宇宙・世界の創造と変遷をそのまま簡潔に表現しているということ。
何が何だかわからない場合もあるけれど、
それはこの世界での紆余曲折、千変万化の・・その背後にある、
言わば法、あるいは仕組みに気付いていない意識段階を示しているかも知れない。
余計なお世話だが、あなたはどうだろうか?
色即是空、空即是色。
色(しき)とは現れた諸現象であり、
空(くう)とは現象の背後の(くう)のことだと言えよう。

虚空蔵菩薩像
特に、空(くう)と言えば、何もないこと、空っぽ、無、ゼロ等と言う観念が絡んでくるために、
何か嫌な事、怖い事、つまらない事と言うような感じがして、
避けて通りたい気持ちになるかもしれない。
財布の中が空っぽ、えー?、ゼロ円だった・・あー、やだヤダ(笑)みたいな・・。
しかしながら、存在事物全て空(くう)に浸っている/・という表現が適当かどうかはあるが、
我々は空(くう)で、出来ている・・という、表現が適当かどうかとしても、
あらゆる物質、そのほとんど全てが、まったき空(くう)なのである。
原子の構造の話が引き出され、原子自体は密集した粒子で充満しているのではなく、
ほとんど、全くと言って良いほど空っぽだとされているだろう。
それは噂や陰謀論等の話ではなく、まったくその通りの空っぽ同然という事実を示している。
現状の原子核モデルでよく聞く話はこうだ。
原子核をバレーボールの大きさで東京駅にあるとすると、
電子はビー玉程度、その電子が原子核の周囲を回っているとされるわけだが、
その電子がどこにあるかと言えば、小田原あたりに位置している。
八重洲や神田でもなく、小田原というわけだ(笑)
その空間体積からいって、原子核や電子は極めて小さく、計算が面倒になるほどスカスカということになる。
その電子核と電子の間は何があるかと言えば、見えない力場はあるとしても、ほとんど真空ということ。
真空は科学的用語で、ここで言う空(くう)と同じ。
あなたやわたしの肉体はそれ、ほとんど空だということだ。
だから、物質で固まっているはずの我々の身体は、ほとんど「空(から)」であるからには、
我々の肉体自体も、物質というよりは、空(くう)そのものということになる。
比喩でもなんでもなく、目の前のパソコンも机もコーヒーカップも、ほとんど全てが空「くう」なのである。
多くの人が信奉している科学の見解であり、比喩でも予想でもない、事実認識である。
空っぽなんて嫌だ・・といっても、面白おかしいことに、
我々そのものが空っぽの中にいる(笑)。
原子、分子、細胞自体は、空っぽの中の、極めて微小なエネルギー波動/粒子の運動で出来ている。
また原子や電子、さらには素粒子と言われるものは、波動でありまた粒子のようにも見える
、波動エネルギーまたは運動エネルギー・・そのものだ。
我々が物質だ、肉体だという認識は、大嘘(うそ)のコンコンちき以下の観念なのである。
人が、自分のことを物質だ、肉体だ・・というような見解は、
致命的な誤解にもとづいているわけだが、
どうも、そういう唯物観念へと方向付けるような、社会常識の思惑があることにも気づけるだろう。
なぜならば、人々が唯物観念から脱してしまえば、もう物質偏重文明、資本主義的手段による富の蓄積、勝敗ゲームは消滅してしまうのだ。
・・・
我々の肉体、身体は物質で出来ている・・というの皮相的観念であり、
我々の肉体、身体は、「空(くう)」の中のエネルギー運動だという認識のほうが、
無限に真実に近いのである。
・・・
あなたは自分が、肉体でしかない・・と思っているならば、それは「ブーッ」であって、
わたしは自分が、空(くう)で、かつ、その中で「活動するエネルギー」でしかないと・・・思わなければならない。
自分が、既に、99.99999・・・?% 空(くう)であるということだ。
あなたが自分を、物質的存在だと定義するならば、そう、
あなたは、ほとんど存在しない、実在しないということになる。
空(くう)の中の、ちょっとしたエネルギー運動の、言わば影絵のようなものということになる。
昨今発見された光干渉技術では、それは「ホログラム」ということなる。

従って、科学的見解を大切にするならば、
「自分が肉体・物質である」とするのは大きな誤解釈表現であって、
それを言うならば「自分はホログラム」であるというのが、ほぼ正解なのである。
現代科学的にそった見解から言えば、私は物質・・・ではなくホログラムなのだ。
唯物的観念を大切にする、科学的見解者ならば、
あー、自分とは、実は「ホログラム」だったということ、そういうことだ。
おー、ホログラムとは、なんと軽そうな・・!(笑)
いやいや、そんなはずは!?・・という反感があるかもしれない。
そう、私は今ここに存在している・・という感覚があるからだ。
わたしは在る・・という感覚は、人間としての普遍的なもの、自意識というものだ。
しかしながら、わたしは在るが、全体から分離した肉体個人があるという見解は、
今観てきたように、
自分とは、無限の空(くう)に浮かぶホログラムであるというのが妥当であるならば、
さてそのホログラムの・・・どこに、私という、個人という「実体」があるだろうか?
人間も含めすべての物質現象の、
99.999・・99?%、空(くう)であり、
残りは全て、活動する微細エネルギーだとすれば、
私個人とは、単に空(くう)の展開せる次元の幕に投影されたホログラム、と、
そういう結論になるではないか。
実際、投影映像よりも、さらにスクリーンである多次元層を展開する「空(くう」そのもの
そういうことになるではないか。
わたしは、決して分離した肉体個人ではなかろう。
『肉体個人だという認識、癖の思考、観念』があっただけの話である。
また、そうでなければ3次元的世界はすぐにも消えていただろう。
・・
考えるよりも、今在るまま、それを単にそのまま観ることが推奨される所以だ。
バカバカしいほどに単純だが、社会の様々な迷妄観念が覆いかぶさっていたせいで、
人によっては何世にも渡って、楽しくも苦しくも騙されてきたわけである。
癖になった世間思考や偽の常識観念を外す努力は必要であるものの、
気付けばすぐそこに出口が見えてくるだろう。

五感に映しだされた森羅万象、あらゆる事象や事物、
わたし達の手足や、その目の前の諸物も、99.999・・・%が「空(くう」。
あとは法則や意識、意図による、微細なエネルギーの活動なのである。
それが多次元的に展開して全てが映しだされている。
本質はそれだけ。
なんという単純さか。
そして観念、マインドはなんと多様で複雑なんだろうか。
しかしながら、複雑さ、多様さのその中に真実はあり得ず、
ただ、ひとつという「それ」、
何でもないものこそが、何にでもなるという単純さこそが、あらゆる全てなのである。
全ての全ては、空(くう)でこの瞬間につながっている。
あるのはそれだけ・・・。

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
新年おめでとうございます。
尚御覧の方々に・・、気づいたことや感じたこと等、その気になればですが、気軽にお話しいただければと思います。難しいものは何もないし、何の損得もありません(笑)