悪い倉

 「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。
 良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。……」
 そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」(マタイ12:34-35,38-39)

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 イエスとパリサイ人・律法学者との問答。

 「悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出す」。
 私は思うのだが、そこでイエスのお話を遮ってでも、「主よ、そうです私は確かに悪い人です」と言えなかったのだろうか、この人たちは。

 自分が正しい者で品行方正だと思いこんでいる上のような人たちに、「しるし」は与えられなかった。
 自分の倉が「悪い倉」なのだということを、見つめよう。
 見つめて、そしてその自分と和解しよう。
 イエスはなにしろ神なのだ、このお方だけが唯一「良い人」であり「良い倉」をお持ちなのだ。
 自分との和解は、この十字架のイエスを仲介人としてとして初めてできる。

 ちなみに、このイエスは、山上の説教でも、下にあるように人々に「悪い者」と呼んでいる。
 「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。……」(マタイ7:11)。
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