疑う

 「すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
 イエスは「来なさい。」と言われた。
 そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。」(マタイ14:28-32)

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 信じるその先にあるもの、「神の国」。
 ところが、そこに至までの道中、幾度も視界を遮るものが現れては、その先にあるものをひどく疑う。
 私は99年、この聖書を手にした。以来今07年に至るまでのこの8年間、一体どれだけ疑うことを繰り返してきたことだろうか。
 それでもこうして「生かされて」(ほんとにこれこそ「生かされて」だ)、聖書を手にし続けている。

 お調子者・ペテロをイエスが「なぜ疑うのか」とたしなめる。
 「信仰」が「薄い」と。
 「信仰がない」とは仰っていない。

 おそらく信仰というのは、「ある/ない」だ。
 種まきのたとえ(マタイ13:3-23)にあるように、「実を結ぶ/結ばない」のどちらかだけで、「不作」とか「八分咲き」というのは、こと信仰についてはないのではなかろうか。
 そしてこのことに関して判断するのは、神だけだ。間違っても、人ではない。

 「信仰が薄」くとも、あればいい。
 そして「疑う」ことは、あってもいい。
 イエスが舟へといざなってくださって、すると風はやんでしまう。
 その「イエス」から目をそらさなければ、大丈夫だ。
 「イエス」、それは疑う余地のないものだからである。
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