求める犬

 「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:6-8)

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 実はこの箇所は、今年の5月16日と全く同じだ。
(すっかり忘れていた。)
 こういう事を、その日私は書いている。
 「求めなさい。そうすれば与えられます」、これは有名だ。では何を求めるのであろうか。今まで私は、自分勝手な願望の類、これを求めればイエスは何でも与えてくださると思っていた。
 とんでもないあやまりだ。「聖なるもの」を「求めなさい」ということだと、今は思う。そう解釈しないと、6節が文脈上浮いてしまう。……」
 引用しつつこれを書いている今も、そう思う。

 聖なるものを実は喜んでなんかおらず、憎んですらいる一群がいる。
 犬とか豚と、イエスは表現する。
 そいつらは、聖なるものを与えようものなら「それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂く」。
 例えばパリサイ人、律法学者。
 彼らは律法を、高潔かつ犯すべからざる道徳律としか考えていない。そして聖であられるイエスを誤解し、憎む。

 しかし、たとえ犬畜生であろうが、聖へのあこがれが実はあるはずだ。
 犬であっても、求めるならば聖なるものを与えられる、イエスはそう仰る。
 ヨハネ福音書で登場する議員ニコデモ、彼がそれに近い。
(他の議員は、誰一人イエスを肯定的に見なかった。)
 犬や豚にすら、門は閉じられては、いない。
 だから福音なのだ。
 私はかつて、犬だった。
 その犬は「求める犬」になった。
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