やましいところ

 「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。
 自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。
 わたしを裁くのは主なのです。」(1コリント4:3-4新共同訳)

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 表だって裁くことを避けることは、まあ、できるでしょう。
(でもとても難しいですね。)
 こころの中では、私などは、つぶやいたり裁いたりといったことが多いもんです。

 パウロは、自分自身をすら裁かないほどとのこと。
 やましいところがないのも当然でしょう。
 非難めいて書いているようですけど、違います。
 「自分と仲直り」、「自己受容」……、ことばは何でもいいんですが、救世主に救われた和解の結果、まあ自他を裁く必要がないのだろうと思います。
 私も、自分自身の弱さ醜さ、こいつらは認めた上で、こころの中でつぶやき裁き続けます。
 自認しているので、「人からどう思われるか」という自意識の部分は、大分「ラク」になりました。
 でも法廷はいやですが。
 いやですけど、相手側や裁判官の言動だって、私を損ないません。彼らは職業上または利害関係上、そうしているだけです。

 私を見ているのは、なにしろ絶対的なお方、神なのです。
 この醜い心も、もちろんお見通しです。何一つ、申し開きできません。
 上に「ラク」と書きましたが、ひらに十字架のお陰です。
 心中はこんなもんですので、かえってやましいところはないものです。
 表だった行動は、控えたいものです。
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