罪の意識

 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:20-22)

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 相当昔、教会の聖歌隊の練習で、暗い讃美歌を練習していた。
(「聖歌隊」に入っていた!)
 メロディーは短調(マイナー)で、ひたすら暗い。
 歌詞はよく思い出せないのだが、罪の痛みがどうのこうの、といったものだったように覚えている。

 「律法によっては、かえって罪の意識が生じる」。
 律法の機能は、正に罪の意識を生成することにある。
 この「罪の意識」が、入り口。
 すると、その人は義を求める。
 イエスは仰る。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)

 実際に、「満ち足りる」。
 何に? 「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」に。
 罪はそのまま残る。だが、「罪の意識」はなくなる。
 それで満ち足りる。
 罪の痛み、そのひたすら暗いところをくぐり抜けて初めてそうなる。


(追記)
 お気づきかもしれませんが、ロマ書が続いています。
 ネタに苦しみ続けていたある日、ロマ書を使ったら調子よかったので、それ以来ロマ書をてきとーに開いて、ちゃちゃっと書いてます。
 ラクしてます。
 しばらくは、ロマ書か創世記でいきます。
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