北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

我慢は敵か ~ 我慢しなくても良い時代の裏側

2021-12-03 23:00:33 | Weblog

 

 今日は会社の忘年会。

 以前から支店長は「まだコロナの不安はあるけれど、できれば今年は忘年会をしたいんですがね」と言っていたのですが、参加者も強制ではなく事前にアンケートを取って「もし忘年会をするとなると参加しますか」と社員の意思を確認し、ほとんどが「参加したい」という意向だったことから挙行を決定。

 昨年は中止でしたが、今年はススキノの一角のホテルを会場に2年ぶりの忘年会となりました。

 コロナ対策はいかばかりか、と思っていたのですが、向かい合って座る2列のテーブルの上には一人ひとりの前と横を仕切る透明のプラスチック板が置かれています。

 ものものしい感じにも慣れてきたとはいえ、お互いに板で遮られて声が通らないのでつい大きめの声を出すことになり、逆効果じゃないかとに心で苦笑いしながらも楽しいひと時を過ごしました。

 ワンフロアの職場で社員の姿は見渡せる職場環境ではありますが、趣味の話から家庭などプライベートな話、そして仕事の奥深い話まで、普段の職場ではしないような話題でお互いの人となりを知ることができました。

 話題は最近の若者の忍耐力についてになりました。

 ある同僚が「最近の若者は昔に比べて忍耐力がなくなった、と言いますが、社会全体も忍耐しなくても良くなったんだと思うんです」と言う。

「どうしてそう思うんです?」と私。
「やはりネットだったりサブスクだったり、社会の進化でしょうね。
 昔なら分からないことは辞書や辞典を調べて答えを見つけ出したのが、今では『Hey,Siri』で答えだけを教えてくれます。
 学校でも『嫌なことがあったら伝えて』とか『最後には学校が嫌なら行かなくてもいい』という風潮になってきました。
 趣味だって、道具の使い方とか動作だとか、わからないことをいろいろな本を見ながら苦労して身に着けてきたんですが、今はyoutubeなどの動画が増えてあまり苦労しなくても情報をたくさんの人たちがこぞって教えてくれます。
 先輩や年寄りの苦労話も、そこからなにか仕事とか人生上のエッセンスが得られるかと思って夜遅くまで飲むのに付き合っていましたが、今ならそんな面倒な時間は過ごさなくても良い雰囲気になりましたよね」

 昔ならば仕方のなかった、「余計な手間」や「余計な時間」をカットできるようになり、ある意味便利だと思っていましたが、それは余計な手間を我慢することなく求めるものにたどり着ける社会になったのだ、という視点は面白い。

 我慢しなくても良いという風潮が、職場でも一人前になるための修行のような時間に嫌気がさして辞めてしまうということにつながるのでしょうか。

 嫌気がさす以上に我慢の美徳や、我慢してこそ得られるものの大きさを誰か示してはくれないものか。


      ◆


 以前現役の官庁職員と話をしていて、「最近は公務員たるわが職場も人気がありません」と嘆いていました。

 その理由を尋ねると、「民間の建設会社さんはリクルートの際に『入社したらこんなこともできるし、こんな仕事に携われる』という魅力的な職場の仕事をプレゼンしていました。それに比べると我々官庁の仕事って、そんなプレゼンができていないと感じました。
 面白いことに出会うまでには長い下積みの期間があるんだ、なんて言っているようでは若者にうけないんだな、と思いました」

 忍耐は美徳ではなく、逃げ出しても良いという忌むべきことなんでしょうか。

 こんなことを言うと、「はい、それ昭和です」と言われそうですが。
 

コメント
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