神の奴隷

 「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。
 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。
 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」(ローマ6:20-22新共同訳)

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 小説「ミーナの行進」(小川洋子、中央公論社)。
 画に描いたような壮麗な豪邸、その中の住人のひとりである社長夫人(ミーナの母)、彼女は、まあ古い言葉を使うとデカダンな生活を送り続けている。
 というより、そうすることを余儀なくされている。
 そういう状態が、上に言う「死」だ。

 「罪の奴隷」。
 まずは「罪」の自覚からだ。
 自覚し、十字架のイエスに赦していただいて「神の奴隷」となる。

 「神の奴隷」という語句はレトリックで、神の下での自由のことだ。
 それがやがて、永遠の命へとつながる。

 罪と倫理・道徳とは、全く異なる。
 いや、少しばかり関連はあるかも知れない。
 そういったもの(要するに律法)に照らし合わせて、自分の悪さ醜さを徹底的に自覚する。
 そのときに、それを完全に赦してくださる十字架のイエスが見えてくる。
 のほほんとしてては、これは決して見えてこない。

 「神の奴隷」、要するに、絶対者であられる神がいつも暖かく見守ってくださるということだ。
 そこいらのおやじではない。絶対者だ。

 社長夫人は、この神を完全に見失ってしまったように見える。そして罪を罪とも思わない。
 小説で、彼女には明確なハッピーエンドが与えられていない。

(ちなみに作者の小川洋子さんは金光教の信者だそうなので、聖書と小説の筋とをあまりパラレルにすべきではないかもしれない。)
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