確立した律法

 「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。」(ローマ3:31新共同訳)

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 信仰というのは一見、律法からの解放のように見える、いや、そう言えなくもない。
 律法を「檻(おり)」に見立ててみよう。
 この檻の中でがちゃがちゃやり続ける。
 やれどもやれども、檻はびくともしない。
 なお、この檻を揺すり続ける。
 ひたすらがちゃがちゃ、音がするばかりだ。

 あるところで、檻の中で尻餅をついて降参する。
 「あきらめよう」。
 すると案外、檻があろうが、不自由はない。それどころか、より自由ではないか。
 もう、音もしない。
 檻は確かにあって、そして檻を受け入れる。
 この「檻を受け入れる」というのが、律法の確立ということだ。

 上のたとえでは、「あきらめ」と書いた。
 これは、自力で罪 ( sin ) からあがなわれようとする悪あがきをやめることだ。
 どうやっても、無理! と。
 するとそこで、イエスの十字架が罪をあがなってくれる。
 律法自体は常にあり、ただ、それについてあきらめがつき且つそれがかえって有り難くなる。
 だから、十字架のイエスを信じる「信仰による義」は、律法に大いに関係してくる。
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