いにしえの世に、己の発見に努めた、英知に溢れた先達が、この日本にも大勢いました。数え上げたらきりが無いほどの、幾多の先輩の言葉は、時代を超えて確実に、今の私達の灯台となっています。
時代は進むべく進んできました。周りを見渡せば、あらゆる想念や感情、それに伴う現象が溢れに溢れ、これ以上の欲や不信や無知と、物質への自己同化は、演じる者も、観るも者も興ざめとなるかもしれません。この宇宙は、悠久の意識の中で、すばらしい己を演じ続けるためにこそ、悲劇や不幸のような観念もホログラムのメニューデータに載っていますが、そればかりの世界はやりすぎであり、実際にあなたも私も、誰も面白いとは思わないものです。まさに、今の人類の集合意識的な総合状況は「過ぎたるは及ばざるがごとし」とも感じます。
そろそろ頭を冷やして己に目覚めるべき、このステージにおける最後の時かもしれません。
外の世界に身も心も投じて、あたかも現実世界という映画のスクリーンの人物になりきってしまうことだけでは、その映画の意味や感動を、真に味わうことが出来ないでしょう。自分が何者かを常に問いかけながら生きているのは、その映画から自分で自分を抜け出そうとしている証拠です。外の世界を真に楽しみ、感動を得られるのは、観客席にいる人間達です。スクリーンという二次元平面に入ることは本来出来ない相談ですが、どうしても味わいたいと言う切なる気持ちがそうさせるわけです。しかしながら、今は悲しくともつらくとも、映画のスクリーンに投射している意識を、それを観ている意識に戻す時期であるとも感じます。
子供達は、天真爛漫にせいいっぱいに遊びほうけることが大切ですが、次第に大人になってゆくにつれ、その子供達を愛をもってしっかりと観ている、親の意識になってゆくものです。親の意識になって、子供達と一緒に遊ぶことは、また違った楽しみ、学びになるために、何も心配は要らないのではないでしょうか。
大人になってゆくということは、自分の中にある心の働きを、しっかり観る事が出来る己になってゆくことであると思います。
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<無位の真人>
赤肉団上に1無位の真人あり、
常に汝等諸人の面門より出入す。
未だ証拠せざる者は、
看よ、看よ。
(臨済禄) 永井 政之監修:禅の言葉 より
肉体には、時間も空間も越えて、常に真実の人間性が存在し、
いつでも皆の面前(眼や耳、鼻、口、皮膚)を出たり入ったりしている。
まだ、この真なる自分に気がつかない者は
しっかり看ることだよ。
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この看ると言う言葉には、なるほど、意味があるようです。
看るとは、下記の意味があるようです。
「看る」とは「見る」だけでなく意識的に観察し、何か変化や異常があった場合にはそれに対処するアクションを起こす事を意味している。