迷子

 「幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。
 雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。主の命令によって、イスラエル人は旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。
 長い間、雲が幕屋の上にとどまるときには、イスラエル人は主の戒めを守って、旅立たなかった。また雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。
 雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った。
 二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った。彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命令によって、主の戒めを守った。」(民9:15-23)

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 姪っ子達子ども3人と共に、7人でディズニーランドに行った。
 夜になり、ふと、真ん中の男の子を見失ってしまい、彼は迷子になってしまう。
 それで、上の聖書箇所を思い出した。
(だいぶ探した。)

 何しろディズニーランドだ、程なくして「お兄さん」が迷子のこの子と共に現れて、まあ無事だった。
(それにしても、たいしたもんだ。)
 もうすぐ小学三年になるこの子は、暗闇の恐怖に、泣きやまない。

 昼間は雲が導いてくれ、その雲は夜になると燃え輝いて、やはり導く。
 " wait " のときも、そうと教えてくれる。
 雲を見ていれば、「迷子」にならずに済む。
 この「迷子」というのは、人々からはぐれる、というよりも、「目標」を見失うということのような気がする。

 上の聖書箇所の人々は、このようにしてシナイ半島を40年間(?忘れた)もぐるぐる回って、ようやく「目標地」(ヨルダン川のほとり)にたどり着く。
 何年かかろうが、ぐるぐるしようが、見失いさえしなければ、たどり着くのだ。
 かえって、「霧やもや」を雲と勘違いしてしまうことを恐れた方が良さそうだ。
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