誇り

 「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」(ローマ3:27)

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 「私たちの誇り」。
 当時のユダヤ人は、自分たちの先祖ははアブラハムだと誇っていた(マタイ3:9)。
 今日もまた引用したロマ書は、ローマに在住する信徒たちへ宛てたことになっているから、「私たち」は、ローマの人々(とパウロ)だ。この人たちにとっての「誇り」はアブラハムでは、ない。
(ではなんであろうか。)
 ただ、誇りとするものの対象があると、「行い」が伴う。
 今、ラジオで野球を聴いているので野球でいけば、ジャイアンツに「誇り」を感じていれば、ジャイアンツをスタジアムで熱狂的に応援する。
 というか、「応援行為」によって「誇り」を実感する。
(私は旧近鉄バファローズの熱狂的ファンだった。)

 律法という「行いの原理」によって、アブラハムが先祖という「誇り」を持つ。
 しかし、イエスの十字架は「信仰」をもたらした。
 「信仰の原理」は、誇りを取り除いた。

 イエスの十字架によって罪赦されたことがはっきりすると、自分の中に誇るほどのものは何もないことに気付く。
 ジャイアンツや旧近鉄バファローズは、罪の赦しとはまるで関係がない。
 アブラハムが先祖だと言うことも、同様、罪の赦しとは関係がない。
 罪赦されることは、誇って身構える必要がないといことだ。つまり、罪の赦しの中の一部分にあたる。

 「行いの原理」はその所以に誇りを見いだすのに対し、「信仰の原理」は誇る必要性を溶かしてしまう。
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