の証である、光といわれる波動を発散した。

その揺らぎは「空」におけるイレギュラーポイントであり、また宇宙自らの目覚めである。

一点から生じた「光」とも形容されるべき、「わたし」という意識の存在波動は、その渦とも形容される回転により、空間とエネルギーを創り出す。 

この次元宇宙にも、自らを観る為の、原初の光がすべてに行き渡っているのは当然のことである。

発散する光の届く、無限の彼方を想像しているものがすなわち宇宙である。それに終わりの概念はない。まさにハッブルの言うとおりだ。

自らの無限のあり方を、部分から全体に成長しながら観続けている存在、それを生命(いのち)という。

まさにこの宇宙にも、この地上にも生命(いのち)が満ちている。

  

●わたしたちは無限にいる

「空」より、光・波動として現われ続けるエネルギーは、幾何学的なパターンをも包含しつつ、その宇宙全体意識の「気づき」により、存在時空という諸世界及び、様々な階層レベルを構成している。

「わたし」というものに気づいた根源なる一点、一なるものは、その自らの様々なありさまを観るべく、ここ、かしこ、すべての一点において出現している。

それを魂という。思い描く限りに無限な数の個別の、根源からの湧き出し点である。

  

その無数の魂たちの光の投影が、存在諸世界に展開する、我々という個別の人格なのだ。

  

魂は光の束の中心とも言えるし、分光する光のスペクトルの扇の要とも言えるかも知れない。今の我々個人個人という狭い顕在意識の有り方は、その光のスペクトルの一端を現しているのだ。

我々は皆、分け御霊ということである。

ある意味で人間は神であると言うことであり、無限の可能性を持つ存在であるということである。

  

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●目覚めはいつも今の瞬間だ

諸現象の変化のテンポ、それらの相対的な違いの尺度がまさに「時間」であろう。

神なる根源の目覚めの瞬間は、100億年の「過去」でも、そのうちいつかの「未来」でもない。

  

それはたった「今」なのだ。

  

今のこの瞬間が、目覚めの奇跡であるためにこそ、永遠なる変化がある。

宇宙開闢は、いつも「今という瞬間」の出来事であり、その「今」が無限に変化しているのを「時」とともに観ているのが我々なのだ。

捕らえようとして決して出来ない、その「今」という時、この瞬間。

その今という奇跡の瞬間をどう捉えることができるのか、その気づきの足りなさを補うためにこそ、進化の道、「時」という友がいてくれるのだ。時間を使って待っていてくれるのだ。

 

●地球という、かけがえのない時空

我々は須らく、無限という「空」の中からこの地球という存在フィールドに己を投影している存在である。

その投影先のここでの約束事は、有限の直線的な「時間」という自ら設定したパッケージを持っていることである。

また自らの真正なる存在、空(くう)なる無限の存在であることを思い出すまで、有限な「時間」というパッケージを使うことが許されている。

地球という愛すべき時空舞台の、上演時間も終了時間も、不思議なことに自らが決めることが出来るわけだ。

 

しかしながら、我々の投影先である地球という時空舞台も、我々と同じく命(いのち)であり、その自らの一段の開花を、今待望していることに気づくべきなのではないか。

根源からの光である我々という魂の、様々な演技や遊びをを受け入れてくれた、この母なる地球を援けてあげる時なのだ

それには、何をどうこうする必要もない。本来、お金も組織も運動も必要はないのだ。難しげな枝葉理論や複雑な人為システムというおもちゃの類はもう手放す時だろう。

出来得れば、今ここにいる全ての人々が、この大地に向かって、各自各自、こころからの感謝をするだけでも良い。

それが出来れば、あっという間に人類の総合的なベクトルの向きが上昇・拡大に変わるのだ。

因は意識にある。

たとえ、今という瞬間にそれが出来なくても、時間という友を道連れにしながら間違いなく変わってゆくのだ。時間の唯一の楽しみとは、待つことだから。

 

母なる大地よ・・ありがとう

無数の、この地のいのちよ、ともにいてくれて・・ありがとう

多くの人が、いてくれて、・・ありがとう

人生という、甘さや苦さを体験させてくれて、・・ありがとう

・・

わたし自身に・・こころからありがとう

子供達よ・・ありがとう

 そして、お父さん、お母さん・・・

   本当に・・ありがとう

  

Flower1001

本日も、拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。

 


原初の光

2009-09-19 19:38:23 | 宇宙的気付き

●第一義的原因 「私は有る」

我々の生きてある時空、また遥かに思い描くことが出来るこの悠久の可能性の世界のなかには第一義的なことがある。

それは何だろうか。

それは宇宙開闢の原初の「意志」であり「意図」ではないのか。宇宙を現し続けるものが、最初の最初に決めたことは、いつもあなたやわたし達の中に在る意図であろう。

それは、・・「今有る」という気づきを通して、目覚めることなのだ。それに終わりなどないところの、その者である「あなた」に今気づけるだろうか。

森羅万象、あるいは宇宙という、この創造の只中で、我々が「今」「ここ」に有るということは、我々自身が、全ての元の元の源泉であるところの、根源の意図を保持しているということに違いないとは思えないだろうか。

原因なくして結果はない。

原因と結果の法則は誰しも理解可能だろうか。 例えば、物体の作用とその反作用でもあり、観察している意識と物質を構成する素粒子、量子との関係でもあり、また人間それぞれのこころのパターンとその反映である経験・体験との因果関係でもあり、様々な生命と生命との生態系での共存関係・因果関係でもあるだろう。

第一義の意図・因が、いつも「今有る」がゆえにこそ、我々を含んだ大勢の命の「今」がある。

「私はある」という、その第一義的ともいうべき「意図」こそ、瞬間・瞬間に生まれ続けている様々な世界、時空・諸現象の元の元の因であるのだ。それを古来から直感的に言い表そうとしてきたのが、創造主・神・仏などという概念だろうか。

「わたし」が今有るからこそ、「わたし」の周りの世界がある。 同じく、「神仏」の根源の意図という因が今有るからこそ、「神なる仏なる」世界が展開している。

我々を含むあらゆる意識ある存在は、悠久無限という全体の中での「個別の創造」を受け持っている「部分」である、と同時に「全体」でもあるのだ。

これはフラクタル、ホログラフという昨今の科学的な概念からも容易にうかがうことが出来るのだ。

   

●光による世界創造

一なる根源から発せられる、無限」に変化する波動のことを「光」といって良いだろう。我々は、根源から発せられる「光」であるという直感は、まさにそのような意味なのだ。

その自在なる「光」、すなわち「無限に変化する波動」が、命としてあらゆるところに伝播しているのは、その波動を伝播せしめている母なる「無限なる意識」ともいうべき下地があるからこそだろう。そのような、どのような波動も現すことのできる下地の意識、バックグラウンドの意識を「宇宙意識」と呼んでいるのかもしれない。

我々の個々の意識、すなわち各人個別の想念、感情、または身体的な表現は、その宇宙遍満意識という波動の、いわば変調されたものと言えるだろう。

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光あれ」・・

それは、無限なる己を観ようとする為の、切なる、最初の発意・意図であり、無限そのものである自己を観想するための波動を発したことであるとも言えるのだ。あなたは思い出せるだろうか。

光の生じた瞬間、・・・・それを、創造の瞬間というならば、その時というのは、想定されるビッグバンの130億年前の過去ではなく、常に、今の瞬間である。

確かに、「生命」を言葉で言えばまさに「光」なのだ。様々な位相と様々な振動率を無限に有する波動すなわち無限「光」が、我々であるといえる。

個々の「魂」というのは、その様々な相を通じて無限を現し続けるところの、根源意識から発せられる「スペクトラム」といえるかもしれない。

個々の魂は、虹のスペクトルのように、個別化されて見えるが、その振動率と位相の異なるだけの、「一なるもの」の様々な派生・表現形態と言って良いだろう。

 

●ホログラム宇宙

「わたし」「あなた」も、そして「神・仏」も、その有り方は同質である。 それはまさに、「天にあることは地にもある」ということであり、相似象ともいえるだろうか。

それはまさにホログラムであり、またフラクタル構造でもある。

世界の片隅にある微小なものにも、完全なる全体が畳み込まれているのだ。

一なる根源の意図は、あなたや私たちや、木々や、鉱物や、動物や、我々の生存できる世界を提供し続ける、この地球という生命圏にも畳み込まれている。身体の細胞の1つにも、石ころの分子にもそれが畳み込まれている。

どんな物にも、それぞれの意識、意図を通して、様々なスペクトラムが現れている。それぞれが、完全に異なる位相や振動率を現しているが故に、まさに無限に個別で、完全にユニークな個々に満ちている。

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●創造は内から外へ

この現前する宇宙自体、誰か、自分とは異なる不特定多数の神々が創ったものだという感覚があるのならば、それは御門違いというものではないのか。

なぜなら、そこにあくまでも「外の他者」を想定しているからだ。

神や仏と自分を分離しているということが、深遠で遠慮深いと自負するようなある意味での欺瞞は、もうすでに過去のものではないのか。

外に想定する「神」は、実は自己の内面の光によって投影されるものであり、その投影されるものに媚びへつらい、はたまた自縄自縛することは、まさに自分で自分の籠に閉じこもるような行為でもあったのだろう。

閉じられた時空、それが地球という生命圏の有する特色の1つでもあったともいえるのだが、実のところ、無限に優しい本来の神なるものは、あなたの中で、黙って苦笑いしているのかも知れない。

創造主は内に在り、また、それゆえにこそあらゆる被造物を外に観るというのが真相だろう。我々はその共同参加者であるということに、今はもう気づくべきかもしれない。

」なるものであればこそ、無限の「」を現すことができる。我々は、無限の「」の中の「」つであり、その中には「無限」が息づいているのだ。

我々は孤独で淋しいどころの話ではない。

存在諸世界を通して、多くのわたし達が「今」有るように、ここにも、どこにも命が有るように、無限の向こうといえども、微細なミクロの世界といえども、まさに、どこにでも命が溢れているのがホログラフィックな宇宙なのだ。

今までの我々の意識は、一時ながら、本来の自己である全体を忘れてしまい、個別・個別の分離されたほんの先端の有り方だけを信じてきたのかもしれない。

例えれば、海に浮かんだ島を見て、海の底では全ての島がつながっているということをに気づかなかっただけのことだろう。幾星霜の苦渋と喜びも、まさに放蕩息子だけが味わうことが出来る、かけがえの無い、感謝すべき体験に違いない。

そうはいっても、無限という中に生かされていることを忘れてはいけないと思うのだ。そして、その無限の海から命の水を汲み出し、花を咲かせるのはいつも自分であり、「今有る」わたし達なのだ。

無限という可能性、そしてあなたと寸分違う事の無い、愛ともいわれる数多の命の輝きに、もう既に気づいたのだろうか。

 

●「部分」は即ち「全体」である

 

我々は創造の只中にいるのであり、

その只中にいる者はまさに創造主の一部でもある。

宇宙の、あるいは多次元とも言える存在諸世界の、

どこの一部分であろうと、その部分にも全体が畳み込まれている。

その部分部分に、全体が畳み込まれているのがまさにホログラムである。

意識的にどれだけ気づけるかどうか、ただそれだけの違いなのだ。

その気づきと理解の段階が、

いわゆる進化といわれるパフォーマンスなのかも知れない。

あなたや私たちも、皆々分け御霊、

個別・別個でありながらも、且つ、全体と完全につながっている。

全一とは、一なるものから溢れ出た無限という、あらゆる多様性のことであり、

それは、今ここにいる我々と我々をとりまく愛に溢れた世界のことなのだ。

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠にありがとうございました。