リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

宇野理論の流通主義の意義

2013-02-23 22:18:17 | 行為
 こんばんは。おさむうございます。高橋優さんという人の「福笑い」という歌がありまして思うには、やはり人間苦労しないと笑顔の価値もわからないだろうな、てなところで。ほんとエリートには何一つわからねえ。
 
 なんて悪口はおきまして、ここのところ書き散らしが続いてましたので、本日は左翼用途のきまじめブログ。
 私儀、夜疲れると、って毎日ですが、マル・エンか黒寛を手に取ることが多く。
 黒田寛一、なんのかんのと悪いところばかりですが、それにしても若き黒田は戦後思想家としては一級品ですね。自分の頭で考えてますから。その他烏合の黒田批判者なんて他人(マルクス他)の引用ばかり。引用集のことを「護教本」といいますが、そんなもん、人間の理論の批判になどならない。
 
 で、本日は、黒田らの宇野弘蔵批判点、「宇野は流通主義でマルクスを歪めている」論。
 (以前もいいましたが、黒田が宇野を褒める理由などゼロなんですけどね。まあ、自分の頭で考えた姿勢だけは何者にも替え難いというところでしょうか。それなら私も同感ですが。)
 
 マルクス正統派や黒田のような疎外論主義者にとって、価値も疎外も労働者の生産行為から出るべきで、商人が価値を作るかのごとき「流通論」を根拠の半分とするような展開は我慢できないんでしょう。 
 その結果、受け売り人間が昂ずると、今検索したら、池田信夫のブログが検索結果トップで、いわく 『宇野理論は、「流通過程が生産過程を包摂する」という論理で、事実上、労働価値説を放棄している』云々。
 池田の近経の中身の程度も推し量られてしまいますが、って、どうせみんな知ってるか。
 
 さて、池田はほっておいて、以下は、疎外論主義者への講義。
 上記、違いますね。流通主義だから正しいのです。マルクスがそうでなかったとしたら(私も「マルクスはそうではなかった」と思いますが)、マルクスを越えて、ようやく宇野にして正しい資本主義把握がなされたということです。
 
 だいたい、マルクスのいう、「生産物からの疎外」なり、労働やら・類的本質やら・「人間」やらからの疎外、などというものは、なんら資本主義だからという特殊な現象ではありません。 え? おたくは違うとでも言うのかい? 農奴の生産形態なら、農奴労働者に各種疎外は起こらないとでもいうのかい?
 わざわざいってあげましょう。「残念でした。起こります」。「起こらない」、なんて主張する疎外論なら、自分の部屋の片隅で壁に向かって勝手に呟いているがいい。人民にいうような話ではない。
 
 そこで生産過程です。
 生産=労働過程で支配者の言うとおり働かされ支配者に貢献することは、もちろん、なんら資本主義ではない。それは古来「奴隷」制度の時代からあり続けてきた現象です。
 そこには、なんら、歴史的法則性のはいる余地はありません。人民にとって、彼らの歴史は、支配者の趣味のまま、支配者の盛衰のままの歴史社会なのです。

 しかし、資本主義はそうではありません。
 人民の労働は、すべてのマルキストが主張するとおり、収奪ではなく搾取される。すなわち、生産物の価値と労働者に支払われる価値との間に差がある。
 と、今ただいま述べたように、そのときの生産物とは、流通過程の生産物なのです。
 この状況が、人間にとっては、新しい意味をなす。
 すなわち、人民は、常に支配階級に支配されるのですが、それまでの生産様式の「収奪される人民」とは異なり(=支配者がやってきて武力で労働を強いられ生産物をむしりとられた生活とは異なり)、資本主義の生産過程においては、彼は、小生産者と同様に、自由なのです。人民労働者は、生産過程においてはそれ自体で自由なのです。
 なお、他方では、この事情を根拠に唯物史観が法則化される。
 
 なに? おれは自由ではない?
 それは資本家に身を売ってるからでしょ。だから、自分を売るのは生産過程じゃないの。売るんだから流通過程なの。
 ふんぞりかえってうじゃうじゃマルクス語をしゃべってればこんなだれでもわかる論議にならなくて済むやね。そりゃ卑怯だ。教授連のような講壇社会主義者ならどうせ生まれつき卑怯なのだが、活動家諸君が「大せんせえ」の真似をすりゃ、人民に見放される。それも身から出たサビだよね。。
 
 と、ここまでは、マルクス主義理解の論議。
 こんなことは私の著書には書く気にならないのでここに書いといた次第です。
 
 本当のことを付け加えると、マルクス主義ではなく行為の疎外論の見地からは、上記はいずれにしても間違っている。
 人民の疎外は、生産物のゆくえではなく、支配から生まれる。
 資本主義では、この支配が、流通過程の存在において、再生産されることとなる。
 というわけで、いずれにせよ、「流通主義」は正しい。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする