転回

 「第二は是なり「おのれの如く汝の隣を愛すべし」此の二つより大なる誡(いましめ)はなし」(マルコ12:31文語訳)

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 今、いくつかの本を並行して読んでいる。
 うち一つの本がキルケゴールを紹介している。
 上の聖句の引用とともに(上のように正確なものではないが)。
 その本によれば、キルケゴールは大略次のことを書いているという。

 「汝」という言葉は永遠からの呼びかけである。この「汝」になろうとするならば、是までの自分の要求中心の人生態度から、永遠からの要求に応えることを中心とした人生態度へと、転回させなくてはならなくなる。

 「永遠からの呼びかけ」というのは、単に「神」でいいと思うが、うまいことを言うものだと思う。
 ただ、「転回させなくてはならなくなる」というと、自力による「転回」のニュアンスを感じる。

 端的に「転回する」だし、更には「(いやでも)転回せざるを得なくなる」というのもあるだろう。

 「転回」というのは、「回心」とか「新生」と同じ意味だと思っている。キルケゴールがどう思っているかは知らない(訳の問題もあるだろう)。
 内村鑑三は、自身の回心は漸進的なものだったと、その体験を一冊の本に綴っている(余は如何にして基督教徒となりし乎)。
 端的に回心するのだが、「いやいや」の部分もあり、「自力」の部分もあり…、という貴重な記録である。

 さて話を戻して、では「転回」するとどうなるか。
 「汝の隣を愛すべし」の「隣」が、家族や友とか、ともかく特定の間柄の誰かではなくなる。
 では「隣」とは誰になるのか。
 一番分かりがよく実行しやすいたとえなのだが、電車の中で赤の他人のおばあちゃんに席を譲ることだ。
 このおばあちゃんは、所詮は赤の他人。
 これら赤の他人全体が「隣」だと、今読んでいる本は書いている。
 ルカ福音書にも、よきサマリア人のたとえがある(ルカ10:30-37)。
(このサマリア人は、全くの赤の他人を救った。同胞を救う立場にいる人々が背を背けて立ち去るのとは対照的だ。)
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