種は実を結ぶか

 「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」(マタイ13:19-23)

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 「御国の言葉(みことば)」が、その人のうちで「実」を結ぶかどうかについて、イエスは4パターンにカテゴライズなされた。

 まずその前に、そもそも「種自体が結局蒔かれなかった人」がいる。
 私たち日本人は、多くの場合、「種」の存在自体を知らない。
 私だって、知らなかった。
 ところでいつだか、「心の貧しい者は幸いです」に気付いたら、それが入り口、というようなことを書いた。
 こういう人々に、「種」はどんどん蒔かれ始める。
(「心の貧しい者は幸いです」自体が「種」で、それが「発芽」した。)

 「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます」……「種」の有り難み?が分からずじまいで終わってしまい、「種」が蒔かれた意味がなかった。

 「みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる」……おっちょこちょいのペテロタイプで、神々しい「種」を訳も分からず有り難がっているのだが、それゆえの苦難(迫害に限らない)があると、いともあっさり「種」を手放して楽になろうとする。いっとき楽になって、あとはなんとなく終わる。

 「いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない」……「種」は「この世(富:マモン)」からの「救いの手」であるから、どっちを選ぼうか迷っているうちに終わってしまう。

 「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人」……字義どおりだが、難解極まりない。


 さて、上にペテロを挙げた。
 ペテロのおっちょこちょいぶりは、例えばマタイ26:58-75。
 ところが、イエスが十字架で葬られしかし復活するや、例えば使徒3:1-8のように様変わりする。

 人間の中とは、あるいは「良い地」の部分もあれば「岩地」の部分もあり、ところどころはいばらに覆われている…、あるいはそのようなものかも知れない。
 ペテロの中にまんべんなく蒔かれた「種」のうち、「良い地」に落ちた種が結実した……、どうもそんなような気もする。

 「種」を受け入れるならば、どの人のうちにもまんべんなく「種」は蒔かれる。
 そして、どの人にも「良い地」はある。
 イエスは「いばらを取り除け」なんてことは、全く仰っていない。
 岩地を耕せとも仰っていない。岩地は、岩地だ。
 ならば、良い地の部分を大切に扱おう。
 だからいつしか、豊かに実を結ぶに違いない。
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