リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

武谷三段階論(その2)

2018-03-24 16:35:12 | その他
 こんにちは。いよいよ1年に一回のお花見の季節。たしか去年は、東京地方、土日休み派にはあいにくだったような。今年は明日が絶好の模様ですね。今日は寒いわ、まだ赤茶色のつぼみだわ、ですが。
 
 さて、本日のニュースは何にしましょう。
 先週までの番外ですが、パラリンピックが「いつのまにか」終わってしまったのが残念。何もニュースに乗せなかった(も同然の)NHKは視聴料を取る資格があるだろうか。と、書こうとしたんだけど、みんな納得済みではしょうがないんでやめたことをくやしいんで書いておきたいです。
 
 さて、今週。憲法改正は、「自民党の憲法改正推進本部は、、、戦力不保持を定める2項を維持して「自衛隊」を明記する方向で取りまとめる方針を決めた。新たに9条の2を設け、「(2項は)必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織」と位置づけて自衛隊を保持する案が軸となる。」(朝日デジタル)だそうで。 
 おやおや。わたし的には、「国防軍」化→経済の軍事化→日本経済崩壊→経済組織内2分裂→統制経済の流れを見る予定だったですが、「自衛隊」だってさ。資本主義者、余裕じゃん。それではもう一回憲法改正しないといけない。右翼的にはこのまんまじゃ半歩の進展しかならない。これでは国外戦争ができないし、といって次の改定では憲法改定の大義名分が消えてノンポリが賛成しなくなる。いいのかねえ。国家権力のお世話にならなくともまだだいじょぶだ、ということなんだろうね。まあ実際そうだけど。
 そうか、まだ余裕かあ、、、

 次。趣味の将棋で藤井聡太という人がいまして、ってすでに「例の藤井君」くらいでいいか。去年は連勝とか言っても腕はせいぜい中の上と思ったので記事にしませんでしたが、あれよあれよ、と1年で、もしかして今はベスト3の棋士がみんな負けても不思議はない、くらいまで来てしまいました。ほんと、ドラゴンボール状態。これは将棋にもコツがあるんだろうなあ、と思いました。
 たとえば、試合としての剣道は、第1に竹刀の早さ。これはコツも何もない。若さと練習。これで5段。第2に相手の構え(動き)と対応のセットの瞬間の肉体的把握。これで7段。第3に、気合。これは真剣ではない試合剣道では8段でも持てない人がいる。と、喝破したところですが、この伝でいけば、将棋は第1に、読み。これはできて4段。第2に、相手の形への瞬間的対応。これはできて7段、というところですが、頭脳労働ですからね、さらになんかがありそうです。1年で読みが早くなったわけではないだろうし、1年で全ての局面に対応力がセットされたわけもあるまいし。
 井山という囲碁の日本の7冠王も、若いくせに、中国の囲碁者にころっと負ける。やはり、何かがあるんですね。なんなのか知りたいものです。もっとも、年取ったら把握できない何かなのでしょう。頭脳労働ですからね。、

 さて、本日のテーマは題のとおりオタクもの。
 お手数ですが、ここから先お読みの方は時間等のエコのため(その1)と(その1.5)を見てもらって。その1が 2009-08-26 で、間に、自然科学的には一通り2017-02-04の広松批判中に書いてありますもので。 
 
 元に戻って、イギリスの近世農業を確認したくて題で借りた、常行敏夫という人の「市民革命前夜の市民社会」。見たら農業者のことはほとんど書いてないのですが、大塚久雄を補完したい、という著者の意図がいかにもずれてるので気になって書こうかと。
 著者の趣旨は、師である大塚が近世(近代)の歴史を産業資本と前期的資本の利害抗争の歴史にしてしまったが、そうではなく、絶対王政の政策の趣旨は必ずしもそうはいえない。なので、もっと社会史的、文化史的、政治史的領域を検討してみよう、というもののようです。
 でさ、問題は上記の「なので」の一瞬前。そこまで把握したなら素直に絶対王政の政策意図を展開すべきなんじゃないかねえ。それが武谷の3段階論というものです。
 唐突だね。
 現象論、実体論、本質論の武谷の3段階論は永遠の弁証法です。
 大塚氏なり常行氏なりが近世(近代)史は産業資本と前期的資本の対立だと把握したとしましょう。それはそれでいいや。しかし、それが真実だと思ってはいけない。この本質を頭においてもう一度実体を見つけに行ったら、その自分の頭から出てくるはずの現象と合わない事実があった。その事実はどうして出てきたのか、その契機はなんなのか。その契機と自分の理論との齟齬を組み込んで新たな本質論ができる。これにより全体としての理論が一段階螺旋を上がるわけです。そこを押さえずに、やみくもに自分が何の枠組みも持っていない事実を並べてみても、それはなんら本質に寄与しない。その事情は残念ながら本書で現実化している。
 ここでポイントは、自分が本質と思う枠組みを持っていて、かつ、問題の事象がそこに関わっているかどうか、です。 
 という意味では、こういっちゃあなんですが、大塚なんて一段下と思っていたけれど、さらに下から見ると(注)そこそこ上で、ということはマルクスなんてずいぶん上だな、と思ってしまいます。
 常行氏の著書中の展開も間違ってはいなそうですが、だからといってそれは歴史学ではあっても社会科学からは遠ざかるだけ。社会科学とは、余計な歴史の事実を取り除いてやっと手に入れることができた行為者に使用可能のテーゼなのですから。取り除く前に戻ることは退化といいます。まあこの人も馬鹿ではなく、それは分かっているもよう。師匠への遠慮じゃなく分かっているのなら、歴史学への寄与ではなく経済学理論の発展を心がければよかったのに。
 話は変わるようですが、そこでネットに現れるのが常行氏を批判している寺尾誠氏。ご自分がクリスチャンとしては立派なのでしょう、おかげで常行氏(もクリスチャンのもよう)の最大限善意的な資本家擁護もぜんぜん理解できないらしい。こうなってくるとほんと誰が悪いのか分からない(みんな個人の主観の反映)。歴史学は到底科学にはなりえませんね。

(注:常行氏がまとめたウェーバーのことです。常行氏は大塚のウェーバー理解が間違っていると思っているようですが、決してそうではありません。私も大塚とはもう40数年の理論的付き合いですし。初めて思いましたが、そうか、大塚は自分のほうがウェーバーより偉いと思ってたのか、と理解しました。
 誰も知らないでしょ。常行氏も知らないと思うんだ。違うよ常行さん、大塚は絶対自分が上だと思っていたから。もちろん私もそれに賛成です。)
 
コメント
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