罪の奴隷

 「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」(ローマ6:15-18新共同訳)

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 「あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです」。
 まあ「従順の奴隷」、「義の奴隷」というのは修辞(レトリック)でしかないが、ともかくも、「罪の奴隷」状態からは解放されると、そのように表現されうる地点へと抜け出る。
 ここにいう「罪」も、もちろん sin 。
 「恵みの下」にある人は、そもそもが、「恵みの下にあるのだから罪を犯そう」という発想は湧いてこない。
 なぜなら、「奴隷」ではないから。解放されたのだ。「逃げ道」をあれこれ考える必要なんか、ないじゃないか。

 sin の奴隷、自分がこういう状態であることに、そもそも気付きもしない人が大勢いる。
 罪を言う割には「的はずれ」は人も、たくさんいる。
(教会では、「罪」は「的はずれな状態」だと教えると分かりがいい、とされる。)
 私も、うまく説明できず、悪戦苦闘している。演繹的には、無理だろう。
 ただ言えるのは、sin に気付き、それが赦されていることを知ると、あんなにも重かった重しがすっと消えてなくなるということだろう。「伝えられた教えの規準」は律法とは全く異なる性質のもので、それは自然と満たされている。
 もうひとつ、「罪の奴隷」から自力で脱走することはけっしてできないということだ。イエスの死という莫大な対価が支払われたこと、その本質が迫ってきたときに、くびきが腐り始める。
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