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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の拡大プロセス (1)黙示録の時代

2010-05-30 14:44:07 | 宇宙的気付き

●地球舞台はもう転回中か

「転回」とは舞台用語で、幕から幕への移り変わりのことを言い、その短い転回の間に舞台設定の変更作業が大急ぎで行なわれる。お芝居を見られた方ならばお分かりのように、いわゆるお芝居とお芝居の切り替わりのことである。

いま地球の舞台も風雲急を告げているらしいことは、感の優れた人や情報に敏感な人ならば良くお分かりだろうか。一般的な科学レベルでも、地球の温暖化の流布や、逆に氷河期への移行への議論など、一大変化の可能性が喧伝される時代はそうそうめったにないだろう。

人類集合意識の無意識レベルでも、何かがありそうな気配に気づきだしているのではないだろうか。俗に言う2012年とは単にその象徴でもあろう。

●エネルギーがここかしこで増大している状況 

地球温暖化の概念の流布も、生態系への異変の情報も、太陽の活動のイレギュラーな観測報告も、あるいはまた、物資の加工、流通によって付加価値を生み出してきた資本主義の申し子である、金融資本の昨今の激しい立ち回りも、明らかに何か大きな飽和点あるいは変曲点に来ているような兆しを示している。

あらゆる現象が波動的に表せるならば、あらゆる現象においてインパルス状の急激な変化率の増大を示している。

例えば、数百年のスパン軸における人工の増大曲線のカーブ、昨今の金融負債の何かあきらめたような落ち込み曲線、インターネットでの情報量の飛躍的増大、・・調べてみるとわかるが、異常気象なども含め、人為的なものとその関連する自然現象の変化率も、21世紀において指数関数的に増大しているのだ。

あるいはまた地球外からとしか考えられないアクセス、1つにはチャネリングと称する情報伝達や、地球時空内での明らかな未知なる飛翔物体の頻出も急激に増加している。例えばそれらの宇宙情報の殆んどは、地球の変容に関する警告や対処に関するメッセージを告げている。なるほど、確かに我々は、今ようやく我々自身の住まう地球の異変に気付きだしている段階でもあるのだ。

様々な情報の中には、往々にしてウソや勘違いや希望的観測等も含まれるものだが、今の人間の知覚レベルや意識レベルでは当然ありがちなことでもある。しかしながら、それを理解不能として、全てインチキとする刷り込みや誤解だけは避ける必要があるのだ。

確かに、もう今の状況では、「あー知らなかった・・」ではすまない状況になっているのかもしれない。今までとは違うような感じもしないでもないではないか。

地球規模の異変の兆しの殆んどは、人類の生態系への無知と、扱う物質の循環の稚拙さと、物質エネルギーの危険な使い方に関連した現象であり、ことここに及んでの危機的状況は、それ以上はやってはいけない段階?になってきたからなのではないかと思われる。

この人類の諸行の観点から言っても、今は既に、物質次元的なレベル、いわゆる三次元的な有り方における飽和点、限界点に立ち至ったとも考えられるのだ。

この段階での飽和点、すなわち我々人類の今までの舞台劇の幕がそろそろ下ろされる段階まで物語が進んだと見るべきだろうか。

昨今流行の陰謀論の影の当事者達や、いわゆる見えない支配層もそのことを知っているだろう。なぜなら皆、同じ船、あるいは同じ舞台の役者達には違いがないし、その情報量は我々よりも遥かに多いと推察されるからだ。

人類は、自らの拠って立つところの主役である物質を構成する局限の素粒子を分解するところまで至り、もしその素材自体を破壊してしまう行為においては、連鎖反応に代表されるような、この次元における連続的な崩壊も予測され、その物質で出来上がった世界自体がまさに壊れてしまうことにもなるかもしれないのだ。

今世界において核の話が飛び交っている状況は、国や政治の駆け引きのごときものではなく、世界の屋台骨を知らず知らず脅かしている、極めて危険な状況を示しているのだ。

この地球上の各所に何万年たっても消えない放射性の猛毒が、後生大事に蓄えられているのは、単にお話しではなくまさしく事実なのである。

これ以上は、多分興ざめでもあり、冗談的に言ってしまえば、もし仮に宇宙演劇を主催する宇宙興行主がいるとするならば、「あんたらやりすぎだよ・・ねー、またー?ちょっとやめてくれない」 という状況なのかも知れない。(笑)

核を誤って使い、せっかくの舞台が台無しになったことは、地球上で過去何回もあるようであり、それがいつもそのときの文明の幕引きの合図であったようだ。モヘンジョダロやハラッパの遺跡は、直ぐ前の文明の終わりにあった核戦争の記憶だともいわれている。

確かに、次元降下の極まった物質偏重文明の終焉は、物質の崩壊でしか起きないのかもしれない。

しかしながら、今回の飽和点は、長いスパンで行なわれた次元降下の過程にあるものではなく、それが反転したともいえる、いわゆる次元上昇の端緒にある時期ともいわれており、そうであれば今までとはその方向が異なると言えるだろう。爆発して終わり・・のようなストーリーはどうも無いようである。

 

●変化への胎動は常に内にあり

「今は大変動の時」などという認識はどの時代にもあったわけであり、確かにいつの世にも現状への嫌気と、より良い未来への願望は絶えたことがないのも事実である。

過去でも世紀末においては、特に終末思想を含んでいるキリスト教等に関わる文化、文明においては、黙示録的な世界の終わりを言われて怖れたり、また逆に待望したりということがあったようだ。

ヨハネが記したといわれる「黙示録」には、世界の終末のプロセスが大体7段階の形式で書かれているようだ。黙示録はいわゆる預言書とも言われている。

この預言書に書かれている内容自体が天と地を揺さぶるような内容であるために、世界の終わりであると解釈しがちであるが、しかしながら、実はそうではないのだ。 「そうして地球は無くなる。・・」等とは何処にも書かれていないのだ。

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Wikipedia より一部引用。

  1. 七人の天使が神の怒りの満ちた七つの鉢を受け取る(15:1-8) 神の怒りを地にぶちまける(16:1)
  2. 第一の鉢:獣のしるしを付ける者、獣の像を拝む者に悪性のはれ物ができる(16:2)
  3. 第二の鉢:海が死人の血のようになって海の生物がみんな死ぬ(16:3)
  4. 第三の鉢:水が血に変わる(16:4-7)
  5. 第四の鉢:人間が太陽の火で焼かれる。それでも神を冒涜し、悔い改めない(16:8-9)
  6. 第五の鉢:獣の国が闇におおわれる。激しい苦痛(16:10-11)
  7. 第六の鉢:しるしを行う3匹の悪霊、ハルマゲドンに王を集める(16:12-16)
  8. 第七の鉢:大地震 島も山も消える(16:17-21) 

なんだかおどろおどろしい言葉で書かれているようだが、宗教的な独特の一種の悔い改めへの、どこかおどしのようなものを含むと考えてもいいかもしれない。

文字通りに解釈すれば、人類の冒涜が最高潮に達し、環境異変があちこちで起こり、ハルマゲドンに象徴される大戦争の後に、地球が様変わりする・・となるらしい。

・・・・・

●手垢のついた道しるべ

黙示録も人類意識上の大きな変化のプロセスを記したもののようであり、ただその変化の内容が宗教がかって極端な分だけ、人間の恐怖も付随してくるだけのことである。

古代からの書は、長い年月を経て人の手で解釈変換された部分もあろうし、どうしてもそれを引き継ぎ伝承する人々、特定の民族・宗教的な観念で色づけされることにもなる。

例えば、連想ゲームで人づてに伝わった言葉が、場合によってとんでもない言葉に変わってしまう事もあるように、どんな観念も変質してゆくことはあるものなのだ。

黙示録に書かれた7つのプロセスは、多分に、舞台で言うところの「転回」のことを言っているに違いない。地球惑星生命圏の一大変容のことである。

世界は終るのではなく、ここにきて大きな変化をするということであろう。

 

●道標も誤解される時がある

ある意味で、三次元的な意識存在の住まう惑星文明が変化をするときには、往々にしてこのようなプロセスがあるものだ、ということを記したものだと思われる。

古くからある、良くあるルートの1つの道しるべのようなものだろうか。「この先崖あり・・注意!」 のようなものかも知れない。あえて注意を喚起しているにもかかわらず、「崖から落ちるようになっているのだ・・ああ」などと思うとすれば、そこには何か相当な無理があるのだ。

それは、多分に個人、宗教、民族の体験してきたカルマと称する「歪」の解消を請い願うところの「想いの集積」ではないかと察せられる。集積物を一挙にクリアーすべきものとして、爆発と焼尽を借りようとする行為ではないのか。

 

●外から内へではなく、内から外へ

しかしながら、外の世界で何がどう変わろうと、人間の意識の拡大に寄与するものでないならば、それはその外の世界に自己投入している者達の、いわば魂の学習プロセスでしかない。それは人類全体を代表するものでもなく、単に人類の一部にある執着観念に対する学習効果にすぎないのだ。

外の世界が壊されなければ、理想世界が現れないのではなく、それこそ全く逆であり、内面が変化しなければ、外をいくら変えようとも無駄だということである。

理想的な世界がくれば、我々がそれに合わせて理想的になるという考え方は、あくまでも、環境が人間を決めるという観念からのものであり、人間は社会的な動物であるという観念にあくまでも縛られていることを示しているのだ。

例えば、意識の拡大の程度の少ない人がいたとして、その彼が遥かに理想的な世界に行ったとしたら、その彼は多分その場に居たたまれなくなるだろう。

内面の意識の波動と外の波動は、写し絵、反射の関係にあるわけで、外と内が異なることは出来ない相談なのだ。波長が合わない、とはまさにそのような意識の拡大レベル、魂の発現レベルの違いを示すものである。

我々の周囲の世界は我々の写し絵であり、1つの大きな家、この世界のなかでは、人類の意識レベルにふさわしい形態をとらざるを得ないのは、単にそれが法則としてあるだけのことである。

種は自ら蒔いて収穫する定めであり、またこれは、自らの招かざるものは現れようがないという、ある意味で恩寵の法則でもある。

恐怖が無ければ、決して恐怖すべきものは現れない。それでも、どこかで多少とも恐怖があれば、そのとおりどこかで多少とも恐怖すべきものが現れる、それだけのことである。

 

●地球という学び舎のテーマ

我々そのものであるところの魂:意識の成長と拡大は、外の鏡の世界の驚天動地の変動によって起きるものではなく、あらゆる宇宙を表し続ける根源たる意識へのいわば帰還プロセスによるもの、すなわちあなたやわたしの、自らによる自己認識の拡大によってもたらされるものなのだ。

自己自身を変革して行くことこそは、ある意味で最も困難なものだろう。

例えば、どんなにお金を積まれようと、権威を与えようと、何らその人間の本来の幸せには寄与が出来ないようなものである。

例えば、目の前に100億円があったとして、あなたは生活の為の一時の安心は手に入るだろうが、人生の意義や内面から湧き上がり続けるところの、魂の意図や思惑は満たしようがないだろう。ましてやあの世に100億円を持っていけるわけはないのは昔から誰でも知っている道理である。

世界が変われば、自分は幸福になれる・・と信じる意識の段階もあるだろうが、それはあくまでも、いわゆる唯物思考の賜物であり、自己を環境の一部にしかすぎない物という観念であり、どんな豪華な物を回りに積み上げようと、それは物に更に物を付加しただけの「量の増大」でしかないのだ。

こころの作用はエネルギーを生み出すのであり、その逆ではないのだ。

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地球はその大切なプロセスに気づくための、学び舎を提供してきたともいえるだろう。物はそのための教材であり、因たる自己のあり方、眼には見えない意識の働きを十二分に気づくためのものなのだ。

 

●預言はそれを超えるべき道を示すもの

黙示録の預言は、確かに預言であるが、実のところは今回の文明進化の大枠のプロセスを言っているのだと考えられる。もし、そうであれば、ヨハネやあるいはそれに関わる目に見えない情報発信源には、高度な知識、英知を感じざるを得ない。

なにがしらの、より高次といわれる次元認識レベルの視座から見れば、いわゆるこの三次元世界、縦横高さでイメージする立体形態、すなわち物質形態の表現が主要な要素であるところの世界における人間の意識の成長プロセスにおいては、その大体の方向性が見えるに違いない。

もちろん、何年何月何日になにがどうなるかは、真実においてはいわゆる「神のみぞ知る」であるが、大枠の意識的進化の方向性は予想可能であるといえるのだ。

すなわち、大きく言うならば、一定の意識レベルにおける惑星生命圏での進化進捗の方向性は予測可能であろうと考えられる。この1つの最近の試みはWEBBOTのような人類意識の抽出による予測である。

何を考えるか?によって行動や表現が変わってくるのが人間という存在の特質であり、したがってその「主たる想い」が知れれば、その行動や結果は大枠の予測がつくのだろう。

例えばそれが古代であろうと、人類の「根の想い」のいくつかが分かるならば、それらの要素に応じて現れる文明・文化も、それが数千年先であろうと、ある程度は読むことが出来るだろう。原因が変わらなければ結果はそんなに変わるものでもないのだから。

主たる認識対象である物質形態の扱いに次第に習熟し、それをどのように衣食住を含む環境構築に利用してゆくのか等ということは、大体において予測が可能なのだ。三次元は預言や予測が可能な次元とも言えるだろうか。

 

●今は確かに黙示録の時代

古い時代だから、現代には当てはまらない・・という考え方こそ当て外れでしかない。それは物事の生起の原因が意識、人間においてはこころの働きによっていることすらも理解出来ない場合の考え方である。

古代と現代との違いは、物質の表現形態すなわち車や飛行機や携帯電話、家の造りなどが異なっているだけのことだと思えないだろうか。根にある想い、すなわち個々人の発する思いの質は、それほど変わっているわけではないだろう。

人々の中で右往左往しながら、その想いと感情に突き動かされながら生活している我々の有り方は、機械があろうと空を飛べようと、ほとんど古代と何も変わっていないかもしれない。

●神とは内にある真我のこと

いわゆる神という概念は、人間の本来あるべき方向を指すべき観念であるが、それが全く違うカテゴリーに追いやられ、祭上げられたのかも知れない。まさに根源のあなたである神も苦笑しているだろう。

しかしながら、その楽しい苦しい笑い話も終わりがくる。人生も始まりと終わりがあるように、時代にも始まりと終わりがある。根にある思想にも始まりと終わりがあり、文明や文化にも始まりと終わりがあるのだ。

なぜならば変化こそが、神たる根源の自己認識作用であるからだ。無限たる自己は変化でこそ、その無限の多様性を表すことが出来る。

 

●世界よりも、「あなたはどうなのか」という根本的な問いかけ

世界がどうなるかというよりも、あなたはどうするのか?ということを、生れてから自らに問い続けているはずなのだが、無意識の下にしまい込んだり、他の人に押し着せたりした知らず知らずの過程の中にあっても、いつか気づく時が来るものだ。

「わたしとは?」

我々は、ひょっとして今ちょうど最後に問いかけられるような舞台の場面に遭遇しているのかもしれない、そうある意味で間違いなく黙示録の時代にいるのかも知れない。

ひょっとして、宇宙全体があなたや私たちに、問いかけをしているような、そんな稀有な時代にいるのではないか。

これはまさにすごいことなのかも知れない。

 

(つづく)

 Bosch

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


大いなる意識の目覚め

2010-04-24 18:37:18 | 宇宙的気付き

ドイツの哲学者であるハイデッガーは、

何も存在しないのではなく・・、何かが存在しているのはなぜだろうか?

という問いかけをしたといわれている。

まさに誰でも「ふと」感じる「問いかけ」であろうか。あなたは、なぜ世界は「無い」のではなく、「有る」のだろうか・・と、ふと感じたことはないだろうか。

この記事を今読んでおられる方々も、「今ここに有る」からこそのこと。

この不思議な感覚は、多分宇宙の謎であり、またその謎を問いかける大いなる者の問いかけでもあるのだ。

・・・・

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●一なる存在原理

我々の眼前に存在する「宇宙」という無限に展開する世界の、その、原初の産声は 「わたしは有る!」 という神なる者の初動的な気づき、目覚めによって生じたと考えてもいいだろう。

「自らへの気づき」、それは何ものにもよらない、全てにおける第一原因と言えるのだ。

それは「わたしは有る!」という驚天動地の自己への気づきと言えるかも知れない。

何ものにもよらない意識のあり方、「わたしは有る」・「I am that I am」  はどんな時空をも超えた存在原理と言える。どんな形によらず、常にわたしはわたしであるところのものである・・ということである。

それに、わたしとは、一体なんだろうか?という素の問いかけがあればこそ、宇宙そのものが様々に変化しつつ調和を保っているのだ。

常に無限なる自己自身で有り続けている様が、今現前する「あなた」であり、わたしであり、多次元ともいわれるいわゆる宇宙なのだ。

なるほど、わたしはわたしで有りながら常に変化するわたしである・・ところの存在である。

●あなたは時空を超えた存在

物理的な説明でのビッグバンは、時間と空間の域を超えていないが為に、宇宙の創生時期を想定することになる、すなわち130数億年前に始まる宇宙ということになるようだ。

しかしながら、「わたしは有る」という初動の意図は時間・空間によらず、それを逆に生起せしめる初動であればこそ、それはいつか何処かの過去ではなく、常に「今の瞬間」なのである。

他の何ものにもよらない有り方は、すなわち「一なるもの」のあり方そのものである。それを根源といい、宇宙の因といい、また創造主、神ともいう。

その根源と同質の有り方を再現している意識的存在である「人間」は、その永遠なる者であるわけだが、果しておぼろげながらでも、今それに気づいているだろうか。

どこにいようと生れようと、死のうと、何も変わらない「あなた」が存在するのだ。存在原理そのものはその投影の形態が変わろうと、何がどうなろうと、常に「わたし」であり続けることに気づいているだろうか。

「あなた」とは、存在原理そのものであり、時代や境遇に基づく、人生での体験記憶によって規定される「個我」ではないということである。

すなわち自己の身体に同化し、生き残りをかけて必死で闘いながら生きつづようとする個我、すなわち「エゴ」ではないのだ。

 

言い換えれば、この世界における人生での様々な体験・記憶自体が「あなた」ではなく、体験記憶する主体そのもの、存在原理そのものが「あなた」であると言うことである。

ここまでの理解がもしあるならば、どのような人生もそれは素晴らしい体験であると感じるだろう。

●さらばエゴよ

先般の記事にあるラメッシ・バルセカールの言葉、「全ては意識であり、誰も行為者はいない」という言葉は、不滅の意図と意識、それをまさに示している。

この人生で個人として生きている「あなた」とは、一般に言われる「個我」のあなたであり、生物的な側面を強調されすぎた社会に生きているがゆえに、その生き残りを終生の目的とする「エゴ」が生じるわけなのだが、その後天的なエゴは実は存在しない・・とは、空恐ろしいが、なるほど的を得た指摘ではないか。

個我の行為者であるあなたは実は存在しない、あるいは存在していると見えるのは、それは「架空の自己」であるということなのだ。

そのエゴたる架空の自己を必死で維持しようとすることを目的とする文明であればこそ、大自然も荒らして食い散らかしながら、そのゴミによって自ら窮することになるのだろう。

 

とはいえ、架空の自己が「ここ」に有ることは、どこの誰も否定しないだろう。その架空の自己を成立たせる為の背後の仕組みこそが、大いなる意識そのものであり、本来の「わたし」であるのだ。

大いなる「わたし」の1つの投影物こそが「個我」のわたしということである。本当のわたしとは間違いなく宇宙の第一原因である「わたし」に行き着くのだが、これが受け入れられるだろうか。

●いつもある「今」という瞬間

本来の「わたし」とは、大いなる「わたし」の中にある無限数の「わたし」でもある。それはまた、同じく大いなる「あなた」でもあるのだ。

人間の日常の生活、社会の出来事の知覚、悩みや喜びの体験もすべて「ここ」、それぞれの今の瞬間のわたし」から生じているのだ。

わたしはある・・すべてはここから生じている。毎日毎瞬あなたやわたし達にある普通の感覚、「わたしは有る」に意識的に気付くべきである。

ごく普通の、いつもやり過ごしてきた「ここ」の瞬間にいつもあったのだ。

人は肉体そのものではない。

また雑多な思考そのもでもない。

また胸を揺るがすところの感情でもない。

あえて言えば、それら全てを無限の泉から噴出せしめるところの、

無限小であり、また無限大でもある湧出点であり、

・・・

またそれらを超絶したところの「今」という無限舞台での創造演劇の観照者であるかもしれない。

人は、神なるそれから生れた者であり、また自己の神なるを観る、大いなる意識そのものなのだ。

 

子供たちの安心しきった寝顔、

近所のうるさそうな、おばさんの付き合いだけの挨拶・・・、

父母の柔和で心配そうな笑顔、

線路沿いに咲く、名も知らない草花・・・、

忙しそうに通り過ぎる電車、

そして、疲れた足取りで買い物袋を抱えて、

家路に急ぐ人々のこころ中にも、

この宇宙を創りたいと思った、

大いなるものの切なる想いを、

あなたは今、ここに、感じることが出来るだろうか。

Flower1011

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。


わたしは(わたし)である

2010-04-03 16:24:12 | 宇宙的気付き

●偶然はどこにもない

  

我々はたまたまこの地球に生まれ、たまたま死んでゆくという無意味な偶然産物的な生命ではない。

確かに、社会のありきたりの教育と集団の中での経験、社会に出ての体験だけでは、このような重要なことは考えにくいかもしれない。

 

人生に起こる様々な体験を、ただランダムな出来事と考えたり、また様々な出来事を確率や偶然の結果として扱ったりすることが、どこか現代的で近代的なことであるという嘘に流されているのかも知れない・・と感じたことはあるだろうか。

 

人生に偶然など実はどこにもないと、どこかで気付いている人々は多いし、人類の文化や歴史に垣間見える考え方や習慣の中には、その真実をどこかで伝えているものも多いだろうが、たんなる比喩やおとぎ話として捨てているのかもしれない。

すべては必然である。

  

そう、

今ここに我々が生きているのも、我々の選択によっているのだ。ただ、それを忘れているところに、その面白さと、はたまた苦渋があるものでもあるが。

 

●我々は今、海の底の竜宮城にいるようなもの

 

モンローその他、先駆的冒険者達の説明する地球の多層世界においては、この地上、すなわち3次元的物質観念で覆われているこの地上世界は、ある意味で例えば「海の底」のようなものだろうか。

  

海の底は下に行くに従って水の圧力がのしかかってくるような、重く、圧縮された時空世界であり、はるか洋上に燦々と輝く光も届きにくいものだろうし、またそんな海底で動き回ること自体が相当な不自由さをもたらすだろう。

 

例えれば、地上にそびえる超高層ビルも、なにか海底の竜宮城のようなものとも思われる。

 

●物質世界も多層の世界の単に一つの層である

 

海の底の竜宮城文明?・・確かに、これは比喩であるが、我々のこの3次元といわれる世界も似たような構造ではないだろうか。

 

人間の五感で知覚できる範囲の地球の周囲は、知っての通り「重力」という物質形態に親和性のある力があるが、これは物質形態レベルでの時空の歪同士の同調による保護エリアを造り出し、その形態世界を、1つのまとまりとして保つ仕組みでもあるともいえるだろう。

  

ある意味で、物理的な層での地球体験ワールドとその外を分かつ為の自然の「保護壁」である。

 

例えば、人類の宇宙開発への努力は、引力すなわち、そのハードルとなっている時空境界を突破する為の切なる願いから出ているところの物質次元での努力なのだ。

 

●地球は多層の意識体験世界

 

霊的、意識的存在レベルでも、地球は階層構造になっているようだ。

 

R・モンローやスエーデンボルグ、その他信憑性のある霊界通信や、あるいは古来からの聖者や覚者たちの教えや報告も、天界や霊界といわれる各階層世界もそれなりに立派にリアルな世界であるとしている。

  

それら多層の世界は我々が白昼夢と考えるようなあやふやな世界ではなく、その階層エリアにとっては実に「リアル」な「体験領域」といえるのだ。

 

実のところ我々の五感を通じてフォーカスしているこの現実世界も、霊的世界も単に存在周波数帯域の少しの違いでしかない。

 

こちらが現実であちらが虚ではなく、あちらも現実であり、またあちらもこちらも本来は虚と言えるかも知れない。

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     同種の想念の同調で創られる集合観念の周波数帯域

 

中間領域は主に「想念」による創造世界であり、ある意味では我々の物質世界での想いの鍛錬と浄化の程度を試す為の試しの場であるとも言えるかも知れない。

 

意識体である人間の「肉体死」の前後に通過するといわれるその領域は、天と地の間、地球体験領域の中間エリアとも言われる場所だ。

 

古くから「霊界」等と呼ばれている意識領域であり、はるかに自由自在な、いわゆる天界以上の意識レベルからみて、地球的に歪んでいる意識階層と言えるだろう。

 

例えは悪いが、本来通過するべき「一杯飲みの赤提灯」のような、ついつい同調してしまうひっかけ階層といえるだろうか(笑)。

 

少々引っ掛かってもすぐに出られるのならばなんの問題もないのだが、自らの重い想いでそこに眠り込む「意識体」もある。

 

また地獄と形容されるような修羅場で切った張ったを繰り返す者もあるようだし、浮かれ天国のようなところで極楽とんぼのように過ごす者もあると聞く。

 

結局は、自己の発する想念(想いや感情)のコア周波数帯によって、どの世界に引かれるかが決まるのは理解が容易であろう。

 

類は友を呼び、同一波長は共鳴するのだ

翻って、我々の現実世界は物質的な世界といわれているが、これもやはり「想念」の世界と言えるのだ。

 

時間の経過や概念の複雑さに混乱させられてその因果関係が不明瞭に感じているかも知れないにしても、人生ではその個人の想念に従った出来事が起きているのだが、その想い自体に気付いていないおかげで、何が何だかわからないようになっている。

 

正確にいえば、この3次元世界では想いと現象化の間に、しっかりとしたフィルターが掛かっているということだ。


後ろの正面

2010-02-07 10:46:58 | 宇宙的気付き

●個の人格とは

我々が現在何歳かにかかわらず、生まれてこのかた蓄積した人格は、個人という生を通じて集大成された記憶といえるだろう。進化する「人格」は、生命という因をもとにして時空に生じる様々な現象を自ら体験することで得られる「記憶」であり、また、その人生という記憶に対する捉え方、ある意味で習得された内容に対する見識が、魂の現状の開化のあり様を示している。

あなたやわたし達の歩んでいる進化の道とは、我々の生命の様々な表現・体験と、その因である「想い」のその時々の集大成のことである、と言って良いだろう。

あなたが歩む道は、さらに大いなる「あなた」への道なのだ。

それを古くから「神」といい「仏」という。

例えば、あなたが子供であろうと「あなたは何だ」と問われたときに、間違いなく「わたしは人間です」と答えるようなものだ。

  

 

●あなたは究極において神なる者である

あなたやわたし達も、今は不完全という想いの衣を着ていようと、また幼児のような表現しか出来なくとも、間違いなく、古くから言われるところの「神」「仏」または「究極の一者」、多層に渡って顕現し続ける宇宙を、そうと有らしめているところの「創造の因」であるのだ。

なぜなら、我々は、我々の想いを我々自ら観ることができる位置に来ている存在、即ち意識ある人、人間であるからだ。たとえ幼児の自覚すらもなくとも、間違いなく人間であり、五感の世界に閉じ込められているように感じていても、間違いなく無限たる存在なのだ。

あなたは「あなた」を自分で自覚できるにちがいない。

誰にもある、これ以上ないシンプルな感覚を捨ててはならない。

「わたしは今ある」

これは意識的な意識を有する者の証である。

確かに、簡単すぎて、逆に難しいかも知れない。

 

 

●地球という舞台に溢れる神なる人々

誰も皆、出生というゲシュタルト、無意識という意識を通過する約束の、出生という時空の転移形態を通じてこの世界に現われ、いつの間にか忙しく生きている。また、表面では決してその全てを理解し合えない、それこそ大勢の他者のなかで、時にはぶつかり合い、たまにはののしりあい、またある時は共感しながらも、この同じ時空を共有しているのだ。

そのような「人と人の関係」は、この世界の重要なテーマでもある。

あなたは他者との折り合いをつけることが出来るだろうか。

あなたは父母との折り合いをつけることが出来るだろうか。

  父母のもたらす慈愛と、あるいは無知、無理解にも感謝ができるだろうか。

あなたは周りの人々との折り合いをつけることが出来るだろうか。

  周りの人のもたらす共感と、あるいは無責任、無関心にも感謝ができるだろうか。

あなたはこの世界の不特定の人々との折り合いをつけることが出来るだろうか。

  世界の人々の切なる希望と、あるいは幼稚さ、エゴイズムも理解ができるだろうか。

我々は、この世界の全てを共同創造している無限小から無限大にいたる様々な生命と折り合いをつけることが出来るだろうか。

それは決して難しいことと考えてはいけない。

人の行なうべきことは、その有様をそのまま観ること、あるがままを観ること、当たり前のようにそれを認める意識を生じせしめることである。

こころの歪を正すのは、浄化するのは、自己自身のこころをおいて他にはない。

  

わたしが今ここにあるように、

奇跡のように、

わたし以外のものがここにある。

  

いや、まさにそれは、当たり前の奇跡なのだ。

これを創造と言わずしてなんであろうか。

  

もっとも近くて遠いものは、

わたしのこころの作り出す幻影のほうなのだ。

  

こころに振り回されている間は、

無限の向こうに飛んで行こうと、

同じ現実が待っている。

  

まさに孫悟空のごときこころのなせる

幻影を見ているが如しである。

  

幻影、それは言われるところの三次元という

閉じた「観念」の作るものである。

  

ああ、今ここにある

当たり前の奇跡を観えずして、

一体何をなそうというのか。

 

今だ磨かれざるだけの神々を罵って

一体なにを理解出来るというのだろうか。


あるがまま

2010-01-17 10:11:32 | 宇宙的気付き

●我々は井の中の蛙(かわず)

我々はひょっとして自己を相当に卑小に評価しているのではないか、と思うことはあるだろうか。ひょっとして自分は井の中の蛙(かわず)ではないかと思う時はないだろうか。

 

例えば、自分とは肉体であるなどと思っているのかもしれない。

「体がなければおしまいである」・・と、誰とも同じような安易な観念に安住しているのかもしれない。

 

身の周りのことしか判らず、とりあえず周りの顔色を伺いながら生きている人、例え世界のあらゆる情報を集めたとしても、やはりそれは少し井戸の中のスペースが広がったような気がしているだけのことかも知れない。

 

我々が毎日意識を集中している肉体や、肉体・五感レベルに反応するところの周囲環境が、唯一の存在形態であると思っている人々が多いことだろう。

 

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●世界は1つの次元ポケットのようなもの

我々の世界、それは、生まれた時から見ているこの地球というフィールドに生じた次元空間、例えればある意味での立体映画館が、我々の存在する唯一の世界であると感じているようなものだろうか。

 

もちろん、あなたも流行の映画を見るために、最寄の映画館に入り、一時我を忘れてその映画を楽しんだ経験も多いことだろう。

 

普通はワクワクした気持ちで足を運び、我々が映画館に入ったのだ・・ということを記憶していることで、目の前の銀幕にどのような驚天動地の映像が展開しても、それが単なる映画であると気付いており、どこか平静なこころを持っているわけであるが・・、仮に映画館に入った瞬間に記憶喪失になってしまったとしたらどうだろうか。

 

その場合、映画に見入っている人は自己のアイデンティティーを見失い、とりあえず目の前に展開する映像に釘付けになるしか方法が無いだろう。

 

前後の記憶が無くて、そこにいつの間にか座っているとしたら、「わたしは一体誰なのか?」を問い続けながらも、その映画館の中では目の前の映画の展開におのれの意識を集中せざるを得ないということだ。

 

記憶がないために、映画を観ているわたし、すなわち、現実と称されるフィールドで体験するわたししか判らないことになる。

 

●地球は今まで閉じた学び舎であった

まったく同じことが、我々がこの世界に生まれ、そして去ってゆくプロセス、すなわち人生として行なわれているといえるだろう。

 

「我々は一体何者なのか、どこから来てどこにゆくのか」等の、今ある自己の、前後左右に対する漠然とした疑問を、大なり小なり抱きながら、とりあえず人生をそれぞれなりに精一杯生きているわたし達の有様とまさに同じといえるだろう。

誰しも皆、赤子として無垢からはじめるということは、大きな本来の自己・魂のアイデンティティを一たん忘れるということなのだ。

 

前世を覚えている、あるいはおぼろに思い出しつつある人々意外は、まさにこの表面的な記憶喪失の真っ只中にいて、かつそれに気付いてもいない状況なのだ。

 

我々は今、地球という、言われるところの三次元レベルを「自己上演する映画館」にいるようなものなのだ。なるほどそれは映画館と言えども、それなりに細密にかつ無限大の時空を映し出す生命圏でもある。地球から見える、観測される宇宙も、まさに果てが想像もつかないような悠久の姿を現しているように。

 

このように、人々が記憶を忘れることでこの世界は閉じていたのだ。

これはいわゆる次元降下の有様の一端であろうか。

あなたはどう思うだろうか。

 

●我々はいわばあらゆる映画を観ることができる観客である

比喩的に言えば、我々は悠久にわたる魂の記憶を潜在意識下に忘れ去って、今、この地球という生命圏(映画館)にいるようなものなのだ。

この映画館のテーマは、例えば、「次元降下において本然の自己を思い出すこと・・」 とでもいえるだろう。

 

このような刹那の自己を超えるところの、本来の大きく拡大した自己への気付きは、この世界と自己の有様を充分体験・観察した人々、あるいは、人生の意義を大なり小なり感得された人々には多分理解出来るだろうと思う。

 

●今の中に過去も未来もある

現状の刹那の自己の有り方のみに意識を集中している段階を通り越して、刹那の自己を含んだ、更に大きな自己のあり方に気付いた人々、ある意味、来し方、行く末のことまでも意識されるような段階の人々には何か合点がいくだろう。

その意識の範囲が拡大しつつある人々が今増大している。

 

今というものを無意識にやり過ごさず、否応となくしっかりと観ることが出来れば、その「今」の中に過去も未来もあることが少しずつ見えて来るものだ。

 

ここにスポット的にいる観客として以外の有り方、本来の大いなるわたしたちの有り方に気づいてくるものだ。

 

しかしながら、外の結果の世界、世間の常識やありきたりの流れに身を任せている限りでは、自己の内面から来るものになかなか気付かないだろう。

 

我々は、雄大無限の宇宙という創造の中に遊びながらも、様々な経験と学びをその個性という魂に刻みながらも、次第に無限なる自己自身になってゆくという経験プロセスを選んだところの根源意識からの出向者のごとき者である。

 

我々は本来無限であるからこそ「有限なる自己」をも無限に展開することも出来るのだ。

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●生命は無限なる自己への気付きの旅にある

人間とは、本来無限の者が選んだ個性的な在りかたを体現する者、有限から無限への意識拡大の途上にある者なのだ。

 

池の水面に石を投ずるごとく、潜在という空に「意志」を投じ、それにより現れた波紋が池全体に拡大するようなものである。その意識で構成された池全体、宇宙全体に木魂す波動を「想念」ともいう事が出来るだろうか。

 

あらゆる生命はその途上の段階は違っても、全て意識的存在であると言えるだろう。

 

意識的存在というのは、個性ある意識ということであり、全宇宙、森羅万象、あらゆる存在形態を生ぜしめるところの、全包容なる一つ意識の個性化を示すものだ。

 

●物質も「意識」と「意志」の表現要素

「波動の法則」(足立育郎著)によれば、物質元素の元である陽子と中性子に関して、ズバリと著わされている。すなわち、

陽子は「意志」であり、中性子は「意識」である・・。

 

現代文明に染まった考えかたでは、なかなかピンと来ないかもしれないが、我々が現状で発見したところの、この世界の構成要素が、全て「意識」と「意志」または愛という全包容的な精神で構成されているということが言えるのだ。

 

石も岩も、山という形態も・・・、水も苔も、川という形態も・・・、土も草も、木という形態も、全てそれぞれに意識を有しているからこそそこに現前しているのだ。

 

●全ては大いなるこころ(意識と意志)の表現である

 

山川草木国土悉皆成仏。

 

まさにその通りであり、あるがままの自己自身を表現している。

意識という全存在世界を貫いているところの根源の波動を、様々な個別化の意図的変調を行なうことが出来るのは、人間の想念である。

 

そうだ、想いや感情があるということは、あなたや私たちが気付くか気づかないかにかかわらず、宇宙創造に参加しているということなのだ。

 

自己がそうと想う分だけの、それだけのことが実現している世界に住むことになる。どんな宇宙であろうがそれが意識的存在たるものの原則である。それはまさに神の自己創造と同質のありかたなのだ。

 

ところが、人間における自己認識のある一定レベルでは、それになかなか気付かないものだ。

そう、多分、大方の人々はこんな風に反論するかもしれない。

「え?、自分が自分の世界を創っているって?・・どうしてそんなことがあるものか。そうであれば、どうしてわたしは幸せではないのか?幸せは願っていても、そんなことあったためしはないよ。笑わせないで欲しいね。」

 

例えば、よくありそうなまさにこのような反駁や批判の内容の中にこそ、そう思う分だけの自己の世界を現していることがわかるではないか。

あなたやわたしたし達は確実に創造に参加しているいわば「創造者」であることにもう気づく必要があるのだ。

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●誕生の経験は宇宙開闢の雛形でもある

赤子が生まれるときの有様は、人によっては様々な思いがあるものだが、親達がまさに驚きと歓迎と好奇心をもって接するのが、子供の誕生の瞬間であろう。

 

社会の歪に、いかようにはまり込んでいるか、あるいは外の世界の価値観にどれだけ意識が囚われているかは別として、赤子の誕生、そこには不思議さと未知なる状態への緊張と、何かが生まれることに対する敬虔なこころがあるはずなのだ。

 

ここにも宇宙の創造の雛形が現れていると思えないだろうか。

今まで存在していなかったものが、いままさに存在として現れようとする瞬間に遭遇しているのだ。

 

あなたや私たちが毎朝目覚めるその目覚めのプロセスにも、宇宙開闢の雛形が示されているとも思われる。

 

●外は常に自己の反映である

我々の日常の生活の中に満ち溢れる奇跡の数々、それが当たり前の観念の中に流され続けることこそ悲しいことであると言えるかも知れないのだ。世界の中のどのような人々を哀れみ同情したところで、本当のものではないだろう。

 

かわいそうな人々を何とかしなければならない。世界を何とかしなければならない。そのような意識は真っ当な方向にあるものの、その善意の意志を発する多くの人々が、更に気付くべきものがあるだろう。

 

実際のところは、我々の世界がかような有様を呈しているのは、かような有様であると観ずるこころにあるということなのだ。

 

我々のこころの根っこに付着しているところの「不完全な世界」という「観念」を今この瞬間に洗い流す務めがあることに気付けるだろうか。

 

この地球自体が今高次元に移行しつつある低次元の生命体というのではない。地球、それは数十億年といわれるわれわれの時間観念のなかにおいても、当初からどんな素晴らしい世界にもなりうる生命フィールドであったということを忘れないことだろう。

 

そこに何代、何世代にもわたって編入、卒業を繰り返してきた、幾多の種族、人間存在達の表わしてきた歴史に色づけされているだけのことである。地球といういわば教室模様は生徒たちが創り上げてきたものでしかないということを忘れないことが肝要である。

 

地球はいつもどんな生命にも、その生命が自由に花咲けるようなフィールドを提供してきたのだ。まさに親たる者の、あるいは無限にサポートする存在の真骨頂とも言うべきものである。

 

我々は今、この地球にいて、意識と意図の要素である元素で構成された身体をまとい、五感とそれ以上の知覚手段を通じて、自己の想いを現しつづける学びをさせてもらっている生徒を選択しているのだ。

 

●本然、実相、あるがままを観る

周りに堀を廻らすよりも、今、この世界の本然のあり方しっかりと観じることが最も大切なことではないのか。

本来のあるがままのこの世界を、あなたやわたし達のこころで汚さないようにしよう。

 

出来るだけ謙虚になろう。

 

本然の世界を語るとすれば、まさに、 山川草木国土悉皆成仏  なのだ。

 

もう、いかなる批判も疑いも、今はもうそれが不適当なものであるとキッパリと観じよう。

この世界、学び舎は、次から次へと魂の学びを得るためにやってくるところであるが、もうその繰り返し学習も充分に過ぎたのだ。

 

地球という巨大生命の現すところの大自然から学びとったものが、まさか弱肉強食、自由競争ではないことは、もうどんな人々にも充分解る段階であろう。まさに笑止千万。

そのために人生をすり減らす経験は1度でも充分すぎるほどだ。

 

我々の数十年の人生という参加枠の中で、この世界の本然、あるがままの有様であることを、本来輝く世界であることを、今持てるこころの底のそこから観ずることこそ、この世界に現れた我々の意図ではなかったか。

 

まさに大勢の人々よ・・・、ありがとう。

 同じ学び舎の愛する仲間たちよ、本当に有難う。

 

山川草木よ・・・、ありがとう。

 一緒に遊ぶ仲間達よ、本当に有難う。

 

厚い大気よ・・・、ありがとう。

  循環する息吹よ、本当に有難う。

 

清らかな水よ・・・、ありがとう。

  すべてを清浄にたもつ流れよ、本当に有難う。

 

雄々しい火よ・・・、ありがとう。

  暖かいエネルギーよ、本当に有難う。

 

頑健な土よ・・・、ありがとう。

  命の錬金術士よ、本当に有難う。

 

神々しい光よ・・・、ありがとう。

  世界を映し出す光よ、本当に有難う。

 

地球を含む大いなる宇宙の仲間達よ、ありがとう。

  多大なるサポートは、我々のような幼い者にはいつもあまり眼に見えないものだ。

 

我々の存在時空を照らし続ける太陽よ・・・、ありがとう。

  ものは言わずとも、その無限なる愛と輝きに、こころから感謝します。

 

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遅れましたが、皆様明けましておめでとうございます。

記事更新が遅れても、変わらずアクセスして頂く方々に、こころから感謝します。

本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。