どうしても必要なこと

 「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:38-42)

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 帰路、「今日は『この聖書箇所』を使おう、さて、どこだっけ」と、車中聖書をめくり始める。
 めくってみて、ルカ伝にあることはすぐに分かった。そして、この聖書箇所は前にも使ったよな、ということにも、すぐに気付いた。
 帰宅して自分のブログ内を検索する。「マルタ」と入力、ぽん。
 ヒットしたのは、全く偶然なことに、先月2月23日、ちょうど1ヶ月前の記事だった(こちら)。

 これから書こうと思っていることは、1ヶ月前とは一見違う。
 だが本質的にはおんなじだろう。

 「これは失いたくない」。
 そういう対象に、人は恐れを抱くのではなかろうか。
 対人関係でも、そうだ。
 「別離」自体が恐いのか、「別離に起因するさみしさ」を味わうことが恐いのか、ともかく「別離への恐れ」というのがあるだろう。
 お金もそうだ。
(いつだか書いた「金持ちの青年」(ボンボン)が、典型例だ。)

 だが、世の中そんなにも「失いたくないもの」ばかりで満ちあふれているだろうか?
 自分の周りにある事物に、A,B,C,……と記号を振ってみる。Zまで。
 すると、「R」あたりは、いの一番に不要だと気付く。放棄する。
 それから、「D」、こいつも、ま、いいかな…、と、これも手放す。
 そうやって消去法でどんどん消してゆく。
 イエスは仰った。
 「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」

 消去法で消して消して、そうすると「恐れ」も次々と消え去ってゆく。
 なにしろ「恐れ」の由来を消し去るのだ。
 そうやって、きっぷ良く消すという作業をするために、あるいは聖書を読み続けていたのかも知れない。
 「恐れ」が少なくなると緊張度も低くなり(構える必要がない)、結果、私の場合は「静か」になってきている。
 そしてもちろん、「すこやか」だ(構えないのでストレスが少ないんでしょう)。

 マルタは、客の接待に料理に、実に忙しい。
 そんなマルタだから、「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」なんていう腹立ちを隠そうとすらしない。
 そんなヒステリック・マルタにイエスは仰った。
 「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」

 そうして消していった最後の一つ「X」、これは自分のいのちですらないかも知れない。
 そのとき(「どのとき」だろう?)、私はこう振り返るに違いない。
 「なんで『あんなもの』や『こんなもの』に、あれほどまで執着していたのだろう?」と。
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