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気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

色即是空の話 (1)物質とは影絵そのもの

2016-01-04 08:48:18 | 宇宙的気付き
色即是空とは般若心教の真髄だが、別に仏教の世界の教えということでなく、

宇宙・世界の創造と変遷をそのまま簡潔に表現しているということ。

何が何だかわからない場合もあるけれど、

それはこの世界での紆余曲折、千変万化の・・その背後にある、

言わば法、あるいは仕組みに気付いていない意識段階を示しているかも知れない。

余計なお世話だが、あなたはどうだろうか?

色即是空、空即是色。

色(しき)とは現れた諸現象であり、

空(くう)とは現象の背後の(くう)のことだと言えよう。



   虚空蔵菩薩像

特に、空(くう)と言えば、何もないこと、空っぽ、無、ゼロ等と言う観念が絡んでくるために、

何か嫌な事、怖い事、つまらない事と言うような感じがして、

避けて通りたい気持ちになるかもしれない。

財布の中が空っぽ、えー?、ゼロ円だった・・あー、やだヤダ(笑)みたいな・・。

しかしながら、存在事物全て空(くう)に浸っている/・という表現が適当かどうかはあるが、

我々は空(くう)で、出来ている・・という、表現が適当かどうかとしても、

あらゆる物質、そのほとんど全てが、まったき空(くう)なのである。

原子の構造の話が引き出され、原子自体は密集した粒子で充満しているのではなく、

ほとんど、全くと言って良いほど空っぽだとされているだろう。

それは噂や陰謀論等の話ではなく、まったくその通りの空っぽ同然という事実を示している。


現状の原子核モデルでよく聞く話はこうだ。

原子核をバレーボールの大きさで東京駅にあるとすると、

電子はビー玉程度、その電子が原子核の周囲を回っているとされるわけだが、

その電子がどこにあるかと言えば、小田原あたりに位置している。

八重洲や神田でもなく、小田原というわけだ(笑)

その空間体積からいって、原子核や電子は極めて小さく、計算が面倒になるほどスカスカということになる。


その電子核と電子の間は何があるかと言えば、見えない力場はあるとしても、ほとんど真空ということ。

真空は科学的用語で、ここで言う空(くう)と同じ。

あなたやわたしの肉体はそれ、ほとんど空だということだ。

だから、物質で固まっているはずの我々の身体は、ほとんど「空(から)」であるからには、

我々の肉体自体も、物質というよりは、空(くう)そのものということになる。

比喩でもなんでもなく、目の前のパソコンも机もコーヒーカップも、ほとんど全てが空「くう」なのである。


多くの人が信奉している科学の見解であり、比喩でも予想でもない、事実認識である。

空っぽなんて嫌だ・・といっても、面白おかしいことに、

我々そのものが空っぽの中にいる(笑)。

原子、分子、細胞自体は、空っぽの中の、極めて微小なエネルギー波動/粒子の運動で出来ている。

また原子や電子、さらには素粒子と言われるものは、波動でありまた粒子のようにも見える

、波動エネルギーまたは運動エネルギー・・そのものだ。



我々が物質だ、肉体だという認識は、大嘘(うそ)のコンコンちき以下の観念なのである。

人が、自分のことを物質だ、肉体だ・・というような見解は、

致命的な誤解にもとづいているわけだが、

どうも、そういう唯物観念へと方向付けるような、社会常識の思惑があることにも気づけるだろう。

なぜならば、人々が唯物観念から脱してしまえば、もう物質偏重文明、資本主義的手段による富の蓄積、勝敗ゲームは消滅してしまうのだ。

・・・

我々の肉体、身体は物質で出来ている・・というの皮相的観念であり、

我々の肉体、身体は、「空(くう)」の中のエネルギー運動だという認識のほうが、

無限に真実に近いのである。

・・・
あなたは自分が、肉体でしかない・・と思っているならば、それは「ブーッ」であって、

わたしは自分が、空(くう)で、かつ、その中で「活動するエネルギー」でしかないと・・・思わなければならない。

自分が、既に、99.99999・・・?%  空(くう)であるということだ。



あなたが自分を、物質的存在だと定義するならば、そう、

あなたは、ほとんど存在しない、実在しないということになる。

空(くう)の中の、ちょっとしたエネルギー運動の、言わば影絵のようなものということになる。

昨今発見された光干渉技術では、それは「ホログラム」ということなる。




従って、科学的見解を大切にするならば、

「自分が肉体・物質である」とするのは大きな誤解釈表現であって、

それを言うならば「自分はホログラム」であるというのが、ほぼ正解なのである。

現代科学的にそった見解から言えば、私は物質・・・ではなくホログラムなのだ。

唯物的観念を大切にする、科学的見解者ならば、

あー、自分とは、実は「ホログラム」だったということ、そういうことだ。

おー、ホログラムとは、なんと軽そうな・・!(笑)


いやいや、そんなはずは!?・・という反感があるかもしれない。

そう、私は今ここに存在している・・という感覚があるからだ。

わたしは在る・・という感覚は、人間としての普遍的なもの、自意識というものだ。

しかしながら、わたしは在るが、全体から分離した肉体個人があるという見解は、

今観てきたように、

自分とは、無限の空(くう)に浮かぶホログラムであるというのが妥当であるならば、

さてそのホログラムの・・・どこに、私という、個人という「実体」があるだろうか?


人間も含めすべての物質現象の、

99.999・・99?%、空(くう)であり、

残りは全て、活動する微細エネルギーだとすれば、

私個人とは、単に空(くう)の展開せる次元の幕に投影されたホログラム、と、

そういう結論になるではないか。

実際、投影映像よりも、さらにスクリーンである多次元層を展開する「空(くう」そのもの

そういうことになるではないか。




わたしは、決して分離した肉体個人ではなかろう。

『肉体個人だという認識、癖の思考、観念』があっただけの話である。

また、そうでなければ3次元的世界はすぐにも消えていただろう。

・・

考えるよりも、今在るまま、それを単にそのまま観ることが推奨される所以だ。

バカバカしいほどに単純だが、社会の様々な迷妄観念が覆いかぶさっていたせいで、

人によっては何世にも渡って、楽しくも苦しくも騙されてきたわけである。

癖になった世間思考や偽の常識観念を外す努力は必要であるものの、

気付けばすぐそこに出口が見えてくるだろう。




五感に映しだされた森羅万象、あらゆる事象や事物、

わたし達の手足や、その目の前の諸物も、99.999・・・%が「空(くう」。

あとは法則や意識、意図による、微細なエネルギーの活動なのである。

それが多次元的に展開して全てが映しだされている。

本質はそれだけ。


なんという単純さか。

そして観念、マインドはなんと多様で複雑なんだろうか。

しかしながら、複雑さ、多様さのその中に真実はあり得ず、

ただ、ひとつという「それ」、

何でもないものこそが、何にでもなるという単純さこそが、あらゆる全てなのである。

全ての全ては、空(くう)でこの瞬間につながっている。

あるのはそれだけ・・・。



本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

新年おめでとうございます。

尚御覧の方々に・・、気づいたことや感じたこと等、その気になればですが、気軽にお話しいただければと思います。難しいものは何もないし、何の損得もありません(笑)


元ひとつ

2013-01-27 10:08:10 | 宇宙的気付き

普段我々が<私>だと意識している『わたし』は、この時空世界に生れてから次第に確立されてきた・・自意識、自己意識のことである。

 

通常、人は赤ん坊のころのことはなかなか思い出せず、大人に成長するにつれて増える記憶とともに次第に自己意識を育んでゆくものだし、

 

もし、人にそれらの記憶が無ければ、その人の自己アイデンティティなど定義すら出来ないはずであろう。

 

それは、例えばわたしは・・・、私の「人生での記憶」を元に「わたし」というものを自己定義しているということである。

 

あなたはどうだろうか。

 

普通にいう、わたし・・とは、実際にはこの人生での諸経験とそれに付随する想いや感情の記憶のことである・・・といって良いだろう。

 

例えば記憶喪失のように、人がその自己の記憶一部を何かの要因で失うか、あるいは忘れてしまうならば、

 

もはや普通にいう自己人格の定義が出来なくなることはよく知られている。

 

記憶が無ければ、要は「わたしは誰?・・・ここはどこ?」 ということになるのだ。

 

それは、

 

『私は誰だ?』 という問いかけが可能な 『意識』 は存在しつつも、

 

よって立つところの記憶を失って、自己の一般定義が出来ない有様のことだと言って良いだろうか。

 

人間がこの世界に赤子で生れるということは、この状態に似ているのである。

 

すなわち赤子は、自己認識を生みだすところの「意識」はあれども、全く記憶が白紙の状態で生れて来るということである。

 

たまに自己意識が多少発達し、かつ素の意識と同調している過渡的時期、すなわち幼児期に、いわゆる前世の記憶を思い出す場合もあるが、

 

この世界ではその多くが多次元的な自己意識の記憶を封印した状態で生まれ、あるいは終生思い出すことなく戻る場合が多いだろうし、

 

またそういう設定での体験学習の為の時空元であったとも言えるだろう。

 

しかしながら、今はもうそれが変わりつつあり、人類意識も他生に渡る自己の意識に拡大しつつあるのが現状であると言えよう。

 

宇宙文明やらUFOやら霊的世界の知識の浸透やら、多次元世界の可能性の認識やらも、その意識の拡大、魂レベルの気付きの延長にあるものなのである。

  

・・・

 

赤子には 「俺だ!・・私よ・・」 等という特定の自我意識がなく、そのまま生きている意識、ここでいう<素の意識>だけがあるということが言えるだろう。

 

あなたもご自分でそうであったし、また親御になれば自分の赤子を観て合点がゆくかもしれない。

 

赤子の『素の意識』の状態を深く観ずれば、それは実際に神々しいものを感じざるを得ないはずだが、普通はなかなかそこまで理解出来ないかもしれない。

 

全くの無防備の生命に関して、無条件にかわいい、愛らしい、ほほえましいと感じることもあるだろうが、

それは実のところ、

赤ん坊という、その無条件の存在形態からくる神々しさについての断片的な理解なのだと言えようか。

 

赤ん坊には当然ながらその時空点に生れてからの記憶があるわけもないが、

 

それはまたそこを出発点として貴重な体験をすべく、『魂意識』が降下し、敢えて真っさらな状態からスタートしたということである。

 

その赤子の有り方は、無意識とも言われるような元々の素の意識の波動域から、無限小・無限大を超えるところの周波数帯域まで拡大する『意図』を示しているといえようか。

 

ある意味で、宇宙創生の第一原因としての、

 

われ有り!・・であり、  わたしは・・生れたよ!・・なのである。

 

全包容的普遍意識、即ち神、創造主、あるいは根源意識そのものが、敢えて多方面に発した個別の光というべきものが「魂・意識」と言われるものであるが、

 

その「魂・意識」とは、この多次元宇宙というか、無限なる自己の姿の投影というか、存在諸世界というか、そういう創造の観察・体験をするための<分化された神>というべきものである。

 

赤子を観るということは、その 分化された神 をより解り易く観ているということだ。

 

一は すなわち 多なり・・・・

 

元はひとつであるからこそ、無限に展開が可能である。

 

また無限もまた元はひとつであるが故なのである。

 

もっとも大きい、あるいは真実に近いところの、<あなた>の定義とは、実はそれなのだ。

 

意識が拡大するその程度に応じて、様々な転生の記憶、様々な『わたし』の在り方に気づき、あるいは云うならば・・思い出してゆく。

 

そのそれぞれの<わたし>という膨大な数の云わば「光の分化」を、

 

それ即ち<自ら>であると自覚する方向が霊的進化と言われる大道なのである。

 

本質において、

 

あなたは・・・即ち・・わたし・・というのはそういう意味である。

 

好きや嫌い、右や左、自己や他人、上や下、女や男、富豪や貧民、

 

不幸や幸福、始めや終わり・・・・それら全ての二元性は、・・・

 

それを体験するためだけの、あるステップにおける遊戯の仕組みのようなものである。

 

赤子から始まり老人となるような人生、様々な魂の転生は、本来それを楽しく経験するためのものである。

 

それをどうしてか、こうしてか勘違いして来たのが今までの、どこか苦しき人類文明であったと言えようか。

 

しかしながら、

 

人々の表面的な姿態、地球表面の出来事、世間・世相をみるならば、

 

未だ、自己がどこから生じているのか、そんなことにも理解至らぬ者も多く、人殺しやら戦争やら嘘の政治やら、ごく一部にで敢えて騒ぎに騒ぎを重ねている風に見えるだろうが、

 

残念ながら・・・それは最後の乱恥きお祭り騒ぎのようなものである。

 

山 川 草 木、国 土 悉 皆 成仏・・・、

存在諸物、鉱物、植物、人類皆とも、元はひとつ、本質において、あなたは・・・即ち・・わたし・・である。

 

好きや嫌い、右や左、自己や他人、上や下、女や男、富豪や貧民、

 

不幸や幸福、始めや終わり・・・・

 

それら全ての二元性の為のお拍子、祭囃子(まつりばやし)の楽曲は今まさに消えつつあり、

 

新たなるステージが立ちあがって来ている。

 

そのステージとは、

 

あなたやわたしの、それぞれの 素の意識 から湧きあがるものである。

 

本当の大人の知恵と、赤子のような素の意識の輝く時代である。

 

余計な銭や金や富や地位や名誉、権力や支配力等・・・

 

持ってゆけない物ばかり、

 

重く沈む想いばかり、

 

まったくどうでも良いものが、どこか人生の目的になっていたような時代、

 

そういう流れに流されていた時代、降下次元ともいわれる時代、

 

確かに、それもまた貴重な経験であった。

  

・・・・

 

しかし・・・・古きそれは・・今はもう、

 

既に終わったことである。

 

ところで、あなたはどうだろうか。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 


人間とは何か・・(1)世界でただ1つ

2012-12-09 09:50:42 | 宇宙的気付き

我々はいったい何であるかのかと言えば、

 

実は何者でもあり得ないし、

 

またどんなものでもある存在と言うことが出来る。

 

 

一体どういことかと言えば。

 

我々すなわち人間には「意識」があり、

 

意識によってその都度自己を規定していることがわかる。

 

つまり、例えば・・今・・我々は・・・、

 

男であり、女であり、ある時に生れ、そして人生と言う仮の時間の経過に従って様々な経験を重ねつつ、

 

今何歳でどういうことをして、どういう心境でいる

 

ということ等を自覚しているだろう。

 

・・・・違うだろうか。

 

またそういうものの『記憶』によって、

 

自分自身の個性というかアイデンティティを感じているだろう。

 

そういう、人とは異なる人格としての自分を感じているはずである。

 

例え自分のことや環境が好きでも嫌いでも、満足していようが不満であろうが、

 

聖人君子であろうが、極悪人であろうが、厚化粧のおばさんであろうが、頭てかてかのおじさんだろうが、参考書に見入っている学生さんだろうが、

 

調子のよいことばかりが商売の政治屋さんだろうが、それに騙される役目の?いわゆるB層?というその他大勢の人だろうが、

 

 

何であれ・・・・・そういう

 

・・今の・・自分を<認識>していることだろう。

 

深い・浅いはあろうとも、人間であれば自分が自分であると認識している。

 

  

赤子として現われた場所、生れた両親という条件、それぞれの家という特殊性、そういう条件や生存する時空連続体での様々な経験を経て、

 

他人とは完全に違う人生を送ることになっているからこそ、

 

それぞれ全く異なる人格としての自己アイデンティティが生じるのである。

 

・・・・

 

人は現われ出でた個性であり、また宇宙にただ1つの存在としてのあなたである。

 

何年か前に『世界に1つの花・・』とかいうスマップの唄があったと思うが、

 

簡単ながら、なるほど云い得て妙である。

 

それを、所詮人はバラバラ・個別・分裂だと感じる段階もあるのだが、

 

逆に、宇宙でただ1つということは実にすごいことなのであるが気付いているだろうか。

 

まさか全く同じ時空・意志・経過・環境などあるはずもないことは、多分直感的に把握できることである。

 

そして宇宙というか多次元世界と言うか、存在諸世界というか、3千世界というか、ありとあらゆる舞台・ステージにおいても、

 

あなた、わたし達は全てが・・・・

 

唯一・・・・の存在なのである。

 

・・・・

 

適当な意味で、人はそれぞれである、とよく言われるように、

 

其々がそれぞれの特殊な自己アイデンティティを感じているのであるが、

 

それはまた、あまねく存在している者達の・・・普遍的な・・・特殊性・・でもある。

 

あなたやわたし達や、その他社会の大勢の人々、よその国の人々、あるいは当然のことながら、よその生命圏すなわち惑星や星々でもそうであるが、

 

それら全てが特殊な自己アイデンティティをもっているということだ。

 

其々が全て異なっているということもできるのだが、

 

・・・・

 

しかしながらここには完全に共通の事項がある。

 

それは何だろうか?

 

それはそれぞれの宇宙でただ1つの特殊性であると同時に、

 

ただ1つという特殊性の現われの元にある普遍性である。

 

自然界、人間界を通じて感得できる1つの真実とも言えるだろうが、

 

あなたも気付けることだろう。

 

それを簡単に言うならば、

 

多即一  (・・・多は 即ち ひとつ であり)

一即多  (・・・ひとつ は 即ち 多である)

 

ということである。

 

また、同じく

色 即是 空 ・・・・・ 色(しき)はすなわち空(くう)なり)

 

空 即是 色 ・・・・・ 空(くう)はすなわち色(しき)なり

である。

 

・・・・

 

それぞれ創造されたもの中にこそ、宇宙でただ1つの根源があるということであり、

 

あなたやわたし達、そして全ての現われ出でた存在、あらゆる創造物と言われるものは、

 

まさしく・・・ただひとつのそれであるということである。

 

この原理は、どこに行こうと、何であろうと、花であろうと、石であろうと、地球であろうと、太陽であろうと、無数の恒星でろうと、

 

・・・・同じである。

 

全てが兄弟姉妹であるという表現はそういうことを簡単に示す言葉である。

 

これこそは、理想的な観念やその都度変わる思想等というものではなく、

 

宇宙大自然から感得できる・・すべての根本に本来ある・・・

 

事実、リアリティなのだ。

 

例えば、人の言葉や、世間のざわめきや、社会の激動や、地球や太陽系の変動なども・・・本来は枝葉末節なのである。

 

何を騒ぎ、何を怖れ、どこから逃げる必要があろうか。

 

様々な怖れの観念を見破り、世間という映画館に映写されるこころ模様を読み解き、

 

ひとつなる・・・それぞれのわたしを・・・観る意識的努力以外に、

 

今すべきことは無いはずである。

 

願わくば、

 

常に、今この時、この瞬間しかないことを、

 

多くのわたし達が気付けることを。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。


今の世界のベクトル

2011-05-22 10:48:53 | 宇宙的気付き

この世界は、例えばディズニーランドのような甘いものではないが。

恐怖というスリルとサスペンスを伴った、それでも面白おかしき、1つの体験ワールドと考えていいかもしれない。

 

この地球型3次元世界は、当然ながら映画やビデオのような2次元平面ではなく、しっかり3次元的な広がりと感触をもってはいるが、実のところは、我々がその「意識を投じている」ところの1つの体験ワールドといえるのだ。

 

我々すべてそこに意図して参画しているのだが、全くといっていいほどそれに気づいていない人が多いだろう。

 

そういう意識の人々は、多分偶然生まれて偶然死んでゆく程度に感じていることだろう。

わたしもそうだった。

多分それが世間常識としてまかり通っているのではないだろうか。

 

あなたもそう感じるだろうか。

 

生とは・・・、死とは・・・、生きがいとは・・・、それらを含む大きな計画とは・・・

そんな話をすれば嘲笑の渦に巻き込まれそうな世の有様は、まさに古(いにしえ)の堕落した都、ソドムとゴモラの逸話のようではないか。

 

生命や自然より人間の欲得経済のほうが大事だという、極めて幼いかつ近視眼的想いの群れが未だ「頑張っている」が、どうしたものだろうか。

日本で起きた国内3度目の核の大放散、フクシマの事故。

「福」の「島」たる「日本」からの核放散は、

 

これは極めて象徴的な事象である。

いつの世にも物質の元素レベルの崩壊は、

その舞台の大きな節目を示しているのだ。

 

福島の事象は、

人間と大自然、あるいは人為と天意の交錯した、

摩訶不思議な現象を呈しているではないか。

 

 

これは、日本列島という雛型に現れた一大「警告」であり、

 

また人類が曲り角にあることの明確なインジケーションではないのか。

 

 

この角を曲がりきれない場合、機械文明という加速の付いた車は、

 

道を外れて崖に落ちることだろう。

 

 

よしや、たとえ道を外れ崖下に転じたとしても、

 

そこからふわりと浮かび上がれるほどの軽やかな意識であればいい。

 

 

角を曲ることが出来るのは、どこかの代表や政府や権威を待つような3次元的諸現象に自己投入した人々ではなく、

 

一人ひとりの自らの想念に気づく人々なのだ。

 

それぞれのあなたは、

 

あなたが何者であるか?という自己認識によって、

 

何がどうであれ、常にまさにその世界にあることに気づくだろう。

 

今はこの古い世界に同調した観念で振動している「あなた」という意識も、

 

この世界の周波数帯が、あたかも地デジへの移行のごとく、

 

高い周波数帯域になった場合には、

 

同期外れを起こすことになるかもしれない。

 

それは意識的、あるいは霊的現実なのだ。 

 

それぞれに全責任があるのは、

 

他者ではなく、それぞれの わたし・・である。

 

それは創造主的存在としての真骨頂でもあることを忘れてはならない。

  

 

あなたは自らの想いを観ることが出来るだろうか。

 

自らの想いの中にある影、恐れや闇を見つけることが出来るだろうか。

 

そうして、闇や恐れすらも、

 

本当の「わたし」である、自らの大いなる意識体の手の上で、

 

うわはは、と・・・遊んでしまうことが出来るだろうか。

 

それとも、

 

同じ意識次元、二元性のなかで恐れから逃げまどい、

 

恐怖を自ら対象化しつつ、

 

自ら逃げ惑う 鬼ごっこ遊び を続けるのだろうか。

 

 

恐れや闇は外にはなく、

 

個としての意識の内面にあることに勇気をもって潔よく気づけば良い。

  

そうすればそれを「観る」ことでが差し込んでくるのだ。

  

観ることは光がさすことと同義である。

まさに宇宙の在り方もフラクタル、相似であろう。

 

いわゆる神が観ることで世界が展開する・・。

 

あなたが鏡に映ることで、自らを見ているように。

 

 

「解脱」とは、自らの「想いの影」 「想いの闇」  から脱することであり、

 

もともと存在しないことに心底気づくことである。

 

確かに、こころの底の底まで行かなければ見つけようもない。

  

あなたの世界は、常にあなたのこころ、想念という動的フィルターで投影されている。

  

これに例外も特例もないのだ。

  

人は皆、3次元的肉体表現をも行うことが出来るところの、大いなる意識的存在であるからだ。

 

 

 Tulips

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。

 

尚、次回は内面の導きや大いなる魂との関係に気づかされる個人的な意識的体験について記事にしようと思います。

 


今、この瞬間の「わたし」を大切に

2011-04-17 14:16:34 | 宇宙的気付き

我々は今生きている、・・・これは事実だろう。

これすらも疑うことは自らの現実からの逃避とも言えるだろう。

どこかの何かの別の世界ではなく、 「今・ここに生きている」 こと、

 

人はそれ自体に向き合っているだろうか。

いつか、どこかではなく、「今、ここ」 に 「生きている事実」にである。

 

それを覚者マハラジは 「わたしはある」 という言葉で説明している。

今、あなたはある・・・とは他者からは勝手に言えないかもしれないが、

「わたしはある」

とは、どこの誰であろうと、その人にとって間違いなく言える事実である。

ある意味で人間存在としての、基本中の基本のようなものだ。

 

そうはいっても、

あなたやわたし達が「向き合っている」のは、社会という外の動きについてばかりであり、

その観察主体としての 「わたし」 に向き合っているとは言えないかもしれない。

忙しさが有意義と勘違いしている部分もあるかもしれないし、

結果として、

その騒がしい社会に対応するためだけに、それぞれの「わたし」の人生を送っているのかもしれない。

郷においては郷に従うこと、人は社会に対応せずば生きてはいけない・・ということは、誰にもうなずけるものであるが、

そうして生きてゆく為の、

当の根本的存在である 「わたし」 をいつから忘れてしまったのだろうか、・・・・

そんなことを感じるこころの余白もありはしないのは他人のせいだろうか。

 

今生きて有る・・・この根本的な事実に向き合っていること。

それぞれの「わたし」自身に、「わたし」の意識的な注意を注いでいること。

ここにこそ、古来から続いてきた修行というもの本来の意味がある。

その意識的行動によってこそ、自分自身を少しづつ理解してゆくことができるのだ。

 

 

汝自身を知れ・・という言葉は、哲学的テーマでも将来解決されるものでもなく、

今生きている意識的存在たちが、常に向いているべき方向を示している。

それは大いなる意識の流れに沿う「道標」のようなものであろうか。

 

わたしは否応なく、常に「わたし」自身であること・・・に気づいていること、

それは乗り物である肉体を精査することでもなければ、DNAを組み替えることでもない。

それは個人単体主義でもなければ、自己中心主義でもありはしない。

それは唯心論で固める哲学的観念体系でもない。

 

「汝自身を知れ」ということに対する1つの答えは、

わたしは有る・・・という有り様を生ぜしめているところのコンテクスト、

包括している法則、フレーム枠、あるいは原理であるところの、

根本的な「意識」自体に、まず気づくというこだ。

「意識」は、人間的表現から言えばそれは「魂」とも言えるだろう。

少なくとも、より大きく広い生命のあり方に気づくこと。

これが、ここでのこの物質次元といわれる世界の住人たるものの

謂わば関門ではなかろうか。

 

あなたという存在は、肉体でも、こころでもなく、いわゆる霊だとよく言われるのはそういうことなのだ。

どういう形、そういう重さ、どういう形態・・ではなく、

それを現わすところの根本原因が、コンテクスト、あるいは原因そのものが、本来の「わたし」ということだ。

 

ここでは、それを「意識」と表現している。

宇宙という無窮のフィールドにおいて、自ら個別化した意識は、例えば、鉱物、植物、動物という形態をまといながら進化するプロセスにある。

個人としての意識的な意識を有する段階に至った人間は、

魂の輪廻というサイクルをも経た後に、大いなる大海に再びフィードバックするプロセスにあることに、自ら気づくことができる存在なのだ。

しかしながらプロセスを経るとはいえ、時間、空間はその舞台表現にしか過ぎない。

 

人間においても「意識」が無ければ五感の情報も、肉体表現も何もあったものではないではないか。

動物においては意識の発露が人間ほどではないだけのことだ。

鉱物・植物・動物も、生命の仲間であり、大いなる意識の表現の階層なのだ。

例えばあなたの家の犬や猫など、ペットの見つめる瞳の中にも、大いなる意識が感じられるだろう。 

 

汝自身を知れ・・・という「汝」とは、

あなたやわたし達の世界を、あなたやわたし達の世界として存在せしめている「意識」である。

あえて言うならば、「意識」は原因であり、「現象」は結果である。

意識は現象の中の五感感覚では捉えられないが、

その「現れ」を観ることでそれに気づくことができる。

 

意識を観ることは、現象を観察することであり、その背後にあって現象をも生ぜしめるところの、

様々な想いを観ることでもあるのだ。

人間として、自らの「想い」を観ることは、

これほど重要なことなのである。

 

実のところは、

我々が大いなる意識であるがゆえにこそ、

意識の作用である想念を観ることができるのだ。

原因にアクセスする方法が所謂内省であり、自己観察である。

そうすることによって、自らが大いなる意識の視点に同調してゆくことになるのだ。

大勢の他者をいくら観ても批評してもだめだろう。

 

昔から精神の修養といわれるもの、人間の徳を高めると言われるもの、

そして禅などの修行は、

あるいはその道程で得られる悟りや解脱といわれる意識レベルは、

様々な観念や知識の先にある意識に気づき、

その元である、「大いなる意識」に自ら戻るプロセスの、とある段階のことを意味する。

これは昨今言われる精神世界の流行語?次元上昇やアセンションとも関係がある。

そういう意味では、生命という様々な段階の意識たちが、

大いなる意識に戻る過程で現れる世界というのは、

その時々の「意識」の段階的色づけ、いわば想念の周波数にふさわしい、

ちょうどそのとうりの世界であることだろう。

 

わたしは何者か?・・と問いかけ、応答しながら展開する都度現れる、万華鏡の映像のようなものかもしれない。

「わたしはわたしである」・・・という意識的問いかけ自体を生ぜしめる、その根本的な気づきが無ければ、

物質的といわれる世界も霊的といわれる世界も生ずることはないのだ。

 

 

意識の光に投影され映し出されるのが、外といわれる投影世界であり、

その大きく集合した有り方が、今の我々の地球人類という所帯であるといえるだろうか。

 

この地球の上の文明社会も、その集合した意識たちの想念によって出来ている。

外の世界を説明しようとする科学や、それらを操作する技術から直接生ずるものではない。

 

我々が信じるところ、あるいはいわゆる「意識する」ところに従って、

変幻自在の世界が現れるのだ。

 

そして、

誰にもある 「わたしは有る」 という感覚は、

意識として、何にも依らない第一原因として有るということを示しているのだ。

まず、その大切な根幹を今思い出す時期に来ているということだ。

 

 

あなたは今どう感じるだろうか?

感じるとおりに現れるのがそれぞれの「わたし」の世界であり、

その大勢の「わたし」の集合がこの文明世界であり、

さらにさらに、それは大きく宇宙まで続いている。

一は、即ち多なり

宇宙とは、

つまるところ、

あなたやわたしたち、意識的存在の遊ぶ世界である。

 

本来遊びとは、誰でも子供の時にはそうだったような純真な有り方、時間も空間も気にしないような有り方、そしてそれこそが本来嬉しく楽しいことではなかったか。

 

素のあり方とは、自然のあり方であり、そのシンプルさの中にこそ、

極めて複雑でかつ無限の多様性を見ることができるのだ。

大自然と調和せずして一体何ができるというのだろうか。

 

大自然とは、アルプスやナイアガラのような景勝地のことではなく、

今我々を取り巻いてある、時空、水、太陽、土、大気、草花などであり、

どこにでもある、当たり前の自然のことである。

人々もそこに含まれるのだ。

 

それにまず感謝の念を発することこそが、

天地・宇宙創造の醍醐味を感じている、あるいは目撃しているところの、

意識的存在たる人間の本来の喜びでもあるだろう。

 

 Chrysanthemum

本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。