たがために

 「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。」(マルコ10:17-22)

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 俗に言う「金持ちの青年」の箇所。
 「金持ちの青年」なんてのは立派すぎるので、以降「ボンボン」と記す。

 ボンボンは、「えいえんのいのち」が欲しかった。
 「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには」、自分のものとしたいのだそうだ。
 それで、イエスに尋ねる。「尊い」とか、よいしょしてみたりもするボンボン。
 イエスはそっけない。「戒めはあなたもよく知っているはずです」。

 ボンボンいわく、「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております」。

 ボンボンはなぜゆえに戒めを守っていたのだろうか。
 自分が「えいえんのいのち」を欲しいから。
 「自分が欲しい」から、人を殺さない。
 「自分が欲しい」から、姦淫しない。
 「自分が欲しい」から、盗まない。
 そして「自分が欲しい」から、結果論で金持ちになった。

 「盗まない」のは、誰のためか。誰(た)が為(ため)に?
 「殺さない」のは、たがために?

 盗むと悲しむ者が現れ、殺すと多くの人が泣き叫ぶからではなかろうか?
 「盗まない」のは、概ね人のため。これは愛だと思う。
(「愛」と「愛情」とは、異なるような気がする。)
 「姦淫しない」のは、家族のため。これは、愛だと思う。

 ただ、誰しも専ら「自分のため」に、あらゆることを行っている。
 これは厳かな事実だ。
 私だって、自分のためを思ってしか、やっていない。
 人間には、真の愛はない。
(それで「愛」と「愛情」とが異なる気がしている。)
 なので「戒め」を、どこまで追求しても守りきれない。

 「自分のため」、そのことをはっきり気付いた上で行うのか、気付かずにやっているのか……。
 ボンボンは、後者だ。

 このボンボンは、なるべくして金持ちになり、当然に悲しみ立ち去る。
 イエスはこんなボンをも、いつくしまれる。
 このボンが「気付く時」が来るかも知れないのだ。神によって「針の穴」を通ることがありうる、しかも大いにありうる。
 イエスはだから、どの人をも拒まず受け入れ、いつくしまれる。
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